10 山神の目的
すぐさまキビキビと働く使用人たちにより、場は整えられた。
いまや何も置かれていない長テーブルについているのは、一人だけだ。
神座の大狼と対座する、椿である。
前日、当主が祖の神とコンタクトを取った際、今回降りる身に選んだのは、次期当主であったという。
播磨からそう聞かされた湊は、他の播磨家の者とともに壁際に立っている。
急展開であったが、湊は驚かなかった。
わかっていたからだ。
播磨が楠木邸を訪れた折、山神が言った『ぬしの
山神が播磨の神に会いたいのだと。
湊をもてなせとは、播磨邸へ赴くための口実にすぎない。
ダシに使われたわけだが、昨夜その理由を聞いたため、とりわけ不満はない。
さておき、この場に二人の子どもがいないのは、いつも通りであるらしい。誰一人、口を開くこともなく、ただ椿を見つめている。
その場に緊張感あふれる空気が流れていても、山神に気負った様子はない。
ただ待っている。
豊かなその尻尾が動くたび、しゃらしゃらと硬質な音が鳴るのを聴きながら、湊は小声で隣の播磨に尋ねた。
「俺は平伏した方がいいですか?」
なにせ展開があっという間だったため、ろくに情報を与えてもらえなかったのだ。
神降ろしの場に立ち会った経験はむろん皆無である。通常、居合わせた人間は土下座して迎えるものではないだろうか。
「――いや、ひれ伏さなくていい。向こうもまったく気にしない。というより、君は見向きもされないだろう」
予想外の播磨の言葉に、疑問が浮かんだ。
「――冷たい方なんですか?」
「そうでもないんだが……。祖の神は――」
唐突に言葉を切り、播磨は視線を逸らした。同時、湊もただならぬ気配を感じ、その発生源たる椿を見た。
今しがたまでの椅子とは異なる豪奢な椅子に、浅く腰掛けている。吊られたように背筋が伸びて、正面を向いたその双眸は閉ざされたままだ。
その顔が、かすかにうつむいた。
次の瞬間、顎がはね上がるとともに、どかり。背もたれに寄り掛かり、大股を開こうとした。
が、タイトロングスカートに阻まれてできない。仕方がなさそうに脚を組んだ。
「お、俺の椿さんがぁ……っ!」
佐輔が嘆くように、まことに不遜な座り方である。椿とは別人としか思えず、何より神気を発していることから、神が入ったのは疑いようもなかった。
こうもあっさりと神が人身に降りるのかと、湊は度肝を抜かれた。
椿の全身から発せられる神気で向こう側の景色も歪む。肌を圧迫してくるその濃密さと斬りつけてくるような荒々しさに、湊は背中に冷や汗をかいた。
この神は、強い。荒くれ神の代表格――スサノオに匹敵するかもしれない。
まさか武の神なのだろうか。
嫌な予感から顔面を強張らせつつ、湊は山神を見やる。
いざ、その大口が開きそうになった時、突然、椿――祖の神が立ち上がった。
「あ、そうだ。確認しなきゃならんことがあった。山の神よ、もうしばらく待っていてくれ」
「――ぬ?」
面食らった山神の返事を待つこともなく、祖の神はすたすたと、こちらに向かってきた。内心でおののく湊のもと――ではなく、隣にいた播磨の妹のもとへ。
「藤乃、顔を見せよ」
そう言うも応えを待つこともなく、藤乃の両頬に手を添えて上を向かせた。似た顔が触れそうに近づき、妙にどぎまぎした湊と違い、藤乃は微動だにしない。
平然と見返すその顔を穴が空きそうなほど凝視した祖の神が口を開く。
「よしよし、幸せそうだ。婿とうまくいっているな」
その声も顔も実にうれしそうで、心から喜んでいるのは誰の目にも明らかであった。
「ええもちろんです、お爺様」
至近距離で微笑み合う二人であったが、唐突に離れた。藤乃の腰を由良が引き寄せ、佐輔が祖の神の腕を逆方向へ引いたからだ。
神をも恐れぬ伴侶たちの暴挙に、湊は血の気が引いた。その行為そのものもだが、何より態度だ。由良はまだいい。己が妻を守る顔をしている。
が、佐輔は違う。
祖の神を睨みつけている。憎々しげだといってもいい。昼食会の時に見せていた、妻に惚れぬいた男がする表情ではなかった。
「爺様、早いとこ用事を済ませて、とっととお帰りになってくれませんかね」
さらに吐き捨てるような物言いに、湊は蒼白になった。
神が荒ぶるかもしれぬと身構えるも、まったくそんなことにはならず、どころか祖の神はご機嫌そうに笑った。
「まぁそう言うな、椿の婿よ。吾がうぬの愛しい愛しい椿の身体を借りるのは、ほんのわずかな時間にすぎん。まあ、許せよ」
佐輔の肩を景気よく叩いた。
そうして湊と播磨の前を素通りし、当主のもとへ。
「芙蓉、もう少しあちらにいてもよかったのではないか?」
「いいえ、お爺様。わたくし、
微笑みつつも拒絶している。そこに宗則も妻に便乗した。
「そうですよ、お爺様。ですから、あの手この手で妻を引き止めるのはおやめください」
この会話から湊は、当主が神界へ赴いたのだと悟った。それを行うには、人の身ではできない。魂のみとなっていかなければならないのだと、以前山神が言っていた。
ゆえに播磨の父の様子がおかしかったのだ。妻の帰りを心臓が潰れる思いで待っていたのだろう。
それを承知であろうに、祖の神は快活に笑う。
「そう言われてもなぁ。かわいい孫が遊びに来てくれたら帰したくなくなる気持ちは、孫娘ができた今の芙蓉の婿なら理解できるだろう?」
「もちろん痛いほど理解できますが、許容はいたしかねます」
額に青筋を立てるその顔を見て、湊は顎を落とした。
しかしやはり、祖の神が怒髪天を衝くことはなかった。
おそらく祖の神は、己が血を引く娘をとことん愛しており、その彼女の人生に必要不可欠な男には、どこまでも寛大なのだろう。
己が孫娘に構って彼らが不機嫌になるのを楽しんでいるフシもある。それだけ彼らが己の伴侶を想っていることを確かめて、喜んでいるのだ。
改めて思う。
神の愛は深いと。
そして果てしなく重いのだと。
赤の他人でしかない湊でも、その度合いに寒気を覚えた。
そんな祖の神だが、男の播磨には見向きもしない。そのうえ湊のことも一顧だにしないのならば――。
なんとなく察した湊が播磨を見ると、風に紛れるようなささやき声で予想通りの答えが返ってきた。
「祖の神は、基本的に人間の男を認識しない」
「極端ですね……」
嫌われるのも辛かろうが、いないものとして扱われるのも同じように心が痛むだろう。
昔からこのような態度を取られてきたのであろうが、播磨は普段と変わらない態度だ。その胸の内を推し量ることはできなかった。
「そろそろよいか」
ふいに山神の低い声が室内に響いた。
とはいえ不機嫌そうでもなくいつも通りだ。鎮座したまま、凪いだ湖面のような眼で祖の神を見つめた。
それを受けると、祖の神の様子が変わった。笑みを消したマネキンめいたその身が元の席へと戻っていく。
「あいたたた、よっこらせと」
大儀そうに座し、肘掛けに肘を置いた。
「俺の椿さんはそんなバアさんみてぇなこと言わねぇし、座り方もしねぇんだよ! 将来的になるならいいけどよ!」
そう叫んだ佐輔が駆け出すも、すぐさま由良がタックルでせき止め、播磨が羽交い締めをかける。二人がかりで後方へ引きずられていくその胸元から、カランと黒い物が落ちた。
あれは手裏剣かと湊が目をむいていると、山神の厳かな声がした。
「我が今日ここへ来たのは、他でもない。ぬしにひと言断りを入れるためぞ」
その発言を聞いても湊が驚くはずもなく、静かに隣へ戻ってきた播磨も、ただ静かに上着の襟を正している。
「はて、山の神ともあろう方がわざわざ山を下りてまで、吾の許可を得たい事柄とはなんでしょうか」
祖の神は愉快げな笑みを浮かべ、先を促すように小首をかしげた。
「播磨才賀の身をちとイジるがよいか」
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播磨の祖神は、オリジナルの神です。
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