第4章
1 世間は梅雨でも楠木邸は春一色
梅雨を迎えた今日この頃。途切れることのない雨が、御山の木々に降り注いでいる。
うっすらけぶるその緑たちを背景にする楠木邸には、雨粒は一つとして落ちてこない。
神域と化した敷地内は、いつ
そんな楠木邸の庭には、ゆるやかな川が流れている。
ここに居座る
むろん、滝も健在である。
軽やかな滝の音が木霊する中、管理人たる
太鼓橋を渡り、その歩幅に合わせて設置された飛び石を一つ、一つ踏んでいく。その表情は、至って穏やかだ。
緑に囲まれた庭園を歩くだけで気持ちは凪ぎ、心も安らぐというもの。
庭の中心に近づくと、湊の膝まで成長したクスノキが迎えてくれた。
急成長の果てに倒され、今一度種から芽吹いた楠木邸のシンボルツリー、御神木クスノキ。それなりに葉も増えたが、依然スカスカである。
そのクスノキの前で、湊が膝を折った。
「水足りてる?」
枝をしならせ、頷く。さらに、ぴこっと一番上の葉のみが垂直に立てた。
これは『見ててほしい』という意味だ。
見守っていると、ざわざわと全部の葉が動き出した。
ググッと幹の高さが伸びて幅も広がる。小枝たちもスルスルと天へ向かっていく。土に這う根もその数と太さを増した。
主枝の先端が湊の腰あたりまできたら、すべての動きと音が止まった。
幹と小枝がさざめくようにゆれ、バサッと一挙に生い茂る。
こんもりとした樹冠は、まさにクスノキだ。
湊は目を見張った。
「――木だ。すごくちっちゃい木になった。大木クスノキのミニチュア版みたいだ」
何かの拍子に折れてしまいそうだった頼りなさは、もうない。どっしりと大地に根を張り、シンボルツリーたる威厳のある佇まいとなった。
大きなブロッコリーのようにも見えなくもないけれども。
クスノキが幹を軽くそらした。人が胸を張る仕草で『どうですか!』と自慢げに告げていた。
「随分可愛らしい背丈だけど、紛うことなきクスノキだよ」
湊のうれしげな感想を聞くや、まあるい樹冠がご機嫌に振れた。
クスノキが春風と戯れるのを湊が眺めていると、パチャリと水のはねる音がした。
それは
何より、神の庭の住民たる二瑞獣は昨日、竜宮門から外出して不在である。
つまり、別のモノが立てた音だ。
弾かれたように湊が振り返る。滝の下流が流れ着く箇所――壁面に金色の光が映っていた。
隣町に住まう神の眷属――鯉御一行様がおいでなすった。
ここの小滝を修行場とする彼らを出迎えるため、湊は足早にそこへ寄る。
壁の際から顔だけをのぞかせて、そこにとどまる鯉たちの真ん中に金の鯉がいた。
「どうぞ」
許可を出したら、ぞろぞろ出てきた。金の鯉以外、稚魚ばかりである。
御池を川にした時、うっかり迷い込んでしまった彼らであったが、今では滝を幼い眷属たちの修行場としてちょくちょく訪れている。
我先にと急ぐ色とりどりの稚魚のあとから、ぬっと大きな銀の鯉が現れた。
のったり泳ぐその背に小ぶりな籠を乗っけて。
その丸い竹籠には、夏みかんがもりもりに盛られてある。
「え……」
湊は困惑した。
まったくもってどうなっているかわからぬが、だいぶ力は強いらしい。
音もなく銀の鯉が近づいてきた。川の際に立つ湊の真下にくると、見上げた。
『たびたびお邪魔してすまない。この夏みかんを受け取ってくれ』
その眼と態度が告げている。
「――ありがとうございます」
神からの施しは拒否するべからず。
だが、雷神は別。そう理解している湊は、素直に両手で恭しく受け取った。満足そうな銀の鯉は優雅に小滝へ泳いでいった。
鯉からの頂き物は初になる。その夏みかんを湊はじっくり眺めた。
難なくつかめる小粒サイズ。濃い黄色一色の固い表皮はデコボコが目立つものの、普通の夏みかんにしか見えない。
だがしかし、神の類いが持ってきたモノだ。
果たしてこれは、人である己が口にしていいのか否か。
悩みながら湊は再度小径を渡る。
縁側に近づいた時、ゴツッと聞き慣れぬ音を耳にした。
そちらには、壁際にひっそりと並ぶ石灯籠しかない。
片方の火袋は、桜真珠色の光が点滅している。
そこで眠る鳳凰が、立てた音ではなかった。
もう一基の暗い火袋からであった。
そこには、
某所で穢れていたところを山神によって浄化され、眷属となることで救われた神霊は、そこに入ってから一度も出てきていない。
ゆえに、湊はその姿を見たことがない。
山神の眷属三匹と同じ、テンではないと山神から聞かされている。
お目にかかれるのを楽しみにしているが、懸念もあった。
神霊は、人の都合により
ならば、その同族たる湊を受け入れるとは限らないだろう。
そう考える湊は極力、神霊側の石灯籠には近づかないようにしていた。
静寂さを保つ石灯籠の間近に、藤の花の植木鉢がある。
これは、近くの低山に鎮座する稲荷神社に住まう
山神の助言によりそこに置いた時、神霊は何も反応しなかった。
そんなつれなかったモノが、ようやく動きをみせた。
コツッとまたささやかな音がする。
紛れもなく神霊は、目覚めている。
火袋の中で自由に身動きできるのならば、テンより小柄だ。
鳳凰と同等かもしれぬ。
思いつつ、湊は手元に視線を落とした。
神霊は夏みかんに興味があるのではないか。いつもと違うのはこれしかあるまい。
さり気なーく、竹籠を石灯籠へ向ける。
コツコツコツコツッ。内側から火袋のガラス窓を叩いている。なんたる顕著な反応であろうか。
どうやら神霊は、みかんがお好きらしい。
湊の口角が引き上がる。抜き足差し足忍び足で、石灯籠の前に立った。音はやみ、沈黙している。
だが注意して見ると、暗かったガラス窓が薄くなっていた。
下手に声をかけるのは、まずかろう。湊は
なお、人嫌い代表たる麒麟は、相も変わらず世界を放浪中だ。
意外に律義なためお土産を欠かさないから、きっとまた珍しい果実を持ち返ってくるだろう。
先日のように歓迎できぬお土産――悪霊に憑かれては来まい。四霊には湊お手製の御守りを持たせてあるのだから。
ともあれ、神霊である。
夏みかんは人用か神用か判然としないが、いずれにせよ、神霊にとって問題にはなるまい。
湊は竹籠から夏みかんを一個取り、そっと火袋の前に置き、素早く三歩後退した。
カタカタ、カタカタ。ガラス窓がゆれる。
けれども、わずかも開かなかった。
それをしばらく眺めた湊は、静かにその場を離れた。
焦りは禁物である。無理やり暴くつもりもさらさらなかった。
新入りの神霊も他の神たち同様、ここで健やかに過ごしてほしい。ただそれだけを願っている。
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