14 歓迎できぬお土産



 朝方から降り続いた雨は上がっても、空には薄い灰色雲が漂う。

 本来ならやや肌寒さを感じる気温だが、神の庭はあたたかな陽気に満ちている。

 縁側の座卓に向かい、筆を握る湊は半袖である。


 昼食後から護符の作成をはじめて、二時間ほど経過していた。

 庭は至って静かだ。滝の落水音のみが響き、毎日のように訪れる野鳥は一羽もいない。


 湊が護符をつくる間は、神域は閉ざされているため、その集中は途切れていなかった。


 座卓に鳳凰がいるおかげでもある。

 湊の真正面の位置を陣取り、その吊り眼で護符が焦げそうな熱い視線を常時注いでいた。


 湊が一定の速度で線を引いていく。

 その線は、ブレることも、曲がることもない。太さも長さも均一。

 むろん祓う力と閉じ込める力、両方の込め方も均等だ。

 寸分違わず翡翠色の格子線が描かれていった。

 座卓近辺は、どこか厳かさを含む緊迫感に包まれている。


 が、その傍ら、座布団で仰向け状態の山神は、鼻から盛大に提灯を吹いていた。


 山の神、爆睡中。呑気なものである。

 御身が大きかろうが、小さかろうが、何も変わらぬ。

 これが山神の常態ゆえ誰も気にしない。


 他の面々も普段通りに過ごしている。

 ゆるやかに流れる川沿いを霊亀がのんびり散歩し、滝壺からのろりと出てきた応龍は滝を登る。

 どこを見ても、平和で、平穏。和やかな時間が、たゆたうように流れていた。


 だが、突如としてそんなまったり時間は、終わりを迎えることになる。


 パチッと山神の鼻先で提灯が弾けた。

 それを合図とばかりに、場の雰囲気が一変する。


 山神が跳ね起きる。霊亀が眼をかっぴらき、地を踏みしめる。滝から躍り出た応龍が羽を威嚇するように広げる。鳳凰は全身の産毛を逆立てた。


 一様に殺気立った。


 湊も顔を上げる。

 山神をはじめ、見上げる三瑞獣が睨み据えるのは、空の彼方の一点だ。

 御山の稜線りょうせんより、やや上方あたり。


 それは最初、曇天の空に打たれた一つの黒い点だった。

 みるみる間に近づき、大きくなっていく。

 瘴気が取り巻く黒い塊。

 その塊が長く尾を引く様は、まるで黒い彗星のようだ。


 楠木邸を覆ってあまりある広範囲の瘴気が迫る。

 その中心に視線を固定したまま山神は、盛大にため息を吐いた。


「また憑かれてきおって……」


 おどけた台詞ながらも、その口調は固い。


「……あれは、麒麟さん……だよね」


 湊の視界では、薄黒い霧にまとわれながらも、駆ける麒麟の姿がうっすら見えるのみ。

 直視が辛いほど鮮やかだったその御身は、今やよく目を凝らさなければ見えないくらい薄くなっていた。


 山神が縁側から飛び降り、裏門へと向かう。

 湊はポケットからメモ帳を取り出し、鳳凰の足元に置いた。

 それは、敷地を覆うくらいの翡翠色を宿している。


 鳳凰が物言いたげに見上げてくるのを視線だけで制し、湊は立ち上がる。

 その手に書いたばかりの護符を持って。


「ちょっと、いってくるよ」


 静かな声で告げ、鳳凰に背を見せた。

 新しい護符を自ら試す機会が訪れたようだ。



 麒麟は楠木邸に居つく前にも、憑かれて帰ってきたことがあり、これで二回目になる。

 前回は湊のメモ帳を咥えた山神がそばに寄り、あっさりと祓った。

 その時、湊の視界では前にもあとにも何も見えはしなかった。

 けれども今回の瘴気は薄いながらも見えた。

 それだけ強力な悪しきモノに憑かれているということだ。



 山神が裏門前までたどりついた時、その背に湊が追いつく。

 遠くからどんどん塊が近づいてくる。

 それを見据える小狼が不快げに鼻筋にシワを寄せた瞬間、湊が後ろから両脇をつかんで抱え上げた。

 四肢が宙をかきかき。


「なぬ?」と小狼がまんまる眼になる中、門の脇にちょこんと置かれた。

 湊が小狼の肩部分をつかむ。

 やや強引に座らせ、その場に縫い止めるように強めに押さえつけた。


「山神さんは、出なくていいよ。ここにいるように」

「……うむ」


 真顔、かつ真摯な声で告げられては、素直に従わざるを得ない。

 狛犬のごとき佇まいで、格子戸を開ける湊を見守るしかなかった。



 湊が敷地外へと一歩出たのと、裏門前の拓けた場所に黒い塊が落ちたのは、ほぼ同時だった。

 塊がゴロゴロと転がってくる。まき散らされる瘴気で、あたりが急激に陰る。


 だが湊には何も変化はない。

 穢れ耐性が極まっているため、身体に異常を感じることもない。


 すたすたと歩み、上体をかがめて待ち構えた。

 弾みをつけて飛び込んできた塊を、護符を持つ両手で挟んで受け止める。


 瞬間、悪霊が消し飛んだ。


 麒麟にうぞうぞと取り巻いていた長虫に似た悪霊は霧散してしまった。

 もし実際にそのおぞましきモノが視えていたら、ためらいもなく同様の行動は取れなかったかもしれない。


 ともあれ、護符は悪しきモノに直接触れない限り、除霊効果を発揮しなかった。文句なしの出来であった。


 今までの護符は、除霊の効果を垂れ流している状態で、行き合った悪霊を無差別に祓っていた。

 しかし、新たに得た力で祓いの力を完璧に閉じ込めることができているため、無駄に効果が減ることもなくなった。


 とはいえ、まだその持続時間は少ない。

 数箇月、数年は閉じ込めておけるよう、要鍛錬である。



 湊が腕の中の麒麟を見下ろす。

 横たわるその身は、透けてかすかに震えていた。


「麒麟さん……」


 呼びかけても、反応もない。眼が焦点を結んでいなかった。湊の表情が曇る。


「単に眼を回しておるだけぞ。こちらへ連れてくるがよい。もう穢らわしいモノは、欠片もついておらぬ」


 背後の山神に促され、麒麟を抱えて立ち上がった。




 山神に先導され、ついたのは露天風呂だ。

 山神が顎でほかほか温泉を指す。


「ほれ、ひと思いに放り込んでやるがよい」

「さすがにそんな手荒な真似はできないよ」


 膝を折った湊が、そっと麒麟を湯にひたした。

 その身を半分ほど沈めると、うつろだった眼に生気が戻る。湊のほうを向いて瞬きを繰り返し、呆けたようになった。

 自らの状態がいまいち理解できていないらしい。


「大丈夫?」


 突然、びよんと跳び上がった。


「うおっ」


 派手にお湯がかかり、湊は岩に手をついた。

 相変わらず、素早い。

 一瞬にして後方の太鼓橋まで逃げられてしまった。足腰はまとものようで安心ではある。


 麒麟は橋のギリギリまで後退して戦いているが、以前よく見られた、妄想で湊に怯えていた様と酷似していた。



 麒麟は人が嫌いだ。

 いくら湊が恩人であろうと、自分に害をもたらす存在ではないと頭では理解していようと、人間という種であることに変わりはない。

 どうしても生理的嫌悪を拭えない。

 緊急時に自ら触れることはできても、触れてこられるのは、耐えがたいのだ。

 

 それを湊も察していて、自ら近づかないようにしている。

 太鼓橋まで飛んでいける元気を取り戻したのなら、もう大丈夫だろう。


 そう安堵した湊が横を見やると、山神が尾をふさりと振る。


「どうだ、あっという間に元通りになったであろう。ちと活きがよすぎるがな」

「でも、いつも通りだよね。元気になったならよかったよ」


 湊が立ち上がりつつ、太鼓橋へと視線を送る。

 そこでは、霊亀と応龍を前にして、麒麟がうなだれていた。


「亀さんたちに怒られてるのかな……」

「無鉄砲だの、考えなしだの、いい加減に落ち着けだの、歳を考えろだの、云われておるようだな」

「……結構容赦ないね。昔からの付き合いだからか。でも憑かれたのは、麒麟さんのせいじゃないよね」

「……そうさな」


 麒麟は、旅が好きだ。放浪癖があると言ってもいい。

 楠木邸の滞在期間が長くなると、居場所を変更する頻度が高くなってくる。

 一所ひとところに長く留まれないせいだろう。

 自ら好んで引きこもり気味の霊亀と応龍とは性質が異なる。



 麒麟がちらりとこちらを見た。


「『お土産を持ち帰れずに、申し訳ありません』と謝っておる」

「いつもありがとう、麒麟さん。毎回珍しい果物を楽しみにしてるけど、無理してまで持ってこなくていいよ」


 お命大事に。我が身の安全確保を最優先に行動してほしい。

 困りきった様子の湊はそう言外に告げていた。

 山神が浅く息をつき、腰を上げた。


「麒麟にいくなとも云えぬ」


 ぼやきつつ縁側へと向かう山神のあとに湊も続く。


「なんだかんだ言いながらも、毎回楽しそうに出かけていくからね……」


 三瑞獣は喧々囂々けんけんごうごうと言い合っているが、聞こえない湊は思案する。


「なにかいい方法はないかな……祓いの力だけの字で埋めたメモ帳を持っていってもらうとか? 麒麟さんは、どこからともなく果物を出すから、持てないこともないよね」

「いや、そこ・・に入れれば、祓いの効果は発揮できまい」

「それって神域みたいな場所?」

「左様」

 華麗に跳んだ山神が縁側に上がる。

 その後ろでサンダルを脱ぐ湊が縁側の端を見やった。


 そこには、湊の視界には映らない収納箇所への入り口が存在する。中には、クスノキの葉と木材が入っている。


 そこそこ大量にあった木材類を収めるため、山神が新たにつくった空間だ。

 湊は『保管庫』と呼んでいる。

 霊亀、応龍、麒麟からもらった抜け殻もそこに移していた。


「そうだ、クスノキの木材に彫りを入れて、身に付けてもらうのはどうだろう」

「ほう?」


 山神が座布団に鎮座した。

 縁側の端の方向へと向かい、ちょいと前足で招くと、座卓の上に木材が現れた。

 綺麗な正方形で、表札用が五つ程度は切り出せるサイズはある。

 湊はわずかに顔をしかめ、その木材の前に座る。


「保管庫の入り口さえ開けてくれたら、俺が取ったよ」

「まぁ、よいではないか」

「ウツギも言ってたように、山神さんは神力を無駄遣いしてるよ」

「なあにこの程度のこと、力を遣ううちにも入らぬ。それより、クスノキを彫るのであろう」


 のそりとその身にあまる座布団に横になった。

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