6 見極めよ



 数分の時が流れ、湊が導き出した答えは――。


「誰も、いない。……と思う」


 浮いた山神の太い前足に力がこもった。

 ひび割れた音とともに神域が潰れ、濁った塊が一条の尾を引いて立ち昇っていく。上空で淡雪のごとく消失してしまった。

 ひどく儚いその光景は、湊の視界には映らなかった。


「左様。何モノもおらぬ」


 山神の行いと明確な解答に、安堵した湊の肩が下がる。


「ちと時を費やしたのはやむを得まいよ。まだ慣れておらぬゆえ、な。なぁに、数をこなせばすぐにでも慣れるであろうよ」


 目をむく湊をよそに、山神が顎を上げた。

 街路樹がざわめき、木の葉が降り注ぐ。ドサドサと大量の歪みまでも落ちてきて、歩道に散らばった。

 湊の片方の横髪だけがゆれる。

 風の精が話しかけたり、物音を聞かせたりする前触れだ。


「オチテタ神域、持ってキタ!」

「ドーゾ!」

「モット、モット、持ってクル!」


 同時に、複数の声が片耳に聞こえた。

 普段ろくに話しかけてこない風の精たちが、今回だけはやけに弾んだ声で話しかけてきた。

 言い方がたどたどしいのは、あまり知能が高くないせいだろう。


 それにしても、さすが風神にまつわるモノたちである。

 気まぐれなわりにイタズラ好きで、面白がりだ。

 しかしながら、周囲の大気が陽炎めいてゆらめくほどの神域の差し入れは、イタズラというより、嫌がらせではなかろうか。


 まったくもってうれしくない、湊の双眸から光が消えた。


 けれども、知覚を鍛えるためには有用だ。

 やらねばならぬ。自らのためにも。


 湊と歪みの間に、大狼が街路樹を背にして鎮座している。おかげで、湊が無駄にそれらに引き寄せられることはない。


 山神が前足で踏んづける大小さまざまな正六面体を一つずつひたすら見る湊は、慎重に気配も探っていった。


「――いない……いない……いない」


 その判断を待ち、山神が次から次にぷちぷちと踏み潰していった。

 無数かと思われたそれらであったが、徐々に湊の見極め速度が上がって、サクサクと数を減らしていった。


 今のところ、神がいないモノしかない。

 風で流される程度の神域は神自ら捨てたか、消えたから残された残骸だ。


 湊は懸命に判定し続ける。

 今度のも今までと同様、ぼやぼやと不規則に虚空がたわむだけだ。


「いない」


 それを聞くや、頷いた山神がカラの神域を踏み潰した。


「うむ、これが最後であった――」


 声が途切れたと同時、湊が横方向に引っ張られ、縁石に爪先が引っかかった。

 前のめりになったその眼前は、車道。そして、歪みもある。鼓動めいて規則的に波打っている。


 そこに、湊は抵抗一つできず、声一つ出す暇もなく、身体を持っていかれていた。


 ぬっとたわんだ箇所から黒い手が出てきた。

 人の手らしきモノ。親指の欠けた四指。ただれた皮膚が垂れ下がり、所々骨が見えている。長い爪も欠け、ひび割れていた。

 その手が湊の顔面前で、大きく開いた。


 あわや、つかまれそうになった瞬間、横から大狼の前足が一閃し、金色の軌跡を描いた。その余波で弾かれた湊が後退する。


 歪むくうに深々と入った三つの爪痕から断末魔がほとばしった。

 大気を斬り裂く、おぞましき絶叫。身体の深部、脳髄にまで響くそれは、いつぞや穢れた神が発したモノとよく似ていた。

 開放された湊は、よろめきながら総毛立った。


 とはいえ、すぐにその声も神域への入り口も消えてしまった。虚空も正常に戻っている。

 一瞬にして山神が、神域の入り口もろとも中の穢れた神を始末してしまった。


 ぺペぺッと大狼が前足を振った。

 さも汚いモノに触れてしまったといわんばかりの行為と表情だ。


「ちと厄介なやつが交じっておったわ」

「あ、ありがとうございます、山神様……!」


 久方ぶりに冷や汗をかいた湊が額を拭った。


 それにしても、休暇とはなんだったろうか。

 本日は、まったり町を散策しておいしい物を食べ、身体と神経を休めるのではなかったか。

 なぜか先行きに不安を覚える、波乱の幕開けとなってしまった。


 ともあれ、ゆるぎない大狼がそばにいるのならば、さほど案ずることもあるまい。



 ふいと山神が鼻先を道の先に向けた。

 ふささっと尾が振れ、その金眼も輝きが増す。


「ちと疲れたであろう。疲れた時には甘い物ぞ。ちょうどすぐ近くで大判焼きが焼けておるわ」

「――はぁ、そうだね」

 そうくると思ったと、湊はさすがに言えなかった。


 甘く香ばしい香りに導かれ、着いたのは大判焼きの屋台であった。

 開店からまもなく、一番乗りである。誰も並んでいない屋台の正面――むろんド真ん中を山神が陣取る時間はわずかで済んだ。


 一人と一柱は、屋台の横のベンチに並んで座った。

 人目は気にしなくていい。通行人たちも大判焼きをひっくり返す男も、見ていなければ気にもとめていない。

 山神の半径数メートルは、相変わらずの不思議空間となっている。


 湊が袋から出した大判焼きを両手に一つずつ持った。ぷっくり中央が膨れた円盤状の和菓子だ。狐色をした生地の中に、こし餡か白餡がたっぷり入っている。


 湊にはどちらか判断できずとも、いっとう嗅覚の優れた山神には朝飯前であろう。


「あっつい、けど、はいどうぞ」


 もちろん出来立てあつあつ。


「うむ、いただこう」


 迷わず山神は、こし餡のほうにかぶりついた。猫舌ではないから熱さなど物ともしない。

 さっそく湊も口にした。


「甘さが身に染みる……!」

「――そうであろう。このこし餡は特に、な」


 湊は打ち震え、山神は噛みしめている。

 厚い焼き型で焼かれた皮はカリッと、中の餡はとろっとろだ。


「俺のは白餡だけどね。うっまい」

「白餡の控えめな甘さもよき。こし餡には及ばぬが」


 小豆のこし餡命の神は、当然ながら本日もこし餡一択だ。

 これから先、豊富にあるらしき和菓子屋の数からいって、山神がどれだけ求めるかわからぬ。

 序盤は控えめにしようと思う湊であったが、珍しく二個目に手が伸びた。


「出来立てだからかな。結構いける」

「うむ。味もさることながら、この罪深き香りのせいでもあろうよ。決して抗えぬ魅惑の香りゆえ」

「そうだね。小腹が空いていたところに神経を使いまくったせいでもあるかも」


 やや嫌みを込めていた。

 元凶たる風の精たちはいずこかへ去り、風は凪いでいる。その片棒を担いだ大狼は両目を細め、咀嚼するだけだ。


「でも、まぁ焼き上がりを食べられるのは、すごく贅沢だよね」


 心から告げる湊は、幸せのハードルが低いため、一個百円強の菓子でも幸福を感じる性質である。


 屋台のテントの上部に書かれた〝大判焼き〟の字を、湊が眺めた。


「この和菓子、こっちでは大判焼きっていうんだね。俺の地元のほうでは、回転焼きって呼んでるから、最初、なんのことかわからなかったよ」

「地域によってさまざまな名称で親しまれる和菓子ゆえ。他にも今川焼き、御座候ござそうろう、二重焼きとも呼ばれておるようぞ」

「へぇ。御座候と二重焼きは、初めて聞いた」


 他愛のない会話をしながら、湊は最後の一欠片を口に運んだ。山神は語りながらも、じっくり味わう。

 ベンチの後方に咲くあじさいの葉から、つるりと水滴が滑り落ちた。


 我が道を往く一人と一柱の南部ぶらり散歩は、まだ始まったばかりである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る