4 春は変化の季節
ひととおり庭の清掃を終えたら、裏門の外から己の名を呼ぶ声がした。
「湊ー! 山菜置いておきますから食べてくださいねー!」
「ありがとー!」
山神の
随分久しぶりになる。近頃、眷属たちはバラバラに行動していて、一匹ずつしか訪れなくなっていた。
セリは格子戸の前に竹籠を置いて帰っていった。
遠目からでもこんもり盛られたタラの芽、ノビル、フキノトウが確認できた。旬の山菜のお裾分けである。
本来なら、これがお隣さんとの適切な距離感だろう。
「この鼻を通っていく独特な青くささ。それもまたよき」
お隣さんという単語に首をかしげてしまう状態の隣神は、フゴフゴと鼻を鳴らしつつ、まだ草餅を愉しんでいる。
「――このこし餡たるや、塩気と甘さが渾然一体となって、絶妙の味わいが我の心を惑わせる……いやはやなんとも――」
「湊ー! よもぎだよー!」
山神の甘味絶賛をウツギの声が遮った。
「やはり、こし餡だからこそのこのうまさよな。つぶ餡ではこうまで――」
ひとり語り続ける山神を放って、湊が裏門へと向かう。
二本足で立つウツギが、その身がすっぽり収まるほどの竹籠を頭上に掲げていた。
「お裾分けありがとう、ウツギ。寄っていかないの?」
「うん、やめておくよ。今、忙しいんだ」
「セリもすぐ帰っていったんだよ。トリカ元気?」
「うん、元気。ちょっと今、バタバタしているんだ。ほら、春って変なのがいっぱい湧くでしょ。人間もそうじゃない」
「……そうだね」
否定できぬ。
春になると学び舎などで『変質者に注意されたし』のお触れが回るのは周知の事実である。
格子戸を隔てたウツギは達観した眼をしていた。
眷属たちは創られて一年未満だが、山神の記憶を引き継いでおり、己で見知っておらずとも、知識だけは豊富に有している。
そのため、人の
ウツギが湊越しに、縁側の山神を見やる。
「いつも迷惑かけてごめんね。ありがとう」
戸を開けると、恭しく竹籠を渡されてしまった。深い感謝の念がこもった手つきだった。
しばらく会わないあいだに、一足飛びに大人になってしまったようで戸惑う。
「……いや、そうでもないよ。にぎやかで楽しいし」
少しだけ寂しさを覚えた。
完全に隣に住む親戚のおっさん思考である。
「じゃあね!」
「……うん、またね」
元気よく四つ足で駆け去る白い背中が、緑の木立に見えなくなるまで見送った。
二つの竹籠を抱え、縁側へと戻る。鼻をくすぐるよもぎの香りは濃い。
「今年のも美味しそうだ」
「我の
「間違ってない。間違ってないけど、そういわれると微妙な気持ちになる」
「なにゆえ」
湯呑みを前足で挟み、山神は取り澄ました面持ちでお茶を飲んでいる。
それを後目に竹籠をキッチンに置き、縁側へと戻った。その上着のポケットを山神が流し見る。
「効果が切れかかっておるぞ」
「ん? ああ、メモ帳か」
取り出したメモ帳をめくってみると、埋めていた字がほとんど消えてしまっていた。
「全然気づかなかった。まあ、もともと少し薄れていたからな……」
「書き足せと云うたであろうに」
「出かける直前にいわれてもね。ま、保ったからいいでしょ」
霊障を受けない体質ゆえに、湊の危機管理はやや甘い。
出かける際、メモ帳自体を忘れはしないが、数枚に字を書く程度にすぎない。
祓いの能力が上がった今、それで十分事足りてはいた。
「改めて思ったんだけど、俺の力って紙から漏れ出してるみたいな感じだよね」
「まき散らしておる、が正解であろうよ」
「……そんないい方されると、よそ様に迷惑かけているような気になる」
「悪しきモノにすれば迷惑以外のなにものではあるまい。やつらにとって、お主は通り魔的存在ぞ」
「ひどいいわれようだな」
苦笑しつつ、メモ帳を座卓に置く。
「あとで護符書く時、一緒に俺用のも書こう――」
ぱしゃんっ。大きな水音が立った。霊亀か応龍がお呼びかと、御池へと顔を向ける。
そこには見慣れないモノが存在していた。
「……あれって、島? なんで……?」
なぜか御池に中島ができていた。
ひょうたん型の小さいほうが霊亀の住まいだ。
そこの中央に突如として尖った山が現れた。御池に浮かぶ中島だ。
いや、中島といっていいものか、池の端までみっちり詰まるほど大きい。
湊が御池へと向かうと、のったり起き上がった山神もあとに続く。
「……亀さんだ」
山は見知った色、輝かしいイエローパール。黄みがかった真珠の山である。
ここのところ、ますます煌めき度が増していた霊亀の甲羅は巨大化し、なお一層の光を見せつけてきた。
その周囲をぐるりと回れば、霊亀の顔部分があった。
いつも半分閉じている瞼が全部上がっていて、完全な困り顔だった。四肢がろくに動かせず、難儀しているようだ。
「大丈夫……じゃないよな」
苦しそうな様子はない。ただひたすら困っている。
「少しずつ大きくなってきたなとは思ってたけど、まさかいきなりこんなに一気に巨大化するなんて……俺よりはるかにデカイ」
甲羅山の頂の位置が己の頭を超えている。こうまで大きくなってしまえば、抱えることすら不可能だ。
「まだまだ大きくなるらしいぞ」
「これ以上!? なら、もう御池には住めないんじゃ……」
ぶるっと甲羅が震えた。
こちらを窺っていた太鼓橋にいる麒麟、その向こうの宙に浮いた応龍が同情的な気配を漂わせる。
どうしたものか、と悩んでいれば、山神が動いた。
「どれどれ、我に任せておけ」
前足で軽く甲羅に触れた途端、しゅんっと霊亀が小さくなった。
直径二十センチに満たない亀が、ぷくぷくと気泡を上げながら水底へと沈んでいく。すい〜っとひとかきで太鼓橋をくぐり、己が住まいへと泳いでいった。
「……うれしそうだ。随分あっさりと小さくなったね」
「ここは我の力でどうにでもなるからな」
ふすっと誇らしげに鼻を鳴らした。山神さまさまである。その足元近く、御池の片隅に竜宮門が見える。
緑の水草の合間から見え隠れする朱と白を基調とした門。
俗世にまったく関心を示さない霊亀と応龍は時折、そこを通ってどこかへと出かけている。
果たして行き先がどこなのか。もしや……と頭に浮かぶ候補はあるものの、訊かないと決めているゆえに、いまだ謎のままだ。
湊が縁側へと戻っていく。その後ろ姿を、お座りした山神と羽をはためかせた応龍が無言で見つめていた。
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