20 人が増えると起こる問題





 日暮れが迫る方丈山の登山道を下る、一人の中年男があった。

 膨れたリュックを背負っていても足取りは軽く、満ち足りた顔をしている。


「はー、美しい鳥だったなぁ……。わざわざ遠出してきた甲斐があったってもんだ」


 その胸にさがるミラーレスカメラで、長年追い求めていた野鳥の動画撮影が叶ったからだ。

 祝杯のようにその手に持つペットボトルを飲み干した。


 そして、横手の茂みへと投げ捨てる。


 ペコン。間の抜けた音を聞くこともなく、男は揚々と歩を進めた。


「けどまだ撮れなかった野鳥もいるから、またこなきゃな。いや、またここを訪れる理由ができたと思えばいいだろう。今度の休みにもう一度――っ」


 唐突に立ち止まった。鳥が羽ばたく音を耳にしたからだ。


「あの音は猛禽類だろ。どこだ?」


 キョロキョロと首をめぐらせるも、木立が連なる周囲は薄暗く、よく見えない。林冠の切れ目の細長い空はあいにくの曇り模様で、そこにも大型の鳥の姿は見受けられない。


「聞き間違いか……?」


 しばらく待ってみるも、ふたたび聞こえてくることはなかった。どころか、木立の奥から野鳥の鳴き声もまったくしない。

 やけに静かすぎやしないだろうか。


「――気のせいだな」


 一抹の不安を振り切るように、男は行く手へと顔を戻した。

 一歩、大きく踏み出したその登山靴が、土を踏むことはなかった。

 リュックが引っ張り上げられたからだ。むろんそれを背負う体もともに。


「な、なっ、ぎゃああああっ」


 脚をバタつかせながら、真上を見上げる。

 真っ黒いカラスと目が合った。

 ひゅっと男は息を引く。

 その顔はあまりに大きかった。カラスだと愛鳥家ゆえに自信を持っていえるが、しかしこれは本当にカラスなのだろうか。

 己と変わらぬサイズの頭部があり、そのうえ山伏の装束を身にまとっている。錫杖を持ち、漆黒の翼をはためかせ、その両足で己がリュックをつかんでいるのだ。


 妖怪――烏天狗。


 その名が頭をよぎるも、ただちに打ち消した。

 妖怪は創作上の生き物だ。この世にいるはずがないだろう。

 現実から目を逸らしたい男は喚いた。


「な、なんだよ、お前は!?」

「貴様に名乗る名はない」


 吐き捨てるように言われ、震える。まさか人語を話すとは思わなかった。

 受け入れがたく、いっそう男は激昂する。


「それより、俺をどうするつもりだ。離せ! 降ろせ!」

「やかましい。ヒトの家にゴミを投げ捨てるような輩が、おれに命令するんじゃない」

「人の家だと? 知るか! そんなことをした覚えはないぞ!」


 男はまったく心当たりがなかった。

 それもそうだろう、山を己が家と見なす人ならざるモノがいるとは思うまい。


「知っているか、人間。因果応報なる言葉を」


 烏天狗は男の返答を待たなかった。


「よい行いをすればよい行いが、悪い行いをすれば悪い行いが、己に返ってくるということだ。すなわちゴミを投げ捨てた貴様も――」


 射殺さんばかりに睨まれ、男は視線を下げた。

 下げてしまったゆえに見てしまった。

 足下に林冠があることを。


「ひぃっ」


 すくみ上がった男に、残酷な言葉が叩きつけられる。


「ゴミのごとく投げ捨てられるということだ」


 ペッと宙へ放られた。


「ぎゃああああぁぁーっ――」


 尾を引く悲鳴をあげて、真っ逆さまに落ちていく。

 それをホバリングする烏天狗が、冷徹な眼で見下ろしていた。



 ◇



 朝もはよから湊は祠を掃除すべく、方丈山を登る。ウツギの先導のもと、道なき道を進んでいく。


「そろそろ、こういうコースをたどるのはやめた方がいいかな」


 うっそうと茂る草をかき分けつつ湊がいえば、ウツギは身軽に入り組むツタをくぐった。


「なんで?」

「何度も通ってると道ができるから、その方向に進んじゃう人が出てくるかもしれないよね」


 毎回案内してくれる山神一家だが、その道行きは最短距離とは言いがたい。まるで迷い道へと誘い込むように、進行方向を頻繁に変更し、引き返すこともある。

 追手を巻くべく策を弄する野生動物さながらといえるかもしれない。

 案内してもらっているうえ、危険な場所を回避しているのだろうと思い、文句を言ったことはない。

 しかし湊の通ったあとには、どうしたって足跡は残るものだ。

 山にくる人が増えた今、その跡をたどる者も出てくる恐れもあろう。

 ウツギは軽快に歩きつつ、言った。


「気にしなくていいよ。湊が通る場所、いつもちょっと変えてるしね」

「――まぁ、確かに。毎回険しい道行きではあるかな。よっと」


 通せんぼするような枯れ枝をかき分け、バキバキと音を立てつつ進む。


「植物ってほんと逞しいよね。少し前もここ通った時、結構激しく草をかき分けたんだけど、もう元通りになってる」

「そうだね」

「方丈山の最近の様子はどんな感じ? 騒がしくなった?」


 湊とて毎日ここにくるわけではない。正確には知らなかった。


「うん、結構ね〜」


 ウツギの声はいつも通りで、いやそうでもない。


「人間たちが訪れる理由はただの山登りだったり、珍しい動物目当てだったりと、いろいろみたいだけど。それで昨日さ、中腹あたりで団体からはぐれて迷ってた人間がいたから、登山道へ誘導してあげたんだよね〜」

「――追いかけ回さなかったの?」

「もちろん。山神じゃないからね〜」


 きゃらきゃらとウツギが笑った。

 いつぞや越後屋が山で迷った際、山神が追いかけ回して下山させたことがあるからだ。なぜか越後屋は妖怪――迷い犬に送ってもらったと勘違いしているのだが、それはさておき。

 深い亀裂の入った場所をウツギは華麗に跳び越えた。

 着地した場所を鼻先で指し示す。


「湊、ちゃんとここを踏むんだよ。ここ以外に足を置いたら、陥没するからね!」

「あいよ」


 毎度注意されたら忠実に従う。

 ゆるぎない地面の固さを確かめている間にも、ウツギは先へと向かう。


「それでさ、その迷ってた人間なんだけど、かなり魂が臭かったんだよね〜」


 軽く言ってのけたウツギは笑っている。


「もう人の臭いに慣れたの?」

「だいぶね。方丈山にくる人間に片っ端から近づいて慣らしたからね!」

「そこまでしたんだ……」

「それが一番手っ取り早い方法だと思ってね〜。おかげでどんなに強く臭うのが来ても、もうダイジョーブ!」


 自信満々のようだ。彼らが匂いが原因で気分を悪くするようなことがなくなったのは大変喜ばしい。

 それはそうと、前々から気になっていたことがある。


「そんなに魂が臭う人間って多いの?」

「多いというか、人間の魂は多かれ少なかれ臭気を発するものなんだよ」


 なんでもないことのように言われ、湊は二の句が継げなかった。


「臭うのが当たり前なんだよ。人間は生きてるうちにその臭いをなくすべく、努力しなければならない」

「努力……」


 登山道が見えてきた位置になって、ウツギは振り向いた。


「ちょーっと話しすぎたね、気にしなくていいよ。さ、歩きやすい道をいこう」




 片側が断崖絶壁の登山道をしばらくゆくと、祠が見えた。

 それを眺める二人組がいる。若い男女の女性の方に見覚えがあった。

 裏島千早ちはやだ。

 二人は色違いのマウンテンパーカーを着ていることから、男性は恋人かと思ったが、どことなく雰囲気が似通っている。

 そういえば、上京した弟がいると聞いたことがある。その人物なのかもしれない。


「湊、我少し離れているね」


 目配せで応えると、ウツギは断崖絶壁を駆け上っていった。

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