6 ぬしの名は
「山神が言った、かの魂とは湊のことだよ」
ともに縁側に腰掛けると、ウツギが硬い小声で教えてくれた。
山神や他の神も個人の名をなるべく呼ばないようにしているのは、湊も気づいていた。
そのうえ思い起こせば、今し方、あの幼い声で名を呼ばれたような気もする。
「神様が個人の名前を呼ぶとなにかまずいの?」
「力を込めて呼べば、その者の魂を己に縛りつけることができるんだ」
「――そうすると?」
「人間は輪廻の輪から外れて、転生できなくなる。ずっとその神とともに在ることになるんだ」
「お、おう」
それはよいことなのか、悪いことなのか。
悩ましい顔になった湊を後目に、ウツギはあけすけに語る。
「どちらかといえば、飼い殺しだと思うよ。たいがいの神は己が望み、なおかつ人間も同様ならそうするけど、中には気に入った魂を無理やり自らに縛り付ける神ももちろんいるよ」
「――神様だからね」
「そう、神は身勝手だからね」
神々との付き合いが長くなってきたからこそ理解できる。たとえ理不尽であろうと神とはそういう存在なのだと。
猫背になった湊は考え込む。
「無理やりじゃなくて、人の方もそう望むのなら、それは幸せなことなのかな」
曲がっていた背を伸ばしたウツギは、やけに真剣な面持ちになった。
「わかっているだろうけど、人間は死ぬ生き物だよ。それは、あらかじめ決められていることなんだ。その
まだこの世に生まれてさほど経っていない眷属であれど、山神の記憶を継承しているだけにその言葉には重みがあった。
その時、唸りをともなう山神の声がした。
「徐々に成長していけばよかろうと思うておったが、そう悠長に構えてはおれぬわ」
ハッと湊がそちらを見やる。
うつむくエゾモモンガを山神はじっと見下ろしている。
「ぬしの力、またいつ
何をしようとしているのか。
不穏な気配を感じた湊は、顔色を変えてそばに駆け寄った。
「山神さんっ」
どう言葉を続けていいかわからず、ただ呼びかけた。
山神が視線のみを向けてくる。
「なぁに、なにも案ずることはない。こやつに名を与えるだけぞ」
「名を与える……? じゃあ、いままで名前がなかったってこと?」
びくりと身をはねさせたエゾモモンガを、山神はやや痛ましげに見やった。
「否、あるにはある。しかしその神名を人間に知られたばかりに囚われる羽目になったのよ。ゆえに、こやつはその名で呼ばれることを望んでおらぬ」
己の名を忌避するせいで力が不安定な可能性もあるという。
湊は即座に返す言葉が見つからなかった。
いままで誰も神霊の名について触れなかった。いつか神霊自身から教えてもらえるかもとのんきに思っていたが、なかなかヘビーな言えぬ理由があったらしい。
「――や、山神さんに名付けてもらえるなら、強くなれそう……いや、なんか違うな。え、縁起がよさそうだよね!」
湊が力んで言うと、背後にいるウツギが慈愛のこもった表情になった。
湊、すごく頑張って明るい空気に変えようとしているなと。
それをもちろん理解している山神が深々と頷き、穏やかな声で告げる。
「そうであろう、そうであろう。名誉に思うがよい。我の眷属としての名をくれてやろうぞ。その名を己がものと強く自覚すれば、いまは不安定でしょうがないぬしの力もすぐさま安定しよう」
「すごい! よかったね⁉」
湊が勢いよくエゾモモンガを見やると、両眼を潤ませていた。
「――うん」
ゆっくり頷くその大きな眼から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
かくして、命名式と相成った。
場を改めて整えるまでもない。楠木邸は管理人によって常に清められているうえ、祝詞なども唱える必要もない。神がほぼ常駐しているからだ。
短冊がなびく風鈴がいる、縁側に場所を移した。
座布団に鎮座する大狼とエゾモモンガが向き合い、その後方に
「――ぬぅ……。山絡みの名にすべきか……否、花絡みとすべきか……否、草にまつわる名は……」
半眼になった山神は、かれこれ一時間近く悩みに悩んでいた。
「時間がかかるのは、当たり前だよね」
湊が小声でウツギに言うと、だよねと同意された。
「神霊の大事な名前だもんね〜。我らの時も三日かかったんだよ」
「そんなに……」
知らなかった。だが適当につけてよいわけもなく、道理であろう。
神霊が固唾を呑んで待っているため、できれば今日中には決めてもらいたいところである。
湊がこっそり膝を崩そうとしていると、
「邪魔するぞ、湊」
塀を華麗に飛び越えたトリカが縁側まで駆けてきた。
「いらっしゃい、トリカ」
「まだ名は決まっていないようだな」
「うん、もう少しかかりそうだよ」
トリカが湊の横に座る間も、山神の低い唸り声は途切れない。
「我の眷属であれど、いちおう神でもある。セリらと似た名にするのは……ぬぅ、いかがしたものか……。海絡みにするか……否、なんのつながりもないではないか」
時折自らにツッコミを入れている最中、セリも塀の上に現れた。
「湊、お邪魔しますね」
「どうぞ〜」
セリは音もなく敷地内に降り立ち、軽やかに縁側へやってくる。
「どうやら間に合ったようですね」
「うん、まだお悩み中だよ。あと少し……かなぁ?」
湊とテン三匹が微苦笑を浮かべるも、神霊は微動だにしない。食い入るように大狼を見続けたままで、待ちわびている。
「――やはり、鍛冶絡みの名にすべきであろうか……」
悩ましい山神の声が響くや、鍛冶の神たる神霊が身を強張らせた。
大狼がついっと顎を上げ、胸を張る。
エゾモモンガと、後方に並ぶ湊とテン三匹の背筋も伸びた。
――ちりん。
ゆらりと山神の身から神気が立ち昇り、リビングの景色が歪む。
その口が開かれるや、その場にいるモノすべての鼓膜に重低音が染み入った。
「よいか、心して聴くがよい。――ぬしに与える名は、カエン。火を扱うのをいちおう得意とするぬしには、これ以上の名はあるまいよ」
山神の神気の先端が内側を向き、エゾモモンガの額へと収束する。そこに描かれていた紋様に光が灯り、一瞬、ひときわ輝いて消えた。
ふるりとその身が激しく震えた。
一度、瞼を閉ざしたエゾモモンガ――カエンはふたたび眼を開く。いままでとは異なる、静けさをたたえた眼差しであった。
「ありがたき幸せにござりまするっ」
深く、深くこうべを垂れた。
その真後ろで湊が感嘆の声をあげる。
「おお」
意外にまともな名だとは言えず、
「ぴったりだと思うよ」
と無難に感想を言えば、山神が得意げにふんぞり返った。
「そうであろう。毒きのこのカエンタケから取ったぞ」
「え?」
あまりに予想外で、湊は目が点になった。
カエンタケ。枯木あたりの地上に生える、燃え上がる炎の形と色をした猛毒きのこである。
触れただけで皮膚が炎症を起こすゆえ、注意されたし。
その昔、地元の大人に怖い顔で忠告されたことを湊は思い出した。
それはともかく、単に炎から連想して名付けたわけではない――こともないだろう。形も似ているうえ、他にもある。
「あー、そうか。セリたちも毒草の名前由来だからか」
「そうですよ」
「だな。そろいとも言えるな」
「かわいらしい見た目に騙されるなよってね!」
ドクゼリ、トリカブト、ドクウツギの毒草三兄弟が快活に笑った。
では、神霊改めカエンは力を自在に扱えるようになったのか。
検証すべく、カエンは立ち上がった。
縁側に腰掛けるギャラリーの視線を一身に受け、眼を閉じたエゾモモンガは地面に佇んでいる。
ゆるやかな風がその毛羽立つ被毛をなでていく。同じく風に巻かれたクスノキから、一枚の葉が飛んだ。
それが小径に滑り落ちた瞬間――。
カッとエゾモモンガの眼がかっぴらかれた。
音もなくその身の中心から一筋の赤い炎が吹き出し、くるりと自身を取り巻いた。
浮き輪めいた火のリングは細く、完全なる円だ。その輪が神霊の足元へ下がり、次に頭へ上がりきったと思ったら、二つに分かれた。
そして次から次に分裂して下へと連なっていき、その身を覆い隠していった。
円筒となったそれぞれの火は、ちろちろと燃え続けている。それからさらに、色も変わりゆく。赤から、黄、白、そして青へ。
目にも鮮やかな炎の演舞であった。
何はともあれ燃やせ! と言わんばかりにただ自らを炎で包み、カッカと燃やすだけであったいままでとは、明らかに違う。
前のめりで見学していた湊が口を開いた。
「自在に火を扱えるようになったみたいだね」
「――うむ。ひとまず安定しておるようぞ。もう暴発することはなかろう」
つぶさに観察していた山神は顎を引き、太鼓判を押した。
「おめでとー!」
笑顔の湊とテン三匹がそろって祝い、神霊のもとへ駆け寄る。同時、反り返ったクスノキが樹冠を前へ倒し、青葉を放った。
「わぁ……!」
まるで祝福の紙吹雪のように、歓声をあげるギャラリーとカエンに降り注ぐ。しかしその炎に触れようと、一枚たりとも燃えることはなかった。
お気に入りのクスノキの枝や葉を燃やすようなヘマは、もうすることはないだろう。
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