29 勝鬨をあげよ


 本堂の中は、がらんどうだった。


 天上が高く広々とした堂内は、左右に並ぶ開いた窓からの光源によってほの明るい。怨霊から垂れ流されていた瘴気は跡形もなくなっていた。


 だがしかし、本来なら本尊があるべき場所、内陣の床上に転がる黒い塊から瘴気が漂い、少しずつ床を這って範囲を広げつつあった。


 だだっ広い板張りの間を奥へと向かう。

 片手にメモ帳を持ち、ゆっくりと近づくと、足元に漂う瘴気が靴に触れる前に掻き消えていく。


 丸柱の合間、内陣の前に立ち、見下ろす。

 そこには人の頭部ほどの黒い塊。うぞうぞと表面がうごめき、震えた三匹が湊にしがみつく手に力を込めた。


 彼らはどれほど気味が悪かろうと、見たくなかろうと、決して目を逸らさない。嫌なことから目を背けない、逃げない。湊はその姿勢にいつも感心し、見習おうと心がけている。


 塊の上からメモ紙をばらまいていく。

 次から次に床へと落ちていく白い紙。

 一枚、一枚、落下途中から文字が消えてしまう。


 最後の一枚になっても、穢れは完全に祓えなかった。


 湊の視界ですら黒いもやが確認できる。

 一度、大きく深呼吸し、ポケットから筆ペンを取り出した。一筆、一筆、祓いの力を込めて書き綴っていく。


 書いたそばから落としていく。

 塊の横を滑り落ちる何枚もの紙片から、文字が消えていった。


 額に汗を浮かべる湊は、すでに一日に書ける枚数の限度を超えている。

 震える手で最後の一枚に渾身の力を込めた。


 ひらり、と床に落ちる真っ白の紙片。

 色が薄くなった塊。


 確実に弱っている、だが完全に祓えてはいない。


 筆ペンを強く握りしめた。

 以前、播磨の手の甲へ書いたように己の身体に刻むことはできない。眷属の体にも同様に。


 湊が周囲を見渡す。


「……なにか、書ける物は……」

「この肩にかけてるのは?」

「バッグ、布か……やったことないけど試してみる」


 ボディバッグを下ろそうとベルトに手をかければ、「うわっ」頭上から身を乗り出していたウツギが後ろ足を滑らせ、フードの中に落ちた。

 もがいて暴れるせいで首元が絞まり、湊が仰け反る。


「ちょっ、くるしっ」

「あー! 葉っぱ! 葉っぱが入ってる!」


 勢いよくフードから顔を出したウツギの手には、先端が尖った卵形の葉。


 神木クスノキの青葉だ。


 セリとトリカの顔が輝く。


「これに書けばいけそうです!」

「間違いない。神木の葉だぞ。しかもこれ神気が強い。どうして今まで気づかなかったんだ?」

「まあ、いいじゃない。これで綺麗さっぱり祓える!」


 ウツギが頭上から手渡してくるのをつかむ。

 横からセリが玉の汗を浮かべる青白い顔を覗き込んだ。


「湊、書けますか?」

「やるよ」


 力強く答えたものの、倦怠感がひどい。身体は怠いが、やるしかない。


 それに。

 素早く視線を周囲へと走らせる。

 至る所から、ぴしり、ぴしり、と亀裂が入る嫌な音が響いた。


 おそらく、この界は、そう長く保たないだろう。


 はやる気持ちを抑えて瞼を閉ざし、深呼吸。気を静め、葉の表側、裏側に文字を綴っていく。

 本来の墨液であれば弾かれて書けないが、神水入りは弾かれない。鮮明な墨色が刻まれていく。


 見守る三匹が息を呑んだ。

 字が増えるたび、葉から放たれる光が増していった。

 翡翠色とクスノキの銀色が、練り合わされ、交じり合い、陽炎のように大きな帯となって立ち昇っていく。


 強い、強い、除霊の光だ。



 書き上げた湊が、見下ろす。

 しかと葉を持ち、塊に押し当てた。

 さあっと霧が晴れるかのように、悪霊が塵と消えた。


 代わりに現れたのは、珠だった。


 濡れたように輝く桜色がかった真珠色の珠を拾い上げる。

 霊亀、応龍、麒麟と同じ、見慣れた真珠の光沢が手の中で鈍く光った。


「これ、ってッ」


 ビシリッと背後から裂けた音。


 勢いよく振り向く。

 本堂の出入り口の大扉が大破。

 建物全体から激しい亀裂音が轟く。


 異界の崩壊が始まる。

 建物自体が激しく左右へゆれた。ふらつく身体に三匹がしがみつく。

 束の間、少しだけゆれが収まり、急いで珠をバッグへと入れる。


「しっかりつかまってて!」


 床を蹴った。

 四隅からぼろぼろと剥がれ落ち、崩れていく本堂を駆け抜け、外へと飛び出す。

 数段の石段を一足で跳び下りる。


 再度、立っていられないほどの縦ゆれが起こり、近場の石灯籠にしがみつく。


 ブレる視界の先、十数メートル先の門が果てしなく遠い。


 絶え間ない振動に翻弄されながらも駆け出した。


 背後から轟音。本堂が上から押し潰されるように崩れていく。砂埃交じりの爆風が背中から襲いかかり、つまずき、転倒。それでも三匹は湊から離れなかった。


 門まであと、数メートル。

 そこまでいけば、ここから出られる。あと少しで、元の世界に戻れる。


 歯を食い縛り、這って進む。


 だが、現実は無情だった。


 定まらない視界に映った光景に、皆一様に目を見張る。

 眷属たちが抉じ開けた穴が小さくなっていた。テン一匹ですら通れないだろう。


「……どう、して」

「……なんで」


 口々に絶望の言葉がこぼれ落ちる。


 異界が狭まり、閉じていく。

 全方位から、押し潰されそうな圧迫感、閉塞感。

 湊が三匹まとめて腕に抱え込み、砂利の上にうずくまった。

 瞬間――。


 神鳴かみなりが轟いた。

 

 地鳴りを伴う轟音。天から振り下ろされる三日月型の巨大な風のヤイバ。つぶれた本堂が真っ二つに割れる。異界もろとも一刀のもとに斬り伏せられた。


 異界の半分に神鳴りが落ちる。


 大音響とともに燃え上がり、一瞬にして、神の炎が燃やし尽くした。

 息つくまもなく数多の稲妻が、灰色空を縦横無尽に駆けていく。網の目のごとく張り巡らされ、異界の崩壊を食い止めた。


 振動が収まり、バチバチと稲妻の音が鳴り響く中、座り込む湊が振り仰ぐ。

 もうもうと白煙が舞う中心に、小柄な黒い人影が二つ。

 すぐさま風が巻き起こり、晴れ渡った。

 露になったのは、ごっそり半分を消失した本堂だった。


 そこから先は、現世に繋がっていた。

 茜色の空のもと、遠くに連なる家々の屋根、電線を埋め尽くす鳥の大群が見えた。まだいたのかとぼんやり思う。


 幾人かの男女の姿もあり、一番手前に播磨の姿もあった。


 呆けた湊の目前、風神と雷神がすべらかに宙を進み出てきた。

 普段通り、飄々とした二柱に助かったのだと実感し、安堵の涙がにじむ。腕の中で強張っていたテンたちの体からも力が抜け、ダラリと四肢を伸ばした。


 軽く首を傾けた風神が屈託なく笑う。


「言ったでしょう。気に入らない奴の家を一刀両断できるようにはなるんだよって」

「……あ、はい。……面目ないです」

「先は長そうね~。ま、とりあえず、こんなとこ、さっさと出ましょうか」


 頼もしい神々が、脱力して座り込む湊へと手を差しのべた。

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