14 湊印の効果やいかに
天井の片隅から、人型の悪霊が手の先端を尖らせ、心臓部目かけて突っ込んでくる。
触れる間際、黒手袋を嵌めた長い腕がしなり、硬く握られた拳が歪な頭部を貫いた。
断末魔の叫びすらあげることなく、形が崩れ、粉々に飛び散り消えていく。
間髪いれず、獣型の悪霊が部屋の隅から飛びかかってきた。
その横っ面を蹴り飛ばす。
直線状に吹っ飛び、壁に衝突し、潰れ、塵となって消えた。
廃校の一階、最後の教室内に潜んでいた低級悪霊すべて、ものの数分で祓い終えた。
それを横目で残滓すら残っていない様子を確かめる。
涼しい顔の播磨がスーツの襟を正し、出入り口の扉へと足を向けた。
「こっわ」
斜め後ろにいた陰陽師の同僚が肩をすくめた。
振り返ることもなく長廊下をまっすぐ進んでいく黒スーツの後ろ姿に続く。机や椅子が雑然と並んだ教室をあとにした。
室内に潜んでいた悪霊たちを一人で祓ってしまう播磨のおかげで、ただ傍にいるだけになっているのは、パナマ帽を被った壮年の男である。
二人は、国の行政機関である陰陽寮に所属する陰陽師だ。三階建ての廃校に巣食う悪霊を祓うべく派遣され、一階を祓い終えたばかりだ。
悪霊が蔓延るのは放置された学校、病院等大きな施設がとりわけ多い。
人が多く訪れる場所、加えて長く時間を過ごした場所ほど悪霊が住み着きやすくなる。
人から吐き出された妬み、恨み、未練、後悔、様々な悪感情の残留思念が建物にこびりつき、それを餌に同じく負の感情を抱えたまま死した霊が集まってくる。
そして争い、喰い合い力を増し、怨霊と化す。
やがて生者の人体、生活を脅かす霊障を発生させる様になる。
ひび割れたガラス窓から入る夏の容赦ない日差しにより、場違いに明るい廊下を二人の陰陽師は進む。
同僚が護符を扇状に広げて顔を仰ぐも、閉め切られた校舎内では、その程度の微風で涼をとれるはずもない。
「あっついねえ。俺もそろそろ親父に倣って和服にしようかな」
ぼやいたサマージャケットの同僚が、さして汗をかいていない横顔を見やる。
「お前さん暑くねえの。そんな手袋までしてんのに」
「暑いに決まってるじゃないですか」
「そうは見えねえが。にしても、武闘派の祓い方、こわ~い、おっさんにはとてもじゃねえけど、真似できねえよ」
「それぞれ得意なやり方で祓えばいいでしょう」
「まあ、そうだけどよ。久々に組むから知らんかったが、やり方変えたのか? 前はそうじゃなかっただろ。九字切ってたよな」
「殴ったほうが早いので」
弛み始めた腹部が気になるお年頃の同僚が、酢でも飲んだかのような表情になった。
「お前さん、見かけによらず、力こそが正義な奴だった?」
「そうですね。見たままだと思いますが」
「なに言ってんだか。いかにも、おっと――」
天井から悪霊が頭上目かけて落ちてきた。
帽子を押さえながら横に反れてかわし、護符を投げつければ、触れた箇所からボロボロと塊が剥がれるように崩れていった。
歩みを止めることなく振り返って成り行きを見届け、角を曲がり中央階段へ。
「頭脳派。デスクワーク向きって感じなのにな」
己ではまったくそう思っていない播磨が、躍り場を曲がった所に待ち構えていた悪霊を踏み潰して祓う。
靴底に仕込まれた護符により、ボールを踏んだように脇に膨れて弾け飛ぶ。
同僚が「うわあ」と護符の扇で引きつる口許を隠した。
何食わぬ顔で眼鏡を押し上げた播磨が、階段に足を乗せる。
「単に眼鏡かけてるからそう見えるんじゃないですか」
「ちげえ、それだけじゃねえって。播磨の坊ちゃんよ」
「その呼び名、やめてくださいよ。二十七にもなる男にいつまでも坊っちゃんはないでしょう」
二階にたどり着き、左右へと首を巡らせた。
長く延びる長廊下の等間隔に並ぶ扉は、すべて開かれている。
意識を集中し、気配を探ることしばし。
二階に悪しきモノのはいないようだ。
同じく両目を閉じ、聴覚で探っていた同僚が頷く。
「二階は大丈夫そうだな。すまん。つい呼んじまうんだよ、癖で」
同僚は播磨の父と知己だ。
播磨才賀が幼少の時分から面識があり、“坊っちゃん”は、当時から変わらぬ呼び名である。
からりと笑う一向に悪びれる様子もない同僚に、無駄だと知っていながらも一応進言したにすぎない。
気さくでさっぱりとした性質の男だ。
からかう気も嫌みでもないとはわかってはいるが、いつまで経っても子ども扱いされているようで面白くはなかった。
若干の苛立ちを浅いため息で逃がし、階上を見上げた。
窓のない薄暗い階段を、瘴気がゆっくりと漂い下りてくる。人の声と物がぶつかる衝突音も、かすかに聞こえる。他の陰陽師たちが三階で悪霊祓い中なのだと知れた。
同僚も播磨に倣って階上を見やり、顔を雲らせる。
「どうすっかな。助太刀……要るか? 助けても感謝どころか舌打ちするような奴に」
「……いかないわけにはいかないでしょう……仕事ですし」
苦々しさを抑えきれない声。わずかに歪む顔。
全身から隠し切れない拒絶がにじみ出ている。
眉尻を下げた同僚が、己の肩より高い位置にある肩を労うように叩いた。
「
「寿司でお願いします」
「相変わらず遠慮がねえな、よいとこのご子息なのに。別にいいけどよ」
「貴方の家も似たようなものでしょう」
双方、代々陰陽師を輩出してきた家系であり、エリート中のエリートである。
陰陽師となるためには、生まれ持つ素質が物をいう。
古来から連綿と受け継がれてきた術師の血を引く播磨は、元々の才能だけに頼らず弛まぬ努力により、現陰陽寮でも一・二を争うほどの実力者だ。
対して三階で悪霊祓い奮闘中の一人、同期の一条は才能だより。
努力せずとも幼き頃より悪霊を祓えていたせいで、腕を磨くことを怠り、自惚れだけを増長させた。
同年で何かと比較、引き合いに出されてきた二人は、年を追うごとに実力、地位の差は開いていった。
結果、関係は悪化する一方。
何かと敵愾心剥き出しで突っかかってこられ、鬱陶しいことこの上ない。
悪霊をより多く祓ったのはどちらか、どれ程強いものを相手取ったのか。
いちいち比べて、一喜一憂。子どもか。
完全なる被害者の播磨に周囲も同情的で、極力犬猿の仲である二人の仕事場を被らないように図ってくれている。
だが今回、人手が足りずあえなくバッティングしてしまった。
廃校に着き、顔を合わせた時から喧嘩腰だった。
殺伐とした空気が漂う中、最も強い悪霊が三階にいると判明。
さすれば「階下の雑魚はお前が相手しろ」と上司である播磨に命令し、幼馴染みの女性を引き連れ、三階へと直行したのだった。返事をする間もなかった。
関係改善はとうの昔に諦めている。
陰陽師としての本分をまっとうしてくれれば、それでいい。もう、それだけでいい。そう、割り切るしかない。
播磨は憂鬱そうに視線を落とす。
視界に入った革靴は、うっすら埃を被っている。
綺麗好きが眉間に皺を寄せた
どこもかしこも薄汚れ、埃まみれ、空気も淀んで最悪の環境だ。息をするものも正直、御免被りたい。
可及的速やかに悪霊を始末し、校舎を出るべきである。
三階へと向かうべく、播磨は階段に向き直った。
「年々、外見だけ老け込んでいくのが、またなんとも……」
「おっと。こちらにも流れ弾が」
わざとらしく両手で左胸を押さえる同僚に苦笑し、重い足を一段目へと乗せた直後――。
「ぎゃあああーッ!!」
聞き慣れた、聞きたくもない声の耳障りな悲鳴。
首だけで振り返り、顔を見合わせる。
「一条!」と裏返った女の声も後追いで聞こえた。
同僚が上着の裾を翻し、階段を踏み込む。
「しっかし、まあ、なんだ。野郎の野太い悲鳴ってやつあ、急いで駆けつけてやろうって気にならんもんだな」
「相手が相手なので、仕方ないかと」
「違いねえ」
至って落ち着いた優雅とも言える歩調で、二人は階段を上り始めた。
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