22 山神の月に一度のお楽しみ





 楠木邸の神の庭には、今日も春めいた風が吹いている。

 その風と枝葉で戯れるクスノキの幹を背に、横たわる大狼も白い体毛を風に遊ばせていた。

 ふいに現れる風の精にその背にまたがれようと、毛やヒゲをひっぱられようと、気にも留めない。

 パラパラと雑誌をめくるその速度に変化はない。


「ぬぅ……。まだか、我のぺーじはまだか……」


 険しい顔の山神が注視するその雑誌は、むろん武蔵出版社の地域情報誌である。山神が愛してやまないそれには、山神専用ページが存在する。

 その昔、出版社の創立者の願いを叶えてやったお礼であり、長い歴史をもつ。その経緯は、出版社の者と山神しか知らない。

 ゆえに一般購読者は不思議に思っている、かつ一部の者は不満にも感じていた。なぜなら――。


「ぬ! 羽後屋め、いよいよ、こし餡の取り扱いをはじめおったか!」


 そう、山神専用ページはこし餡の和菓子特集記事しか載らないからだ。

 これは不変であり、例外は一度たりともない。


『なんでいつもいつもこし餡ばっかり!? たまにはつぶ餡特集でもいいでしょうが!』

『いや、そもそもなぜ毎回和菓子なんだ。ぜひ洋菓子の特集を! 洋菓子にもスポットを当ててくれ!』


 と和菓子店や洋菓子店でも不平をこぼす者もいるとかいないとか。

 そんなことはつゆ知らず、否、承知の上かもしれないが、まったく意にも介さぬ山神は、紙面に所狭しと載る、まんじゅう、あんこ餅、大福に心をつかまれ、脂下がっている。

 いずれもこし餡ゆえ、わざわざ『これはこし餡、つぶ餡いずれぞ?』と紹介文を確認せずとも知れる。実にありがたい。

 が、山神は毎号紹介文も隅々まで読んでいる。

 記事の担当者――いまは十和田記者が丹精を込めて書いたであろうからだ。ちなみにさして興味の持てない他の記事にも、一応目は通している。


 あますことなく紙面の和菓子を堪能した山神は、ふすぅ〜と満足げに鼻息を漏らし、次のページを開いた。

 即座にその金眼に飛び込んでいったのは、見慣れない山型の菓子であった。


「ほう? こし餡もんぶらんとな?」


 こんもりとした表層の筋状の部分がこし餡である。つまり黒山、かつ洋菓子と和菓子のマリアージュ品であった。

 その写真を熱心に眺める山神を、すぐそばの座卓越しに湊が見ていた。


「すごいな、十和田さん。最近山神さんの嗜好が変化してきたことに気づいたのかな?」


 ふふんと山神は得意げに顎を上げる。


「信仰心が深ければ、自ずとその神の意志を汲み取れるようになろう」

「そうなの!?」

「たぶん、おそらく」

「――適当すぎでは?」


 含み笑いをする山神は、ふたたび雑誌を眼で追いはじめた。昨日と打って変わって心から楽しげで、湊も安堵した。


 播磨邸を訪問したのは、昨日のことだ。

 湊と播磨が、祖の神が急ごしらえでつくった神域から脱出したのも同じく。

 その領域から戻ると、播磨邸のリビングであった。

 そこには変わらない顔ぶれが待っており、神域へ入った瞬間の時に戻してもらえたのかと思った。

 しかし違った。窓の外は茜色に彩られた時間帯で、ゆうに五時間は経過していた。


 そうして、神座に鎮座した山神の気が妙に立っていたのである。


 被毛が逆立ち、ちりちりと放電までしている始末。一方豪奢な椅子に座した祖の神はご機嫌で、しかも酔っぱらっていた。

 その場にもむせかえるような酒の香りも漂っていたのだ。

 山神は酒癖が悪い。瞬時にそれを思い出したが、当の神に酔った様子は見受けられなかった。

 その後、少しだけ播磨邸の番犬たちと触れ合ったのち、引き上げたのであった。


「山神さん、昨日、俺たちが神域に放り込まれたあと、なにしてたの?」

「あの神と呑み比べをやっておったわ」

「でも山神さん、素面だったよね」


 半眼になった山神は鼻を鳴らし、雑誌のページをめくる。


「酔う気がサラサラなかったゆえぞ。そのあたりはいかようにでもなる」


 面白くなさそうな言い方である。おそらく楽しい場、あるいは気の抜ける場であれば、酔っぱらうのだろう。

 ともあれ、播磨家の者たちに迷惑をかけずに済んだようだ。

 と思っていると、手元にグラスが置かれた。その中で波打つ鮮やかなオレンジ色の液体を目にした途端、自ずと喉が鳴った。

 それを置いたのはウツギであった。


「オレンジの搾りたてだよ〜。さ、湊、飲んでみてよ!」


 喜色あふれる声に、期待する表情を向けられた。とてもではないがお断りできるはずもない。盛大に口元がひきつった。

 というのも、そのジュースは普通ではないからだ。

 グラスからうっすら幕のようなモノ――ドライアイスの冷気じみたモノが流れ落ちる、怪しいことこの上ない代物なのである。


 その元になった果実は驚くことに、眷属たちがつくったという。

 神の眷属がつくったブツが普通であるはずもない。

 不老不死の効果がついていそうである。

 しかし湊が不老不死になんぞなってたまるかと思っているのは、眷属たちも百も承知だ。ゆえに無理やり飲ませるような真似はしないだろう。


 されど、この冷気めいたモノはなんだ。

 ジュースに何かしら歓迎できない効果が含まれているのではと、警戒してしまっても致し方あるまい。

 湊が動けないでいると、ウツギはさわやかな笑顔を向けてきた。


「湊、大丈夫だって! 人間が飲んでも問題ないことは確認したから!」

「誰で実験したの!?」

「それはもちろん、我の神域部屋に置いておくしかない、あの人間ですよ」


 ウツギの後方にいるセリが不満げに言った。

 その人間――中年男は、霊道に近づき、あの世へ心惹かれたがゆえに魂が肉体から離れやすくなっているため、セリの神域にいる。

 魂が定着するまで、約ひと月かかるという。


「――それは、まぁうん。ご迷惑をおかけして申し訳ない」

「なぜ湊が謝るんだ?」


 セリと向かい合わせに座すトリカに呆れられ、湊は頬をかいた。


「同族として言っておくべきかと思って。――あ、じゃあ、あの男の人は元気に過ごしてるんだね」

「ええ、もちろんです。ご心配なく」


 詳しく語る気はないらしく、セリは中断していた作業に戻った。

 果実の種取りである。

 こちらのアンズも同じく、眷属――主にウツギが手塩にかけて育てたブツである。

 竹籠に山と積まれた幾多の果実を囲い、眷属たちは作業に明け暮れていた。

 遊びにやってきた彼らに乞われ、許可をすると、ここで作業をはじめたのだ。そこから終始魅惑の香りが漂ってくるも、混ざり合っているおかげか湊は正常さを保てている。

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