7 咲き誇るあじさいたち
〝あじさい遊歩道〟と名付けられた街道は、見渡す限りあじさいしかない場所であった。
鮮やかな花々を両手にした一本道がなだらかに延びて、あじさいでおめかした小高い丘へ続いている。
大狼と並んで歩む湊は、目も冴える青たちを愛でていく。
朝方まで降り続いた雨により、まだ花弁も地面もしっとりと濡れて、花の魅力を底上げしてくれていた。まさに絶好のシーズンであった。
「こんなにたくさん咲いていると、いかにもあじさいの道って感じだね」
「うむ。種類も色も豊富で見飽きまいよ」
「ほんとだ。よく見ると花の形が違う」
片側に、手まりのように丸いホンアジサイ、片側に、ガクアジサイが密生している。
遊歩道の半分近くに来た湊は、ようやくそのことに気づいた。朴念仁は情緒を解さぬ。
「この平べったい花が咲くあじさいは、今まで見たことなかった。奥ゆかしいね」
「その外周の四角い花のような顔をしておるのは、花弁ではないぞ」
「え、てっきりそこが花だとばかり……。じゃあ、これなに?」
「葉が変化したガクという。真ん中に密集した小さな蕾が花ぞ」
「へぇ」
感心しながら近づくと、みっしり小花が詰まったその部分にカタツムリが這っていた。のろりと大触覚――目を伸ばしてくる。
あいさつされたのかもしれぬ。
まじまじと注目する湊を、山神が流し見た。
「この花が奥ゆかしい、か」
「……おかしいかな」
「いや、確かにそう云うてやってもよかろう。その身を食うたモノにひっそりと中毒症状を与えるゆえ、な」
「――そうなんだ。知らなかった」
「うっかり口に入れぬよう気をつけよ」
「さすがにいくら腹が減っても、花や葉っぱを食べようとは思わないよ」
左様か、と軽く笑った山神が足を踏み出した。
スマホや一眼レフを構える人々を追い越すと、あじさいの色が青から紫に変わった。
「ここからものの見事に色が分かれてるね。確かあじさいは、土壌の影響で色が変わるんじゃなかったっけ?」
「左様。わざわざ土の状態を変えたのであろうよ」
「凝ってるね。山神さんの庭にかける情熱に通じるものがありそう」
土壌が酸性なら青、アルカリ性なら赤、中性なら紫。
そして、もう一色――白だ。
その白いあじさいが埋め尽くす小高い丘が、遊歩道のどん詰まりになる。
丘の上には
斜面を埋め尽くすあじさいは、階段を侵食しそうに咲き競っている。
「白だけっていうのも壮観だね」
見上げた湊が感嘆のため息をついた。
白いあじさいには、アントシアニンという色素がなく、土壌の影響を受けない。
ゆえに何モノにも染まらず、真白に咲くのである。
山神からそう説明された湊は、純粋な白を有する大狼を見て頷いた。
「山神さんっぽいね」
「ほう、そう思うか」
愉快げに大狼は、喉を震わせた。その笑い声は大気をもゆらす。
そこにちょうど、若い女性二人組が階段をくだってきた。その一人が、ビクッとその身を正し、首が飛びそうな勢いであたりを見渡す。
が、その視線は、山神では止まらぬ。
顔を強張らせた女性は、連れ合いの腕をつかみ、山神の横を小走りで通り過ぎていった。
「山神さんは、存在そのものが罪深いよね」
湊がつぶやくと、山神は尾を一度振った。
それから、今一度階段を見上げたら、格式高い
湊は、神社仏閣にさして興味はない、わざわざ赴く気もない。
それに神を引き連れて寺を訪問するのは、いかがなものか。
「じゃあ、次の場所にいきますか」
返答がないことに訝しく思い、横を向く。
山神は、ある一点をじっと見つめていた。
階段からやや離れた、花が途切れた箇所だ。
ともにそこへ近づいても、とりわけ何もなかった。
「前は、ここにうまい汁粉を出す店があったが……」
山神の声には、かすかに悲哀が乗っていた。
今そこには、店があった跡形すらない。
あったモノがなくなってしまうのは、悲しかろう。
お気に入りの甘味処であったなら、なおさらだ。
「ここによく食べに来てたの?」
「――時折ぞ」
しばしの間があった。それなりの頻度であったと湊は察した。
「店主さんが、山神さんを認識できる方だったから、食べさせてくれてたってこと?」
「否、凡人であったわ」
「じゃあ、わざわざ姿を見せて汁粉を買い求めていたと……? お金は?」
フフンと自慢気に、山神は胸を反らす。
「金なぞ持たずともいくらでも食えたわ。南部には我に貢ぐ物好きどもがようおったゆえ。ただ店の前に座っておれば、どこからともなく我先にと駆けつけて、供えてくれよったわ」
「その光景見てみたかったかも」
店の前で口からよだれの滝を生成していたのであろう。そんな露骨な神の姿が知れる者であれば、放っておくことは到底できまい。
『山神様ーッ、汁粉をご所望でござるな!? すぐに拙者が買って参りますぞッ。今しばらくそこでお待ちくだされ!』
『あい待たれよ、そこなお侍さん! 今日もオレっちが払いまさぁ、横取りしないでくれるか!?』
『ちょっとッ、呉服屋さんの倅さん! アンタこの前供えたやろっ、今回はアタイが払うんや! アンタこそ邪魔せんといて!』
『若造どもなにをぬかすかッ。ワテに譲らぬか! め組で名の知れたこのワテにな!』
かつて、そんな争奪戦が繰り広げられていたのだが、山神の口から仔細が語られることはなかった。
静かに踵を返した山神と湊は、咲き乱れるあじさいに見送られ、もと来た方へ去っていった。
◯
彼らは次なる目的地、老舗のきび団子屋を目指す。
南部の中心に近いそこへの道すがら、湊が周囲を見渡した。
なんとなく見覚えのある建物や地形であった。
「そういえばこのあたり、この前、湖にいった時、通ったんだ……」
風の精たちによって悪霊が巣食う湖へいざなわれ、否、ぶっ飛ばされて通った道なりであった。
あの時、自動車並みの速度が出ていたのは間違いない。
それを思い出した湊は、心臓が早鐘を打った。
「かの湖は、ここからそう離れてはおらぬ」
まったり歩む山神が、鼻先で道の先に架かる木橋を指す。
「あの橋を越えた先ぞ」
「もう悪霊はいないだろうけど、いちおう見にいこうかな」
「うむ、甘味めぐり前に運動がてら歩くのもよかろう」
「――ソウデスネ」
思わず片言になった。
「ならば、参ろうぞ」
号令がかかった直後、背後から突風が吹く。湊が前へ押し出され、山神は長毛のみがなびいた。
間髪いれず湊の背中に向かい、風の塊が立て続けにぶつかってくる。
「『運んでいってあげる』と風の子らが云うておるぞ」
含み笑いの山神が言った。
「運ぶというか、飛ばすだよね!? 遠慮しておきます!」
目一杯後ろへ上体を反らし、全力で拒否った。
◯
しかと路上を歩んだ湊と山神が行き着いた湖は、広大であった。
巨大な水たまりに晴れた空が映り、向こう岸の葉桜並木越しの家々は、おもちゃのように小さく見えた。
ここは大昔、雷神が放った一撃の雷で抉れた場所だ。その後湖となり、渡り鳥が羽を休める休憩所になった。
先日、この一帯には悪霊が巣食っていたが、今は瘴気すらない。
青空に列をなした野鳥が飛び、湖面では、大型の水鳥たちが泳ぎ回っている。
穏やかで平和な光景が繰り広げられていた。
遊歩道から、湊と山神がその全景を眺めた。
「このあたり、なにも問題ない……よね?」
ベンチの背に両手をついた湊が、半身を乗り出す。
「毛ほどもな」
「そっか、よかった。ツムギが数年は清浄さを保てるって言ってたんだよね」
山神が湖の端から端まで視線を流した。
湖と周囲を囲う木立までも、うっすら金の粒子に覆われているのがその眼に映る。
「うむ、それくらいであろうよ」
湊が山神に向き直る。
「俺の書く字には、山神さんの神気が含まれてるんだね」
護符作成時に用いる神水には、山神の神気が入っている。
そのおかげで本来、悪霊および穢れを祓うしかできぬ湊でも、和紙にその場を清める効果をも付加できていた。
「――気づいたか」
「お稲荷様に視せてもらった」
ふすっと山神が鼻を鳴らす。
天狐とのやり取りの詳細を伝えてはいない。二神は、仲がよいのか悪いのかいまいちわからなかったからだ。
山神は取り立てて何事か語るでもなく、背を向けて歩み出し、湊もあとに続いた。
だからなんだということもなかった。ただ確認するために訊いただけだ。
バチャンッと湖面から跳び上がった大魚が腹を打った。
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