64 リニューアル


 湊が日課の業務――水やりをしていた。

 ざわざわ。風の大渦に巻かれ、霧状の神水を浴びるクスノキがすべての枝を動かして喜んでいる。回る風の中には桜の花びらは一枚もない。

 水やりの時は、なぜか桜吹雪はやんでいた。


 現在クスノキの幹幅は、優に一メートルを超えており、地面に縦横無尽に這う根も広範囲に渡る。

 さすがにブリキのじょうろで水を与えるのは、あまりに、手間がかかる。


 よって、御池から応龍が飛ばしてくれる水を風で巻き込み、まずは根本、それから上へとまんべんなく全体に行き渡るように水をあげていた。

 さんさんと降り注ぐ陽光、新鮮な神水。おかげでクスノキはすくすくと育って……は、いない。


 応龍の力で大幅に育って以降、まったく変化しておらず、平屋の屋根をやや超える高さのままだ。


 クスノキは単体であれば、樹冠が丸みを帯びるものである。ご多分に漏れず、こんもりとしたその樹冠は今日も青々と生い茂っている。

 成長は止まっても、元気なのは一目瞭然だった。

 わさわさと自ら葉枝も振り、一番下の枝に引っかけられたしめ縄もゆらして遊んでいた。


 クスノキは己を取り巻く風にその身を任せている。

 風の中にはクスノキの葉もない。近頃では、特定の日にしか葉や枝を落とさなくなっていた。おかげで掃除が楽になっている。うちのクスノキは本当にいい子である。


「そろそろいい?」


 ざわざわ。ゆれが大きくなった。


「はいはい」


 まだ、もう少し。

 そういっているのであろうと、なんとなくわかるようになってきていた。多少のわがままなぞかわいいものだ。お気に召すまで風で水を与え続けた。

 本樹自ら、ご飯の量を教えてくれるから、大変助かってもいる。


 そうしてしばらく経つと、片側の枝葉だけを動かした。


「わかった」


『もう己は十分だから、ほかの木をやってあげて』といっているのだと、以前山神に教えてもらっていた。

 その山神はといえば、本日お出かけ、ではなく珍しく自宅に戻っていた。


 そのうちひょっこり帰ってくるだろう。

 普通に『帰ってくる』と頭に浮かぶ湊だった。

 周囲の木々へも同様に水やりを終えれば、クスノキのてっぺん部分のみが動く。

 さすれば、桜の木たちが一挙に花びらを舞わせた。

 湊がクスノキの真下から見上げる。


「クスノキはみんなの長みたいだよね」


 太い幹から伸びる枝の根本までゆらした。

 ウネウネと躍るような様は植物というより、もうほとんど動物のようだった。

 


 庭の三分の一に当たる敷地面積を占める、ひょうたん型の御池。

 そこにせり出す大岩に乗った湊が、水の中を覗き込む。

 緑の水草の合間、玉砂利の白さが眩しい。水が濁ることも、まして苔が生えることもない。今日も透明度の高さを誇っている。

 おかげで掃除の手間はかからない、というより必要なかった。

 とはいえ放置はありえない。毎日確認するようにしている。


 それはある日、突然、竜宮門が出現したことに端を発する。決して害はない。

 されど管理人たる者、任された家及び庭に関して『あのような物があるとは、知りませんでした』とたわけたことをぬかせるはずもないだろう。


 御池の小さいほう――霊亀の住まいを注視する。

 そこには、ひっそりと佇む竜宮門がある。その屋根についた宝珠は、七色の宝石のようだ。

 美しくも、今は光を発してはいない。

 昨日まで、ひたすら御池の外周を脇目も振らず周回していた霊亀の姿は見えない。

 またも竜宮門から出かけたのだろう。


「……遊びにいったのか。先方でご迷惑かけてないならいいけど――」


 宝珠が光った。

 言葉を切った湊が竜宮門を凝視する。

 水を透過し、水面にドーム状の光が広がる。門の一階部分――漆喰塗りの袴腰はかまごしを通って何モノかがくる合図だ。

 こんな間近で目撃するのは初になる。これは不可抗力だろう。致し方なし。

 湊がかぶりつきで見守る。


 ぬっとまず前足がお目見えした。それは、見慣れたイエローパール。霊亀だった。


 お早いお帰りで、ほっとした。

 そうして胴体半分まで出てきた時、甲羅の先端部分が上部に引っかかった。

 霊亀の首と前足がわたわたと動く。もがいている。

 出ることも戻ることもできぬ。


「ちょっと待って、今いくから――」


 いざ飛び込もうとしたその時、引っかかった部分から、ずるっとイエローパールの膜がはがれた。


「なっ!?」


 さらに霊亀がもぞもぞ動くと、その場に膜だけ残し、門からの脱出に成功。すい〜っと浮上してきて、水面に顔を出す。

 どっこいしょと、大岩に上がり、見上げてきた。


 その身の色が、すっかり変わっていた。


 頭部、四肢は白っぽい。

 そして尖った甲羅ではなく本物の山を背負っているようにしか見えない。岩、木が生え、さらには水まで流れている。滝までかね備えていた。


「鳥さんも見たから知ってたけど、かっこいいね」


 霊亀が満足気に両眼を閉じた。

 湊の傍らの己が定位置に移動し、早速甲羅干しに勤しんでいる。その山のちろちろと絶えず流れる水は摩訶不思議である。

 昨日までの落ち着きのなさはもうないようだ。通常運行の霊亀である。


 ここのところ、奇妙な行動を繰り返していたのは、脱皮が近かったせいだろう。


 ようやく異常行動の原因を知れて、湊の表情が和らぐ。やはり霊亀にはのんびりしていてほしい。それでこそ霊亀だともいえよう。

 それに、いつも静寂な神の庭が異様に忙しなくて、こちらの調子までおかしくなりそうだった。

 

 さておき、脱げた皮はどうしたものか。

 そのまま放置していいはずもないだろう。単体でも輝いており、異様に目立つ。

 彼らは四霊。霊妙なる獣。通常の獣とは何もかも異なり、皮も腐りも痛みもしないだろうけれども。


「亀さん、はがれた皮、回収していい?」


 目を開けぬまま、こっくりとうなずかれた。

 それから、その頭部が御池の反対側、応龍のほうへと向けられた。

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