29 素晴らしい効き目であったとさ
「今日はこっちでいいかな。山神さんいいよね?」
「よかろう」
播磨は戸惑っている。
油性ペン製はそうそう消えはしないが、墨製であれば取り扱いに注意を払う必要があると思ったのだろう。
「気軽に洗えないのか……?」
「いえ、たぶん普通の水では消せないです」
「……そうか。なら、頼む」
余計な詮索をしないのが播磨のよいところである。
悪霊さえ始末できればそれでいい。単純明快で清い。
己に害がないのなら、基本、放置する性格でもある。
クスノキが動いている様子を見た当初は呆気にとられていたが、今ではクスノキのあいさつに軽く会釈して応えている。順応性も高い。
湊が静かに、かつ丁寧に。二つの力を込め、格子紋を描いていく。
いつもより少し時間をかけ、紡がれていく。
翡翠の光を上から閉じ込める銀の六角形たち。小さなそれらは互いにくっついているものの、形は不ぞろいだ。
それが視えている播磨は、重くなった瞼を懸命に開き、ただ見守った。
最後の一本が引かれる。さすれば、翡翠の光を覆う銀の
「身体はどうもありませんか」
「ああ……」
墨痕鮮やかに入った格子紋は、いつもよりやや太い。
播磨が指先で線に触れても、消えることも伸びることもない。その指を裏返してみても、何もついてはいなかった。
「まだ新しい力をうまく遣いこなせてないんですよね」
やや照れくさそうに湊が告げる。播磨は手の甲に見入ったままだ。
己には視えないモノが播磨には視えているのだろう。
それを多少羨ましいと思う。己が力を己の目で視れたのなら、祓う力も閉じ込める力の上達も、もっと早いだろう。
それは、ないものねだりというものだ。己の力は十分非凡だという自覚はある。
あまり欲張るものではない。そう気持ちを戒めた。
二人のやり取りを黙って眺めていた山神が起き上がる。
「どれ、たまには我からも与えてやろう」
「山神さんが……? 珍しいね」
「そやつの手をこちらに」
「はいはい」
播磨には何も告げずに、その手を山神の前へと誘導する。
山神が後ろ足で立ち上がり、前足を目一杯伸ばし、よいしょと格子紋に触れた。
その仕草は『お手』にしか見えない。湊は一人、和んだ。
一方、播磨は大混乱だった。
ぺふっとあたたかくて小さき
そして触れたと同時、そこを中心にぱっと金の粒子が散る。その粒子が消えたかと思えば、翡翠の光が完全に消えてしまった。
むろん湊には視えていない。播磨の手を離し、山神を見やる。
「山神さん、なにしたの」
「不完全なお主の力を完全にしてやったのよ」
「閉じ込めきったってこと?」
「左様」
「……お手数おかけしました」
「甘酒饅頭でよいぞ」
「今しばらくお待ちください。播磨さん、山神さんが完璧に閉じ込めてくれたらしいので……いや、待てよ。今さらだけど、これって直接悪霊に触れないと祓えないってことになるのか」
「……いつもそうしている」
「えっ、そうだったんですか!?」
実は湊、播磨が悪霊を殴打して祓っていることを知らなかった。てっきり現場で手袋を外して、そばに寄るぐらいだと想像していた。
播磨は折り目正しく、物静かで落ち着き払った人物にしか見えない。
まさか日頃の鬱憤晴らしをかねて、悪霊相手に暴れているとは思いもよらない。
礼を述べてくる播磨はうれしそうだ。ならば、よかろう。
湊がうなずく。人物像を改めねばならぬようではある。
播磨が深く長く息をついた。
「ここのところ、忙しくてな」
思わず、こぼしてしまったようだった。気が抜けたのかもしれない。
「でしょうね。見るからにお疲れですからね」
湊も大概遠慮がなくなってきていた。
元から人見知りもしなければ、幼い頃から接客業もそれなりにこなしてきている。仕事上でしか付き合いのない相手だろうと気負いはしない。
「今は悪霊が異常に湧く時期だからな」
「そんな時期があるんですか」
播磨が裏門の先へと視線を流した。
「少し前に、この近くに巣食いかけていた悪霊を祓ったばかりなんだが、さほど日を置かずまた巣食うだろう」
湊へと視線を戻す。
「このあたりは今は清浄だ。だがすぐ近くに悪霊が巣食いやすい場所がある。あえていうまでもないだろうが、気をつけてくれ」
「……はい」
おそらく先日山帰りに通りかかったため池のことだろう。播磨の見たのは、そちらの方角だった。
「相変わらず、顔色の悪い人間ね〜」
「ここにきた時より、マシにはなったよね」
温泉に入っていた雷神と風神が飛んできた。
彼らにタオルは必要ない。ぺたぺたと縁側を歩くその足から水など滴るはずもなく、身体もすでに乾いている。
雷神が播磨に近づき、顔を傾けて横から播磨の顔を覗き込む。
せっかくよくなっていた顔色が再び青くなった。背筋も物差しが差し込まれたように伸びる。
「……これは、だいぶお疲れだわ。お気の毒ね。電撃ショックいっとく?」
「するなら、事前に伝えますけど」
自由な雷神を止める術はない。ただ播磨の衝撃を軽くしてやることならできるだろう。
湊も雷神の電撃は体験済みである。全身に電流が駆けめぐるが、効果は保証できる。
ぜひやってもらうとよろしい。
「……いや、俺の時は疲れというより、筋肉痛だったな」
「いっくわよ〜」
「まあ、効くだろ……たぶん。播磨さん、雷様が電気ショックのようなものをかけてあげるって仰ってます」
「……は?」
戦々恐々となった播磨の背後に、超絶笑顔の雷神が立った。
声なき悲鳴があがる中、縁側の間近を麒麟が砂塵を巻き上げて駆けていく。その風圧であたりに舞う桜が対流を起こし、渦を巻いた。
霊亀が御池の外周を亀にあるまじき速度で回り続けている。水面から跳んだ応龍は、その瞬間、最高高度記録を塗り替える快挙を成し遂げた。
はらりはらりと舞い散る桜の花弁とともに、クスノキが躍るように樹冠をうごめかせる。
石灯籠の周りだけは空気が違うように、ただ光が明滅していた。
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