7 かの福の神に感謝
クロは山神の前脚を枕に、眠ってしまった。
まだ幼いから、それも致し方ないだろう。と思っていたら、ほんの一時間ほどで目を覚ました。
そして今、湊のあぐらの上で、仰向けの体勢で手にじゃれついている。爪は出さずとも、腕をがっちり抱え込まれ、指先に噛みつかれた。
「いてっ」
甘噛みの範疇だろうが、結構痛い。
あぐあぐと掌を頬張るその口吻をちょいとめくり、奥までくまなくのぞいた。小さな真っ白い牙がキラリと光る。
「歯は全部生えてるみたいだね。まだ乳歯だろうけど。――いたっ!」
余計なお世話と言わんばかりに強めに噛まれた。
そんなやり取りを、真正面に寝そべる山神が前脚の間に頭部を置き、半眼で見てくる。
「そやつは、おぬしが神の力を持つがゆえに遠慮はせぬぞ」
「ああ、わかるんだね」
湊はクロの眼を見て、言った。
「クロ、たしかに俺は神様に力を与えてもらってるけど、身体は普通の人間のままなんだよ。あだだっ」
ならば、これならどうだと噛んできた。若干弱めにしたようだが、さほど変わらない。
まだ加減ができないようだ。
山神が喉を震わせ、嗤う。
「そのうち、そやつに手を食いちぎられるぞ」
「だよね、やめさせないと。猫の仔も人の手で遊ばせるのはよくないって聞くし。小さいうちならまだしも、大きくなったら大惨事になりそうだ」
ギャオッ! と強く鳴いたクロは、尻尾で床を叩いて抗議してくる。
「自分は猫じゃないって言いたいのかな?」
行動は完全に猫なのだが、許しがたいようだ。
クロはまた無言でハグハグと手を嚙んできた。腕を捕える力も強く、引き抜けない。
「――クロが思いっきり噛んで遊べるおもちゃがあればよかったんだけど」
「人工物ではひと噛みで破壊してしまうぞ」
「そんな感じだよね」
湊は難しい顔をしながら、求めるモノを頭に思い描いた。
「クロの顎に耐えられるような猫じゃら、いや、豹じゃらしがあったなら――」
ピカーン! と突如大池の端っこで光のドームができた。七色に光るそれは、竜宮門を通ってくるモノがいる証だ。
「ん? 亀さんたちもう帰ってきたのかな」
四霊がそこから遊びに行き、まださほど経っていない。
疑問に思っていると、山神がふっと息を吐いた。
「違うようぞ」
その言葉が終わる前に、大池の水面を破り、大魚が躍り上がった。
くねる桜色の魚体が、陽光を弾く。
乱反射する鱗に負けない、剛毅な神気を放つ鯛であった。
えびす神の眷属である。
一度えびす神ともども訪れて以来、単身でそれなりの頻度で遊びにきており、その都度、このように水上で己が存在を誇示してくれるのである。
「鯛ちゃんのおな〜り〜」
湊が笑顔でふざけて言うと、膝で逆さまになったクロが、大きく眼を見開いた。
クスノキの部屋の縁でクロとともに待っていると、力強く前進してきた鯛は眼下で胸ビレを広げ、ピタリと静止。水面に顔だけを出し、きょろりと大きな目玉を動かした。
「いらっしゃい」
と湊が歓迎の言葉で迎えると、人語を話さない鯛はパクパクと口を開閉することで、あいさつを返してくれた。
それから、なぜか大口を開けたまま止まった。
その様相を見ることもなく、横臥したままの山神が代弁してくれる。
「口の中へ手を入れよ、と云うておるぞ」
「それはさすがにちょっと……」
鯛の口が神域の入口となっているのは知っている。
だがしかし、鯛にはやけに立派な歯があるのだ。甲殻類や貝類を物ともしないその歯は恐ろしいほど鋭い。
さらにいうならば、その口に湊の手は入りきらないだろう。
「そう構えずともよい。手を伸ばしてみるがよい」
含み笑いをする山神に促され、湊はしぶしぶ従った。
その口元にあとちょっとの所で、空間が歪んだ。
お馴染みの神域の入口である。
「――よかった」
安堵の表情を浮かべ、そろりと手を差し込んだ。
手首まで入れたら、手のひらに棒状のモノが吸いつくようにきた。表面はすべらかで、節がある。
「これは、竹じゃないかな」
引き抜いてみると、案の定、薄茶色の竹であった。
「やっぱりそうだ」
笑顔で引っ張り出すにつれ、先細りになり、釣り糸へと変わった。
「釣り竿だ!」
そして、ピンと張った長い糸が終わったら、すぽっと。末端についていた塊が宙を舞った。
「ああっ、バレた! じゃなかった……」
つい、釣りをしている気分になってしまった。
祖父の存命時、それなりの頻度でともに釣りに勤しんだものだが、応龍に加護を与えられたから、今後二度とできはしないだろう。
親し気に寄ってくる魚を釣って遊ぶほど非道ではない。
正直、残念な気持ちはある。とはいえ、どうしようもない。
四霊からのお礼でもある加護はありがたいのは、確かだ。
幸運にあやかれるばかりではなく、悪縁もつながらないようになっている。ゆえに出会う人も人ならざるモノも気のいいモノばかりなのだから。
さておき、釣り竿である。
むろん普通のモノであるはずもなく、釣り竿そのものがうっすら光っており、異様に軽い。まさに羽根のようで、先端の塊は束ねた鳥の羽根のようだ。
七色をしているあたり、いかにも神の持ち物といった雰囲気である。
これは、えびす神の釣り竿に違いない。その証に鯛と同じ神気をまとっている。
神の持ち物が、己が手に。
改めてそれを思うとひどく恐ろしくなり、湊は両手で釣り竿を握ったまま氷像と化した。
鯛が口を開閉するや、山神によって同時通訳が入る。
「それは、えびす神の予備の釣り竿である。先端の釣り針を羽根のおもちゃへ変えたゆえ、それで黒豹のコを遊ばせてやるといいと云うておるぞ」
「あ、ありがとうございます……!」
神からの施しは素直に受け取るべきである。そのうえ今回は、クロのためを思って貸してくれたのだから、活用してしかるべきであろう。
鯛が上目で見てきた。鯛は、楠木邸の露天風呂を非常に気に入っている。
「露天風呂だよね? ごゆっくりどうぞ」
湊が促すと、鯛は一度背びれを広げ、水中に潜った。すべらかに大池を突っ切り、末端近くから飛び出る。放物線を描いて露天風呂へダイブしていった。
「鯛なのに、真水もお湯も物ともしないっていまさらながらすごいなって思う」
「神の眷属ゆえ」
当然のように言った山神は、あくびをして寝返りを打った。
一方、クロは宙でぷらぷらとゆれている羽根に釘付けである。
湊はようやくそのことに気づき、にやりと笑う。
「これなら、思う存分遊べると思うよ。クスノキの下ではできないから、廊下へいこうか」
渡り廊下に出るも、クロはついてこず境目の所で立ち止まった。
幅が狭いゆえ、大池に落ちる心配をしているのだろう、と思っていたら、廊下の両端が広がる。
瞬時に大池を覆い尽くし、庭がほぼ板張りの道場のようになった。
これなら、クロが誤って池に落ちることは万に一つもなかろう。山神が気を利かせてくれたようだ。
かえりみると、山神の豊かな尻尾が床に降りるところであった。
「山神さん、ありがとう」
「うむ。そこで竿を振りたくって、黒豹の子を釣って遊ぶとよい」
「ギャオ!」
同じく礼を述べたのであろうクロは、広々となった床へ駆け出した。
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