28 風の便りはよい便り?
お天道様が傾き出して久しい時間帯。ちょっとした買い出しを終えた湊が商店街のアーケード通りを歩いていた。
バス停を目指して進めば進むほど、人も建物も減っていく。のんびり歩む湊の周囲には珍しく動物もいない。
今は正真正銘の一人だ。
その肩にも、ボディバッグの中にも鳳凰はおらず、ストーカーよろしく尾行してくる麒麟もいない。
若干汗ばむ陽気の中、道を曲がろうとした時、ふいに背中を突風に押された。身体がやや傾く勢いだった。
どこぞの神域からのご招待かもしれぬ、と身構える。
両足に力を入れ、その場に踏み留まろうとしたら、片耳の上の髪がゆれた。
小さな笑い声が聞こえる。クスクスとさざめく響きを伴っていた。
瞬時に湊は首を一巡させる。
右側に古びたビル、その正面に一般的な民家。前方の道のはるか先に、うっすら人影はあれど距離がありすぎる。
左側は空き店舗。背後には、たどってきた舗装された道路のみ。
声が聞こえる範囲内には、誰もいない。
閑散とした住宅地には、声の主などどこにも見当たらない。
湊が耳たぶをつまむ。
人ならざるモノ――風の精の仕業だろう。
まだ即座に確信は持てないが、おそらくそうであろうなとすぐに気づいてはいた。
けれども、つい真っ先に視覚に頼ってしまった。
自分の目では、視えないというのに。
「あー……」
思わず自らの成長のなさに落胆の声をもらす。
すると、あたたかな風の塊が肩をよぎった。
どんまい、そう慰めてくれているかのようだった。
間を置かず、ひゅるりと音を鳴らす風が片腕をすぎていく。
「冷たっ……」
冷気を感じた腕が今度は生ぬるい風に包まれた。
立て続けに、髪に、肩に、背中に、脚に。サッカーボールほどの空気の塊がポンポンと跳ねるように当たってくる。
それぞれ微妙に温度が異なり、まるでおのおのが自分の存在を主張するようだ。
痛みはまったくない、悪意も感じられない。ただじゃれつかれているらしい。
塊の数から推測するに、相当な数の風の精に取り囲まれているのは間違いない。
遊ばれているのだろうな、とぶわっと頭上から温風をかけられながら湊は思う。
人に見られなくてよかったと思うべきか。いや、風は人通りが途絶えるのを見計らっていたようだ。
とはいえ、いつ他人に見られるかわからない。
立ち止まっていながら、身体のあちこちがはためく様は、不自然にしか映るまい。
そう考えた湊が歩き出すと、耳元でカンカンカンと甲高い音が響いた。
久しく聞いていないが、耳慣れた音だった。
「この音って、踏切の音?」
せいか〜い、とばかりに背中に温風が当たる。
今度は逆の耳に、カッコーの鳴き声が響く。
「横断歩道の信号機の音だよね」
続けて、ピヨピヨと高い音。
「これも横断歩道」
片腕に生ぬるい風がまとわりつく。不満そうなのは気のせいか。
「――確か、カッコーのほうが主道路横断用で、ピヨピヨのほうは従道路横断用だった……はず」
ぼわっと降ってきた温風は機嫌がよさそうだ。
大いに髪をかき回されたせいで、前髪が目にかかった。
「そろそろ、髪切らないとな……」
髪を直していれば、ズバァッと真横の生け垣の表面が風でそがれていく。
飛び出ていた枝葉がものの見事に均された。
湊より高い生け垣が電動ノコギリでは到底およばぬ速度と範囲で、一気に刈り上げられてしまった。
自らやろうと思えばできる所業だが、前触れもなく行われると心臓に悪い。
おそらく風の精は『髪を切ってやろうか?』と告げているのだろう。
「――ありがと。でも遠慮しとくよ」
全部刈り上げられたら、シャレにならぬ。
風の精はそれっきり反応を返さない。意思の疎通は難しい。
湊が足元を見やる。道路に結構な量の枝葉が散っていて、申し訳なさを感じた。
すかさず強風が吹き荒れ、空に巻き上げてどこかへと運んでいってしまう。
湊を中心に、温冷感をまとう子鬼の群れがくるくる回り、きゃたきゃたと笑い声を立てる。
そのにぎやかな声だけは聞こえていても、どれだけの数がいるのか見当もついていない。
もし風の精が視える者なら、今、自分の周囲はどんな風に視えているのか。聞いてみたいような、聞きたくないような。湊は、空恐ろしさを覚えていた。
風の精たちにさまざまな音を聞かされ、なんの音かを当てたり、外したりしているうちに、ようやくバス停が見えてきた。
数人が一列に並び、バスを待っている。
人がいる時、風の精たちは構ってこない。
ここでお別れかなと思っていれば、耳元で数種類の音が鳴った。
高い
祭ばやしの陽気さではない、厳かな儀式を思わせる音色だった。
「神社で耳にしたことあるような気がする」
小声で告げた途端、身体の片側に温風が当たり、横倒しになりかける。
「うわ、え、ちょっと」
さらには浮いた片脚、背中と相次いで風に押され、無理やり方向転換させられた。
その片足が付いた所は、横断歩道の手前。
それを渡った先に、集落の合間を通る細道が続いている。
湊はあまり散策をしないため、慣れた道以外を選択することはまずない。ゆえにその細い道がどこにつながっているのか知る由もなかった。
信号が青に変わると、ぽんと背中全体に温風が当たる。
横断歩道を渡れ、と促されていると思われた。
どこかにいこうと誘われているらしい。
「――わかったよ」
今日はもう帰る予定だったが、夕暮れにはまだ時間はある。このまま気まぐれな風の精たちに付き合うのもやぶさかではない。
楽しそうな風にどこどこ背中を押され、早足になった湊はバス停から遠ざかっていった。
絶えず温度の異なる風に背後から横から当たられつつ、湊は歩み続ける。住宅地を越え、田んぼの畦道を越え、またも住宅地を越えたら、急に視界が拓けた。
横道の先に、小高い山があった。
湊は真顔になる。
そこそこ距離を歩いたにもかかわらず、お次はすわ山越えか、と覚悟を決めかけた時、周囲の景色に見覚えがあるのに気づく。
綺麗な三角の形をしたその山の
かの天狐と眷属ツムギが住まう稲荷神社だ。
その背後には、山神の御山がそびえている。
「意外、商店街から結構近かったんだ。ここから家までもそんなにかからないな」
いい抜け道を教えてもらった。
つぶやいた湊の目前を何人もの人が通りすぎていく。
彼らが向かう先、稲荷神社へと続く急階段の入り口に人だかりができていた。ぞくぞくと千本鳥居に人が吸い込まれていっている。
一見、神社と千本鳥居は前に見た時となんら変わりないように見えた。しかし鳥居から出てくる人々の中に、何かの包みを携えている者もいる。
またも湊の片耳に、多くの人のざわめきと雅楽の音が届いた。
その音は、先ほど耳にした音と同じだった。
風の精たちは、稲荷神社の催しの音を届けていたのだろう。
「なにか神事が行われているんだろうな」
近場ではあるが、まったく把握していなかった。
湊は山神ほど町の情報を熱心に確認しない。
山神は去年、何かと、お盆の行事だの、夏の花火だの、冬の大祭だのと知らせてくれたものだが、近場の稲荷神社にまつわる行事は何一つ教えてくれなかった。
山神に完全に無視されている神社ではあるが、平日の夕方前にもかかわらず、多くの人々が押し寄せている。
ここの稲荷神社は、大社とは言いがたい規模で、階段も急で狭い。そんな場所であろうと、人は途切れなく続いている。この地にこれだけ多くの住民がいたのかと面食らうほどに。
「人気があるんだな……」
目を引くその朱色の鳥居を構える稲荷神社は、日本各地に点在する。神社の規模に関係なく、たいてい足蹴く通う人がいるものだ。
実家近くにある稲荷神社もそうだった。
これだけの多くの者が参る場所の神たる天狐が強いのも、ある意味納得だった。
さすがにこの人混みに混ざろうという気にはなれない。
湊が家路をたどろうと足を向けようとすれば、またも耳元で音がした。
甲高い鳥の鳴き声。
耳にした者の不安をかき立てる、いくつもの悲鳴のごとき声と羽音だった。
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