間章

播磨才賀の憂鬱




 仕事にいかねばならぬ。

 だが、いけぬ。

 クロが離れてくれないばかりに。


 播磨は自室のドアを目前にして、途方に暮れていた。

 抱えたクロがつぶらな瞳で見上げてくる。しっぽをゆったり振っていることから、ご機嫌なのだろう。

 何よりである。

 しかしいつまでも抱えてはいられない。


「俺はそろそろ仕事にいかなければならない。だからいい加減、降りてくれ」

「ギャオ!」


 一緒に行くと言っている。ふすっと鼻を鳴らし、張り切り具合も主張してきた。

 不思議なもので、名前をつけた後から心情が伝わってくるようになった。

 祖の神に放り込まれたあの妙な世界からともに戻って以来、この黒豹は片時もそばを離れようとしない。食事はおろか睡眠もとっていなかった。

 元気そうだが、この状態で問題ないのか気にはなる。

 しかしながら仕事があるため、じっくり構ってはいられなかった。


 播磨は試しに、クロを支えていた手を放した。がっちりと腹部にしがみつかれる。


「おい、爪を立てるな」


 ならば、しかと抱えておけと睨み上げ、尻尾で脚まで叩いてきた。

 この黒豹は、大変自己主張が激しい。

 抜け毛がまったくないのはありがたいが、爪は遠慮なく立ててくるから、服に穴が空いてしまう。

 許しがたい。

 けれども、極力文句は言わないようにしている。

 クロはまだ子どもだ。

 あまり目くじらを立てるのもいかがなものかと思うし、咎めすぎて険悪な仲にもなりたくない。

 なにせこれから先、長い付き合いになるのだから。


 とはいえ、足手まといにしかならないであろうお子様など、仕事に連れてはいけぬ。


 マントルピースに置かれた時計を一瞥し、播磨は無言でクロの後ろ首をつかんだ。

 バリッと引きはがし、ポーンとクイーンサイズのベッドへ放り投げる。

 すかさずドアの外へ出て、閉めた。

 ホッとしたのも束の間。


 ぎぃやああああ、ギャオオオオオ!!


 室内からクロの大絶叫が響いた。

 なおかつ、ビリビリバリバリ、どったんばったん。

 何かを引き裂く音と、物がひっくり返る音。

 さらには、ドアに衝撃音まで走った。

 ドアに体当たりを喰らわせている。いまにも重厚な木の扉が破壊されそうだ。


 顔色を変えた播磨は、ドアを開けた。


「クロ! やめ――うぐっ」


 黒い弾丸が腹に突っ込んできた。

 反射で抱えつつ、室内を見た。

 ベッドのシーツは引き裂かれ、ソファは脚が天井を向き、絨毯までも激しくめくれている。

 まるで嵐が吹き荒れたような惨状となっていた。


 播磨は呆然と、眼下のクロを見た。

 うるうるのおめめに、ふかふかの毛並み。

 楠木湊、ならびに家族がメロメロになるのも致し方なかろう愛らしさである。


「きゃお~」


 やけにかわいらしく鳴き、すねていることを主張してきた。

 ずっと一緒にいる。

 そう言い募ってくる。

 〝いたい〟という願望ではなく、〝いる〟という決定事項を伝えてくるあたり、いかにも身勝手な神の遣わした獣といえよう。


 ともあれクロは幼くとも、すでにその力は、通常の野生動物をはるかに凌駕している。

 しかも、まだ常人に見られないよう姿を隠すこともできない。


 そんな目立つ肉食獣の子を抱え、悪霊祓いをしろというのか。

 まともに印も結べないのも、わかりきっている。


「どうすればいいんだ……」


 誰かに相談すべきだ。

 ただし人間は、論外である。誰も対処方法など知りはしないだろう。

 ならば、やはり生みの親たる祖神しかないのだろうか。

 播磨は顔が歪むのを抑えられなかった。


「それは、いやだ」


 いまだ己を認識しもしない相手に頼るなぞ御免である。

 ならば――。

 その時、頭に浮かんだのは、白い大狼の姿であった。





 ちょうどその頃、頼りになるかもしれない山神はといえば。

 楠木邸のリビングで、お掃除ロボットに乗って遊んでいた。


「今日もなかなかの乗り心地ぞ」


 むろん御身は小さくしている。ミニミニサイズの尻尾が元気に振られ、わずかな床の埃が舞う。

 それを横目に、モップを手にした湊が横切っていく。


「掃除を手伝っているのか邪魔をしているか、どっちなんだか」


 半笑いで縁側へ出ていった。


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