5 神々が個人名を呼ばぬワケ
『ちょっくら竜宮城にいってくるぞい』
なんのてらいもなくそう伝えてきた霊亀と、その仲間たちを送り出した翌日。陽気にやってきたウツギが、石灯籠のそばで神霊と向き合っている。
昼下がりの陽光を浴びながら拳を握るテンが、眼を閉じたエゾモモンガを励ましているようだ。
その様子を縁側に腰掛ける湊が見やったのち、背後で伏せた大狼へと視線を流した。
「山神さん、ウツギたちはなにをしてるの?」
「念話の練習よ。いま山におるセリやトリカと話すべく励んでおる」
「ああ、なるほど」
神霊はそれもできなかったのか、とさすがに口には出せなかった。
神霊はいまだ生来の力を遣えず、山神の眷属としての力もまともに行使できない。
「じゃあ、山神さんとセリたちとも、感覚をつなげることもできないのかな」
「うむ。残念ながら、な」
遠方に赴いた眷属は、五感で得た情報をダイレクトに山神と他の眷属にも伝えることが可能である。
眷属ならば労せずしてできることすらできぬとは、これいかに。
湊は履き物を脱ぎ、きちんと山神と差し向かった。
「俺にはまったくわからないけど、山神さんが与えた体が神霊に合わなかった、なんてことはないの?」
なかなか際どい質問だと内心で思っている。ともすれば、山神の不手際と取られかねないからだ。
とはいえそう沸点は低くないはずの山神なら、いきなり怒髪天を衝くことはあるまい。
目論見は当たり、山神はしばらく眼を伏せて考え込んだ。
「――うむ。思ってもみなかったが、そういう場合もあろうか……。いや、しかしつくった際、気は抜かなかったぞ」
やや不穏な言葉が聞こえたが、湊はあえて触れなかった。とりわけ心当たりがないのであれば、その可能性はないのだろう。
「単に神霊が、その……不器用なだけなのかな?」
ためらいがちに小声で訊くや、山神は起き上がった。鎮座するその顔は、やけに厳しい。
「我もそう思うておる。――まだあの身を動かせるようになったばかりゆえ、他のことにまで気を回せぬのであろう。これからぞ。いましばらく様子を見る」
「――そっか」
眷属には手厳しい山神のことだ、妥当な判断といえよう。
湊と山神が同時に石灯籠の方を見やると、ウツギが熱く説明している真っ最中であった。
「――違うよ。もっとこう、額あたりにグッと力を入れたら、ふわふわ〜となんかみえてくるでしょ。そしたら、そこにガガッと意識を集中すれば、パァー! とセリが見てる景色が視界全体に広がるよね⁉」
いかにも感覚で物を捉えているモノの説明の仕方であった。エゾモモンガは理解しがたい顔をしている。
「あれじゃ、わからなさそうだ」
湊も苦笑いするしかなかった。しかし山神一家のつながりは理解の範疇を超えているため、アドバイスのしようもない。
指導するのはセリが適任だったのではと思うも、彼らのやり方に口出しする気もなかった。
エゾモモンガはあたりをうろついたり、二本足で立って体を伸ばしたり、いろいろと模索して励んでいる。
が、しょんぼりとうつむいてしまった。
「ダメだったか……」
湊はいたたまれなさに顔を背けた。
「うむ……」
山神もしょっぱい顔をしている。が、気の長さに定評のある神はそこまで気にしていない。
「なぁに、じきに全部できるようになろう。いまも欠片もできておらぬわけではない。念話もかすかに聴こえておるうえ、セリが遠くから眺めているこの家も、うっすらみえておるぞ」
「じゃあ、続ければ問題なくできるようになりそうだね」
「おそらくな」
山神たちがそんな会話をしている間、ウツギが弾んだ声をあげた。
「――念話はまた明日にしよ、明日! じゃあ次はね〜、炎を出して見せてよ!」
その両眼は期待できらめいている。
炎は今のところ、神霊が唯一行使できる己の力である。それを遣えば、落ち込んだ神霊の気分も上がるだろうと、ウツギが気を利かせたのかもしれない。
「ウツギ、すっかり大人になって……」
じんわりと感傷に浸る湊を山神が半眼で見た。
「――否、ウツギはただ単に、炎をじかに見たいだけぞ」
「いや、意外にも気遣いに長けたウツギのことだから――」
揉め出したふたりをよそに、神霊は気を取り直し、やる気をみなぎらせた。
ぽっかりと出入口の開いた火袋のもと、毅然と面を上げ、きゅっと拳をつくった。
ボッ! と瞬時にその全身が黄色い炎に包まれた。
「ふわ〜! すごい、おっきな炎だ〜!」
ウツギは、風神ならびに湊の風や雷神の雷にも憧れているため、火の玉と化した神霊の周囲を、すごいすごいと歓声をあげてはしゃぎ回った。
それに応えるべく、エゾモモンガの眼も燃え盛る。
いいところを見せたいと思っているのだと、湊は察した。
落ちつきがなくなった湊と両眼を細めた山神が見つめる先で、炎が形を変えた。
エゾモモンガの足元で渦を巻き、一筋の火が螺旋を描き、その身を昇っていく。
「うわー! 炎の龍みたい!」
きゃっきゃとウツギが歓声をあげるも、
「わっ、あっついッ」
突然大きく後方へ飛び退った。
その瞬間、石灯籠の火袋から火花が散った。
神霊の寝床である火袋内の小座布団が燃え上がったのだ。他にも、クスノキの枝と葉が入っている。
火袋から生き物めいた火の舌が無数に伸びる。
神霊が焦るも、炎の勢いは増すばかり。
湊の後方で盛大なるため息がしたあと、火袋の窓が目にも止まらぬ速さで閉ざされた。
騒然となった場に、一瞬にして沈黙が落ちる。
湊が縁側に歩み寄っていく。
「中の座布団は人工物だったからね……」
火袋はほぼ真上の位置であったから、直火を食らったようなものだ。神が出す火に太刀打ちできなかったのだろう。
神霊を取り巻く炎はまだ消えていない。
決してその身を焼くことはないのだとわかっていても、やや心臓に悪い。
そんな神霊が所在なさそうに佇む石灯籠に近づくと、窓が開いた。途端にあふれ出す焦げた臭いに鼻周りを覆う。
「湊、気をつけてね」
斜め後方で首を伸ばすウツギに注意を促された。素早く逃げたおかげでその身は無事のようだ。
「わかった。――あー、座布団もクスノキの枝葉も全部燃えちゃったね」
背を屈めて見れば、神霊のお気入りの品々が黒い塊となっていた。が――。
「あれ、まだ火が残ってる――」
突如その中央から赤色が広がった。その火が湊の顔面に襲いくる。
「湊!」
仰け反る湊の名を
同時、とっさに己を守るべく風を放った湊の動きが止まる。
その両の目は、焦点を結んでいない。
炎を纏うエゾモモンガから、一筋の火がまっすぐ伸びた。それが湊の胸部を取り巻き、徐々にすぼまっていき――。
「ならぬッ!」
山神の大喝が響くや、神霊を包む炎と火の筋も消し飛ぶ。
直後、湊の目にも生気が戻った。
「――うわッ」
よろけたそのふくらはぎをウツギが支えた。
「湊、しっかりして!」
――ちりん! ちりりりりん!
風鈴も警鐘のごとく高らかに鳴り続ける。
「え? あ、うん。――えーと、俺どうしたんだろう?」
体勢を立て直す湊は、自らが神霊に何をされそうになったのか、まったく理解していなかった。
縁側から飛び降りた大狼が、みなのもとへと向かう。
鼻梁に深く入った皺、頭部と尻尾を下げたその歩み。ほとばしる神圧に圧倒され、湊はまたも仰け反った。
そのおっかない大狼が足を止めたのは、縮こまったエゾモモンガのもとであった。
厳しい顔つきで神霊を見下ろす。
「己がなにをしかけたか、わかっておるな」
「――はい」
甲高い少年の声が返事をした。
「かの魂を己に縛りつけるつもりであったか」
「――否。ただ護らねばならん、と思ったのじゃ……」
伏せ目で泣きそうな声で言われてしまい、山神も神気を抑える。
「しかし悪手ぞ。己が力をまともに遣いこなせぬ今の状態で、かように力を込めるとは。先のことをまったく考えてもおらんかったであろう」
「まことにかたじけない……」
内容が理解しがたい湊は口を挟めない。ウツギに促され、相対する神々からゆっくり離れた。
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