20 お初にお目もじつかまつる
ぽつと地面に雨粒が落ちた。
ぽつぽつと次第に数を増していき、無数の点を打っていく。されど、その勢いはそう長くは続かない。
裏門までの道を歩いていた湊が空を仰いだ。
晴れた青空に薄い雲が帯状に伸びて、太陽もその姿を惜しげもなく晒している。
天気雨である。
山間部のこのあたりではよく起こることだ。雲が山越えの際に消えてしまい、雨だけが風に乗って降ってくるのだった。
裏門を抜けて庭に入れば、もう濡れることはない。小径を渡って縁側へと進む。
縁側の中央に敷かれた巨大座布団には、なかば埋もれた山神が眠っている。
その身はいまだ小さい。ゆるやかに上下している小粒の山は、丸一日以上そこから動いていなかった。
楠木邸の庭に居座っている山神は、ほとんどの時間を寝て過ごしている。掃除する時はどいてくれるので、さして問題はなかった。
湊がまた空を仰ぐ、もう雨の気配はない。
「もう狐の嫁入りも終わりか」
「まさか、まさか。天気の都合程度で嫁になどやらないのです」
独り言に返されたのは、聞き慣れぬ声だった。
その声がしたほう――山側の塀にちょこんと座っているモノがいた。
小さな狐だ。
黒い艷やかな毛並み。額に紋様。今の山神と変わらない大きさしかない。その体と同等はあろう尻尾が背後で、ふんわりとゆれている。
初めて見る生きモノに湊の視線は奪われた。
しかし黒狐の顔は、ずっと斜め下を向いたままだ。
その吊り目は、ほかほか温泉に釘付けである。
露天風呂は今日も圧倒的存在感を放って煌めいている。視線も心も持っていかれても、致し方あるまい。
「かような素晴らしい温泉がすぐ近くにあったなんて……わたくし、知りませんでした……」
うっとりと眺めている。よほど好きなのだろう。
それにしてもこの狐はなんだろう。人語を操る動物なら、神の類いなのか。
されど、その身は黒い。
神に関するモノは総じて白いと湊は思い込んでいた。
経験上、白いモノはよいもので、黒いモノはよからぬモノだったということもある。
とはいえ、そわそわと落ち着きのない黒狐から邪悪な気配は感じない。ただの温泉好きにしか見えない。
それに、山神と四霊が普段通りというのもある。
御池で遊泳真っ只中の霊亀と応龍。クスノキの根本で横になっている麒麟。石灯籠でおやすみ中の鳳凰。
誰も何一つ気にもしていなかった。
不意に黒狐がこちらを向き、きゅうっと縦の瞳孔を細めた。
「こちらはあなたのお宅なのです?」
「いや、違う。俺はここの管理人だよ」
「……そうなのですか」
いいながら、堀の上で足踏みしている。
「そんなに温泉入りたいんだ」
「……いえ、そういうわけでは……今は、大事なお使い中……なのです……」
「急ぎの?」
「そこまで……急いでいる、わけでも……ない……のです……」
煮えきらない狐である。身を乗り出し、その前足が塀から落ちようとしている。
素直になればいいのに、と思う。
なんとなくだが、この黒狐は神様でもないような気もする。こちらが圧倒されるような神威を感じないからだ。
先のえびす神のように、案外気安く名乗ってくれるやもしれぬ。
というわけで、カマをかけてみた。
「今日のお昼、稲荷寿司なんだよね」
カッと黒狐は目を見開いた。
塀の上で前足をそろえて居住まいを正し、ビシッと背筋を伸ばした。
そして天高く吠える。
「わたくし、こちらの山の隣にある山に住まう神の眷属ツムギと申します! 以後お見知りおきを!」
「こちらこそ、よろしく」
「わたくしもご相伴にあずからせていただいても、よろしいのです!?」
「どうぞ。食べていきなよ」
やはり人も可愛らしい動物形態のモノも素直が一番である。湊がにこやかに笑う。
こんなにちょろくて、神の眷属として大丈夫なのか、と一抹の不安を感じるけれども。
ともあれ、やはり神そのものではなかった。山神の眷属たち同様、世俗に慣れている気配がある。
ツムギのいう通り、確かに山神の山の横には、控えめなサイズの低山がある。おそらくそこだろう。
山神の隣神だ。視野を広げれば、ご近所さんである。仲良くせねばなるまい。
「あのぉ、つかぬことをお伺いしたいのですが……」
ちろっと上目で見られた。
大変、あざとい。
己の容姿を理解し、うまく利用しているように見える。くせ者の片鱗を感じた。
「お稲荷さんは、手作りなのです? いえ、あの、市販の出来合いの物でもよろしいのです。もちろん、そちらも大変よろしいのです! 本当に! でもでも、やはり手作りのお稲荷さんが一番なのです!」
「一応、手作りだよ。山菜入りだけど」
「な、なんと!」
ぷるぷる震え、感極まっている。少し呆れた。
「まだ食べてもいないのに……。食べたら気に入らないかもしれないじゃないか」
ツムギはゆるっと首を横に振った。
「人の手で丁寧に作られている。もうそれだけで十二分に価値があるのです」
「そっか」
しみじみと語る様子は、心の底から感謝しているように見えた。
「三角形なら、なおよしなのです」
この神の使い、意外にはっきり主張してくる。
いや、そもそも神の類いに遠慮などあるはずもなかった。
気まぐれで三角形にしておいてよかった。きっとよろこんでいただけるだろう。
その時、縁側で白い小山が動いた。
身動ぎした山神のまぶたが開く。
再び背筋を伸ばしたツムギが、軽く
「山の神よ、お久しゅうございます」
「うむ」
寝そべったまま、顔のみ上げた山神が
さりげなく温泉に視線を流したツムギを、山神が一瞥する。
「入っていけばよい。好きにせよ」
「恐悦至極に存じます!」
とんと敷地内に降り立ったツムギが歩み寄ってくる。そんな中、湊は打ち震えていた。
「山神さんがっ、威厳からっきしの、あの山神さんが神様っぽい……!」
「失敬ぞ。我、偉大なる山神ぞ」
ちびっこ狼がふんぞり返ると、うっすら後光が差す。
「……そちらの御方、かなり高位の方なのです……」
ぽそっとツムギがつぶやいた。
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