32 あんよは上手




 そろそろ雨が上がりそうだ。

 太鼓橋を渡っていた湊は、鉛色の空を仰ぎながら思った。高空から地上めがけて降り注ぐ小雨は一滴も落ちてはこない。屋根のあたりで消えてしまう現象は、奇妙でしかないがもう慣れた。


 かさりとかすかな音が鳴り、見ればエゾモモンガが一番近い飛び石の所にいた。

 神霊は相変わらず話さないうえ、仕草で応えもしない。

 それでも構わず、寄ってきた時は話しかけるようにしていた。


 それが功を奏したのか、たまにともに食事を摂るようになったおかげか、逃げ出すことはめっきり減っていた。

 山神から神霊に対して『丁寧な言葉遣いは不要』と言われているため、セリたちと同じように接している。


 エゾモモンガは湊が近づくと、背を向けた。歩み出したものの、二歩で転んでしまう。

 やはりどうしても、二本足で歩くクセが抜けないらしい。

 地に伏せた小さな体に、駆け寄りたくなる衝動を湊は抑えた。近づきすぎたら慌てふためいて逃げられるからだ。


「あの身は頑丈ぞ、怪我なぞほぼせぬ」


 縁側に鎮座し、眺めていた山神が告げた。


「でも、痛みはあるんだよね?」

「――多少はな。なにあやつは赤子ではない。泣き喚きはせぬ」

「そうかもだけど……」


 見た目も相まって、庇護欲を刺激されていた。

 とはいえ、エゾモモンガは意外にも根性はあり、起き上がる。その神霊へ、縁側から飛び降りた山神が眼を向けた。


「こちらへ、くるがよい」


 神霊が大きく身震いした。

 明らかに怯えているようだが拒否することはなく、鈍足ながらもそばにきた。

 湊の足元に。

 そのかかとに隠れつつ、大狼と相対する。


 湊は、なんともいえない気持ちになった。

 神霊は人である己より、山神のほうが怖いらしいと、なんとなく気づいてはいた。それが決定的になってしまった。

 思えば山神から神霊に近づいたことはなく、おそらく察していたのだろう。


 三メートル以上離れていようとも、大狼はエゾモモンガが見上げなければならないほど巨体だ。


「山神さんが大きいから怖いの?」


 試しに訊いてみるも、エゾモモンガはギュッと足首を握ってくるだけで答えない。

 細かく震える神霊を見つめていた山神だったが、突如その身が蜃気楼のごとくゆらぎ、一瞬にして小さくなった。

 その身は子狼チワワサイズ。ふすっと不遜に鼻を鳴らすも威圧感は微塵もない。


 エゾモモンガは、口をポカンと開けていた。


「久しぶりの小さい山神さんだ。ちょっと懐かしい気持ちになったよ」


 力が弱まって小さくなったわけではないから、湊もただ微笑ましく見ていられた。

 ちんまりサイズの彼らは目線も近い。これなら大丈夫かと思われたが――。


「ダメ? まだ怖い?」


 エゾモモンガの震えは止まらず、湊の足首に額を押しつけた。

 小狼が特大のため息をつき、苦い声でつぶやく。


「こやつは犬が苦手らしい」

「あー……」


 なにせよく似ている。

 コメントのしようもなく、湊は苦笑するしかなかった。


「我、狼ぞ」


 山神は不満げに尾で地を叩いた。


「――ともあれ、ぬしにこれを与えようぞ」


 ちょいと前足を挙げると、肉球の下にボールが現れた。

 やわらかいゴムボールである。それを踏んづける小狼にたいそう似合っている。


「これを追いかけるうちに、その身を自在に扱えるようになるであろう」


 山神もちゃんと考えていたらしい。

 湊が思っていれば、ほれ、と転がされたボールがこちらへ向かってくる。

 エゾモモンガは二本足で前に進み出るも、すかさず体を倒して四肢で駆け、つんと鼻で受け止めた。


 その時、バチャンと滝で派手な水しぶきが上がった。

 幼い鯉が落ちた音だ。

 隣町の神の眷属御一行様は相変わらずここを修行場としているため、今日も訪れていた。


 神霊が滝をじっと見つめる。

 幼い鯉たちは何度失敗しても挫けず、果敢に滝登りに挑み続けている。

 軽く眉間にシワを寄せたエゾモモンガが、ボールを前へ転がした。コロコロ、コロコロ。前をゆく丸い玉を懸命に追いかける。もちろん、四つの足で地を蹴って。追いつくと前足や鼻先で押しやり、再び追った。


「この調子ならすぐ四足歩行に慣れそうだね」

「そうさな」


 湊と山神が慈愛のこもった面持ちで眺めていると、ボールを鼻先で跳ね上げた直後、つまずいてボールともども転がった。



 さて、お次は昼食でもと思っていたら、山神が声をかけてきた。


「来客ぞ」


 鼻先で裏門を示された。


「――どちら様かな」


 裏門から訪れるのは、人ならざるモノと相場が決まっている。


 湊が早足で向かうと、格子戸越しに見えたのは、ツムギだった。

 ちょこんとお座りするその首に唐草模様の結び目がある。

 お使いの途中に、先日のきび団子のお礼に寄ったのかもしれない。

 思いつつ、より裏門に近づいた湊は、我が目を疑った。


 いつものお澄まし黒狐はそこにいなかった。

 黒光りする美しき毛並みは艶を失い、荒れている。フワッと時たま膨らむ様子は静電気であろうか。

 しかも猫背でうつむいていて、影が落ちるその顔もひどく暗い。そのうえ禍々しい黒雲を背負っているようにも見えた。

 神の眷属としてあるまじき様相である。


「ツムギ、どうしたの!?」

「――ええ、まぁ、ちょっと……。よそと揉め事がありまして……」


 据わった眼をして、苛立たしげに告げた。いやにやさぐれている。

 ツムギの発言が気になったものの、何はともあれ回復してからだろう。

 ここには特効薬とも称すべき露天風呂がある。

 湊は裏門を開けた。


「ともかくまずは温泉へどうぞ」


 ツムギは深々と頭を下げた。


「まことに、まことにありがとうございます……!」


 いそいそと裏門をくぐった小狐は温泉へ駆け出した。


 座布団に身を横たえた山神がその後ろ姿を見やり、大きなため息をついて前足に顎を乗せた。

 その下方、ボールを転がすエゾモモンガが縁側をちまちま迂回していく。

 明るさが視界の端をかすめ、湊は空を仰いだ。雲の切れ間から陽光が放射状に地上へ降り注いでいる。


「天使の梯子はしごだ」


 一説によると、幸運が訪れる前兆らしい。

 本当のところわかりはしないけれども、自然からの贈り物はうれしいものだ。

 ドボンと温泉に一本の水柱が立ち、滝壺にパチャパチャ落ちる音が響く中、庭の中心に佇む湊はしばらく薄明光線を見上げていた。


 数日後、待望のかずら橋の架け替え工事がはじまった。

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