21 楠木湊にとって、それは何よりも重要


 食欲が勝ったツムギは、縁側に座ってゆっくりゆっくり稲荷寿司を食べている。


「久方ぶりの手作りお稲荷さん……美味しいのです。噛むと油揚げからじゅわっとあふれてくる煮汁……多すぎず、少なすぎず、ほどよい量なのです……。その甘辛い煮汁がまた、酢のきいた酢飯とひじょ~に合うのです。歯ごたえの残る山菜もまたよいのです……。五臓六腑に染み渡る……美味しいのです」

「ありがとう」


 しきりに絶賛してくれていた。

 一方、横に座る湊は、厚みのある黒狐の尾を眺めている。その歓喜を表すように、細かく震えていた。言葉に偽りなくご満足いただけたようである。


 にしても、この生きモノ、毛量が多い。

 全体的にみっしりと毛が生えそろい、もっふもふしている。狼とテンともまた違う、と感心していた。

 よく見れば、すっかりその毛に埋もれているが、風呂敷包みを背負っている。いかにもお使いらしい出で立ちだった。


 神の眷属ゆえ、毛は抜けないのは助かる。

 そのうえ、言葉を交わせるのもありがたい。仕草でしか喜怒哀楽を推し量れないのは、限界がある。

 時折四霊と噛み合わない湊はしみじみ思う。


「……幸せなのです。わたくしだけ、かようなおいしい思いをしてもよいのでしょうか……」


 ささやきながらも、食べるのはやめない。

 山神が斜向かいの低山を流し見た。何事か言葉を飲み込んだ顔つきになった。

 隣に住まう神なら、山神と旧知の仲なのかもしれない。


「おいしいお稲荷さんの御礼をしなければなりませんね」

「そんな大したものじゃないから気にしなくていいよ。稲荷寿司の一つや二つ……いや、五つぐらい」


 とろけていたツムギは、キリリと表情を引き締めた。


「わたくし、借りは作らない主義なのです。御礼は是が非でも受け取ってもらわねばなりません」

「あ、はい」


 器用に風呂敷包みを下ろす。その隙間に前足を入れ、あるモノを取り出した。


「こちらは、我が家でとれた桃なのです。お一つどうぞ」


 その前足に乗るのは、やや小振りだが、形は紛れもなく桃だった。だが、一般的な桃色ではない。


 金の桃である。

 うっすらまとうその産毛もまた、金なり。


 山神の瞳に劣らぬ輝きを放っていた。

 それだけでも十分異様だが、さらにはその桃自体から金粉がこぼれていく。後から後から湧き出てくる。

 黒い狐が持てば、なおのことその金色が引き立った。

 明らかに現世のモノではない。


「……お宅の山でとれた……?」

「正確にいえば、こちらのお庭と遜色のないうちの自慢の庭神域で、なのです。これは神用なので、あなたは食べないほうがよいかもしれません。いい香りがしますから、飾っておくとよいのです。腐ることは決してありません」


 いわれずとも、口にする勇気はない。

 何かの力が目覚めるか、若返るか、あるいは不老不死にでもなりそうだ。各地の神話で金色の果物といえば、だいたい寿命引き伸ばし効果がついているものだろう。


 もしかするとこの桃は、かつて各国の偉人たちが血まなこになって追い求めた、伝説のモノなのかもしれない。


 が、いらぬ。

 そっと湊が受け取る。


「……ありがとう。山神さん、もらっちゃったんだけど」

「あとで我が頂こう」


 山神が美味しく頂いてくれるなら、問題あるまい。

 食べる気はさらさらなくとも、凄まじくいい香りがしており、見ているだけで生唾が出てくる。その香りの誘惑はあまりに恐ろしい。

 思わず、齧ってしまったら洒落にならない。


「……稲荷寿司を食べ終わったら、温泉に入っていいよ」

「はい、ありがとうございます! あの、あなたもあの湯に入っておられるのです?」

「毎日入ってるよ」

「納得なのです。だからあなたは人っぽくないのですね」

「え」

 衝撃の事実。それをまるで、明日の天気を告げるような軽い口調で伝えられた。

 


  ◇

 


 温泉を満喫して、毛並みの艶が増したツムギは軽い足取りで、否、空を飛んで帰っていった。

 てってけ、てってけ。短い四肢で空を駆けていく黒狐は大層見物だった。ついその姿が見えなくなるまで見送ってしまった。

 

 座布団にお座りした山神の向かいで、湊が座卓で書き物をしている。淡々とメモ帳に字を綴っていた。

 己の護身用のため、さして気負いもなく仕上げていく。

 今し方、山神に神域に引き寄せられる体質になったのだと説明を受けていた。


「俺って人っぽくないんだ」


 ぽつりとこぼされた言葉に、山神は何も返さない。


「俺は人じゃなくなるの」

「……いや、人のままだ」


 間を置いて、返事があった。

 湊の表情に変わりはない。綴られていく字に込められた力にも変わりはない。

 ただし、祓いの力のみ。

 少しずつものになってきていた閉じ込める力は入っていない。完全に平常心を保てていなかった。


「さっきいわれて、衝撃はもちろんあったけど、やっぱりかと思わないでもないよ」


 山神は、じっと湊を見ている。


「この前、出かけた時、妙に人に気づかれにくかったし、変な所に自分から寄っていったのも、そのせいだったのかって納得した」


 静かに、ペンを置いた。


「だって、ここは普通じゃない。そんなこと、わかりきってたことだ。普通の人でしかない俺が、なんの影響も受けないなんてこと、ないだろ」


 庭を見渡す。

 ひらひらと庭中に桜の花弁が舞っている。風と戯れるその桜吹雪は、決して途絶えない。

 桜の木たちは常に満開の状態を、いつまでも、いつまでも一際美しく鮮やかな姿を保つ。

 現世では、あり得ない幽玄の美を誇っている。


 中央にそびえるクスノキが枝葉を控えめにゆらした。

 クスノキだってそうだ。自ら自在に動く大木などありはしない。

 現世では、断じて見ることの叶わない光景だ。


「……俺は、人として死ねる?」


 つぶやきに近い、小さな声。その問いに――。


「必ず」


 力強くゆるぎない応えが返された。

 湊のわずかに張っていた肩から力が抜ける。それを山神は、ただ見ていた。

 そして、湊は最後に温泉で視線を止め、苦笑した。


「自宅にあんなすごい温泉があったら、誰だって入らずにいられないよね」


 たとえ妙な体質になった原因だと、知った今でさえも。我慢できるはずもないだろう。

 

 

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