54 お初にお目もじつかまつる


 ぽつと地面に雨粒が落ちた。

 ぽつぽつと次第に数を増していき、無数の点を打っていく。されど、その勢いはそう長くは続かない。


 裏門までの道を歩いていた湊が空を仰いだ。

 晴れた青空に薄い雲が帯状に伸びて、太陽もその姿を惜しげもなく晒している。

 天気雨である。

 山間部のこのあたりではよく起こることだ。雲が山越えの際に消えてしまい、雨だけが風に乗って降ってくるのだった。

 

 裏門を抜けて庭に入れば、もう濡れることはない。小径を渡って縁側へと進む。

 縁側の中央に敷かれた巨大座布団には、なかば埋もれた山神が眠っている。

 その身はいまだ小さい。ゆるやかに上下している小粒の山は、丸一日以上そこから動いていなかった。


 楠木邸の庭に居座っている山神は、ほとんどの時間を寝て過ごしている。掃除する時はどいてくれるので、さして問題はなかった。

 湊がまた空を仰ぐ、もう雨の気配はない。


「もう狐の嫁入りも終わりか」

「まさか、まさか。天気の都合程度で嫁になどやらないのです」


 独り言に返されたのは、聞き慣れぬ声だった。

 その声がしたほう――山側の塀にちょこんと座っているモノがいた。

 小さな狐だ。

 黒い艷やかな毛並み。額に紋様。今の山神と変わらない大きさしかない。その体と同等はあろう尻尾が背後で、ふんわりとゆれている。


 初めて見る生きモノに湊の視線は奪われた。


 しかし黒狐の顔は、ずっと斜め下を向いたままだ。

 その吊り目は、ほかほか温泉に釘付けである。

 露天風呂は今日も圧倒的存在感を放って煌めいている。視線も心も持っていかれても、致し方あるまい。


「かような素晴らしい温泉がすぐ近くにあったなんて……わたくし、知りませんでした……」


 うっとりと眺めている。よほど好きなのだろう。

 それにしてもこの狐はなんだろう。人語を操る動物なら、神の類いなのか。

 されど、その身は黒い。

 神に関するモノは総じて白いと湊は思い込んでいた。

 経験上、白いモノはよいもので、黒いモノはよからぬモノだったということもある。


 とはいえ、そわそわと落ち着きのない黒狐から邪悪な気配は感じない。ただの温泉好きにしか見えない。


 それに、山神と四霊が普段通りというのもある。

 御池で遊泳真っ只中の霊亀と応龍。クスノキの根本で横になっている麒麟。石灯籠でおやすみ中の鳳凰。

 誰も何一つ気にもしていなかった。

 

 不意に黒狐がこちらを向き、きゅうっと縦の瞳孔を細めた。


「こちらはあなたのお宅なのです?」

「いや、違う。俺はここの管理人だよ」

「……そうなのですか」


 いいながら、堀の上で足踏みしている。


「そんなに温泉入りたいんだ」

「……いえ、そういうわけでは……今は、大事なお使い中……なのです……」

「急ぎの?」

「そこまで……急いでいる、わけでも……ない……のです……」


 煮えきらない狐である。身を乗り出し、その前足が塀から落ちようとしている。

 素直になればいいのに、と思う。

 なんとなくだが、この黒狐は神様でもないような気もする。こちらが圧倒されるような神威を感じないからだ。


 先のえびす神のように、案外気安く名乗ってくれるやもしれぬ。

 というわけで、カマをかけてみた。


「今日のお昼、稲荷寿司なんだよね」


 カッと黒狐は目を見開いた。

 塀の上で前足をそろえて居住まいを正し、ビシッと背筋を伸ばした。

 そして天高く吠える。


「わたくし、こちらの山の隣にある山に住まう神の眷属ツムギと申します! 以後お見知りおきを!」

「こちらこそ、よろしく」

「わたくしもご相伴にあずからせていただいても、よろしいのです!?」

「どうぞ。食べていきなよ」


 やはり人も可愛らしい動物形態のモノも素直が一番である。湊がにこやかに笑う。

 こんなにちょろくて、神の眷属として大丈夫なのか、と一抹の不安を感じるけれども。


 ともあれ、やはり神そのものではなかった。山神の眷属たち同様、世俗に慣れている気配がある。山に住まう・・・・・といういい回しが、やや気になったが。

 ツムギのいう通り、確かに山神の山の横には、控えめなサイズの低山がある。おそらくそこだろう。

 山神の隣神だ。視野を広げれば、ご近所さんである。仲良くせねばなるまい。


「あのぉ、つかぬことをお伺いしたいのですが……」


 ちろっと上目で見られた。

 大変、あざとい。

 己の容姿を理解し、うまく利用しているように見える。くせ者の片鱗を感じた。


「お稲荷さんは、手作りなのです? いえ、あの、市販の出来合いの物でもよろしいのです。もちろん、そちらも大変よろしいのです! 本当に! でもでも、やはり手作りのお稲荷さんが一番なのです!」

「一応、手作りだよ。山菜入りだけど」

「な、なんと!」


 ぷるぷる震え、感極まっている。少し呆れた。


「まだ食べてもいないのに……。食べたら気に入らないかもしれないじゃないか」


 ツムギはゆるっと首を横に振った。


「人の手で丁寧に作られている。もうそれだけで十二分に価値があるのです」

「そっか」


 しみじみと語る様子は、心の底から感謝しているように見えた。


「三角形なら、なおよしなのです」


 この神の使い、意外にはっきり主張してくる。

 いや、そもそも神の類いに遠慮などあるはずもなかった。

 気まぐれで三角形にしておいてよかった。きっとよろこんでいただけるだろう。


 その時、縁側で白い小山が動いた。

 身動ぎした山神のまぶたが開く。

 再び背筋を伸ばしたツムギが、軽くこうべを垂れた。


「山の神よ、お久しゅうございます」

「うむ」


 寝そべったまま、顔のみ上げた山神が鷹揚おうようにうなずいた。

 さりげなく温泉に視線を流したツムギを、山神が一瞥する。


「入っていけばよい。好きにせよ」

「恐悦至極に存じます!」


 とんと敷地内に降り立ったツムギが歩み寄ってくる。そんな中、湊は打ち震えていた。


「山神さんがっ、威厳からっきしの、あの山神さんが神様っぽい……!」

「失敬ぞ。我、偉大なる山神ぞ」


 ちびっこ狼がふんぞり返ると、うっすら後光が差す。


「……そちらの御方、かなり高位の方なのです……」


 ぽそっとツムギがつぶやいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る