29 意外に優しい



 その音は、先日楠木邸に穢れた鳥たちが舞い込んできた時と同じように感じられた。

 熱気をまとう風に背中を押された。

 次に側面から。風の精に促されたのは、またも知らない道の方向だ。


 おそらく彼らが導こうとしている場所は、野鳥たちが穢れを負った所、つまり悪霊が巣食う場なのだろう。



 湊はボディバッグを開ける。

 取り出したメモ帳の半分を埋める字は、確固たる墨色を主張している。

 内ポケットには数枚のクスノキの葉。

 そして、神水で磨った墨汁が注入された筆ペンもある。


 外出時は欠かさず持っているモノたちだ。抜かりはない。


 ただ気がかりなのは時間だけだ。空の青さは薄まりつつある。


「――ここから、どれくらい離れた場所にいくの?」


 小声で訊いてみるも、急かすように背中を押してくるだけで答えてはくれない。やはり細かい意思の疎通は厳しい。


 歩み出した湊が横断歩道を渡り、細道へと向かう。

 日が落ちるまでに、目的地にたどりつけることを願うばかりだ。




 追い風にあおられ、あおられ、やがてついたのは町の北側にある湖だった。


 深い木立越しに見える湖を前に、湊は動きっぱなしだった足をようやく止めた。

 それなりの距離があったにもかかわらず、信じられないほどの短時間でついてしまった。

 むろん風の精たちのおかげである。素晴らしい。


 が、何度も身体が浮き、空を飛びかけ、幾度となく呼吸が止まりかける羽目になった。

 息も絶え絶えになった湊が膝に手をつき、乱れた息を整える。


「し、心臓に負担が……」


 響く喘鳴にやや不満が交じる。

 けれども風の精は容赦ない。

 ぽこぽこ背中を叩いて急かしてくる。その温度が冷たいのは、上がりきった体温には心地よかった。


 一度大きく息を吐き、歩み出す。脈拍は落ち着いておらずとも、そう悠長にしてはいられない。


 前方から、ひっきりなしに鳥の鳴き声がしているのだから。



 鬱蒼うっそうと茂る木々の合間を抜けると、広大な湖に出た。

 ここは、その昔、雷神が若気の至りで雷を落とし、大穴をあけて湖になった『野鳥の大人気スポット』だと雷神が告げていた場所である。


 湊も一度だけ訪れたことがあり、巨大生物が数匹住んでも快適に過ごせるであろうと、その時脳裏をよぎったことを再度思う。


 もう太陽は沈みかけている。

 空は毒々しい赤に染まり、波打つ湖面も黒い。

 その湖面が斜陽を受けて反射する様が場違いに綺麗だった。

 そんな湖の外側で数羽の大柄な野鳥が暴れている。時折高く水しぶきが上がった。


 それが湊の視界に映る景色だ。



 実際は、湖一帯を覆い尽くす瘴気のせいで、さくの夜かと見紛うほどの闇に包まれている。


 湊が野鳥の群れへと近づく。翡翠の塊が黒き闇を祓い、滅ぼしていく。

 その背後のみで、風の精たちが飛び交う。

 一番野鳥が多い場所に湊が寄る前に、すでに瘴気は祓われた。


 野鳥たちは大人しくなるも、他にもまだ多数いる。

 とてもではないが湖を一周している時間の猶予はない。完全に日が暮れてしまえば、鳥の正確な位置を把握できない。


 メモ帳をめくると、あらかじめ書いていた字は消えかかっていた。

 一度力を込めて書いた紙は、二度は使えない。


 残りの紙に祓いの字を記していく。

 その手元はもう暗く、まともな字は書けない。

 されど、祓う力は問題なくこもっている。


 書いた紙をちぎり、風に乗せた。

 見える範囲を一周させるも、祓えているのか、祓えていないのか。至る所から野鳥の騒ぐ声があがっていて、判断もできない。


 焦ったところで、どうしようもない。

 紙を手元に戻し、字が消えているのを確認。また書いた紙を風とともにひとめぐり。


 それを数回も繰り返すと、紙は残りわずかになった。

 何羽もの野鳥が飛び去っていき、次第に悲鳴じみた声は収まっていった。



 夜の帳が下りる。

 ぽつぽつと灯る街灯だけでは、湖全体を照らし出すのは不可能だ。わずかに残った野鳥が、立てたであろう水の撥ねる音だけが聞こえた。


 もう湊の視界では、野鳥の姿は見えず、むろん悪霊がいるのかも視えはしない。


「まだ悪霊、残ってる?」


 何かしらの風の精の応えを期待したが、何もない。

 身体に当たってくることもなく、先ほどまで背中に感じていたぬくもりもなくなっていた。


 風の精たちが一斉に消えてしまった。


 訝しんだ湊が振り返る。そこには、ただ闇しかなかった。


「あとわずかじゃな」


 ところが、突如声が降ってきた。


 湊が振り仰ぎ、目を見張る。

 湖の上空に黒い狐が座った体勢で浮かんでいた。

 その身をうっすら金の粒子が縁取る、ツムギだった。


 しかし、その額の紋様は白ではなく、赤だ。


 ツムギの中に天狐が入っている証だ。

 声もそれを裏付ける。一度耳にしたら忘れられない、滴るほどの色香を含む天狐のものだった。


 相手が、天狐だと湊は承知している。

 けれどもそれは、山神が教えてくれたからであって、直接教わったわけではない。

 ゆえに無難に呼びかけた。


「――ツムギじゃなくて、お稲荷様ですよね」


 中身が天狐のツムギの体がガクッと傾く。


「――まぁ、間違ってはおらん。……そう思われておるからな。だが、その呼び名には、素直に返事したくはないのぉ」


 ぶつぶつと不満げにつぶやいている。体勢を戻し、つんと顎を上げた。


「まあ、よい。ソナタ、もうひと踏ん張りじゃ」

「悪霊はあと、どのくらい残っているんでしょうか」

「湖の半分と外周の……あのあたりじゃな」


 一本の尾が湖の向こう岸を差した。




 ツムギおよび天狐と会うのは、先日、山神と一戦交えた時以来だが、とりわけ思うことはない。山神も天狐を嫌悪しているわけでもなさそうだった。

 いまいち二柱の関係性はわからないが、天狐も湊に対して普通に接している。


 神は気まぐれで、あまり個人を認識しないものだ。

 ならば自分を一個人として認識し、話しかけてくるのは、破格の待遇なのかもしれぬ。


 そう湊は頭の片隅で思いながら、スマホを取り出す。

 これで手元を照らそうと考えたからだ。

 だが画面はつかなかった。


「充電切れか……」


 ちょっとした外出予定だったため、元から電池の残量は少なかった。


 自らの不精さに浅くため息をつき、近場の街灯へと向かおうとすると、天狐がふわふわと降りてきた。

 その身から発する光は、字を書く分に申し分ない明るさである。


「ありがとうございます」


 ふふ、と天狐が含み笑いをした。


「わらわに稲荷寿司を献上するがよいぞ」

「明日でもいいですか?」


 天狐が吊り目をしならせ、口角を上げる。ひどく底意地の悪そうな表情になった。


「ソナタ、言うたな。わらわに約束すれば、いかなる理由があろうと、決して破ってはならんのを知らんのかのぉ」

「破ったりしませんよ」


 以前楠木邸に訪れた際、結局食べずじまいだったというのもある。天狐も山神と同様に眷属が気に入ったモノが気になるのだろう。

 それに稲荷寿司くらいなら、さして手間でもない。


 そう思いつつ湊は、一字、一字、丁寧に書き込んでいく。

 その字から放たれる翡翠光を目の当たりにした天狐が眼を細めた。


「もう紙は残り少ないようじゃな。その一枚に、ありったけの力を込めよ」

「はい」


 びっしり字で埋めた紙を破り取り、湖へと目を向ける。

 ぽつぽつ付いた街灯を頼りに、一回りさせればいいだろう。

 風を放とうとするも、天狐が動かない。間近からのぞき込んで、湊の目を注視している。


「――あの、ちょっと離れていただけると助かります」

「ソナタ、その目・・・は不便じゃろ」


 まったく動こうとしない天狐は軽い口調で告げた。

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