18 地獄は続くよ、いつまでも


 空振った足が宙で弧を描き、軸足だけで踏ん張り切れなかった一条が土の上に転がった。


「いっでッ!?」


 地表で側頭部を打ちつけ、星が飛ぶ。

 しばし頭を抱えて悶えた。


 そしてにじんだ視界に入ったのは、数えきれぬ木立だった。

 忙しなくまたたき、空を見上げれば、所狭しと枝葉を伸ばす合間に青い空があった。


「う、そだろ。おれ、し、死んだんじゃ……」


 先ほど、おそらく幹に全身を強打したはずだ。

 骨が砕ける音も確かに聴いたはずだ。


 かつて感じたこともない激痛を思い出し、脈拍が加速していく。息がしづらく身体の震えが止まらない。

 あれだけの痛みを受けてなお、生きているなどあり得ないだろう。


 現実ならば。


 今し方地面に打ち付けた左半身が鈍痛を訴えてくる。訳がわからず、小刻みに震え続ける男にさらなる追い打ちがかかる。


 止めどなく涙を流しながら、土から無理やり引き出されて千切れた太い根に気づいた。

 つい先ほど無残に土から引きずり出されたばかり、と訴えてくる土の形状、色と鼻をつく濃い土の匂い。


 揃いの土気色になって、恐る恐る視線を動かす。

 幹の近く、地に転がる根っこの破片があった。


 元に戻っている。

 最初の場所に戻された。時間も、身体の状態も。


 早鐘を打つ心臓を押さえながら身体を丸めて泣き暮れた。




 数時間以上泣き続け、泣くことに飽きた一条は荒々しい足取りで斜面を下りていく。鼻先に垂れる蔦を手で払い退け「蔦がうぜえ」と相も変わらず悪態をつきながら。


 悲嘆にくれて涙を流すだけ流せば、反動で怒りが込み上げてきていた。


「なんで俺がこんな目にあわなきゃなんねーんだよ! ぜってー、麓まで下りてやる」


 腫れぼったい目は完全に据わっていて、鼻息も荒く気色ばんで燃えに燃えていた。


「あいつか? あいつのせいか? そうだ、そうに決まってる。いつも取り澄ました顔しやがって、ムカつくんだよ。なにもかもお前が悪いんだ、播磨! お前のせいだろ!」


 木霊する裏返った声には何も応えは返ってこない。

 わき上がった怒りに任せ、つかんだ枝をへし折る。


 ――……りん。


「なんだ、なんの音だ……?」


 かすかに何かの音が聞こえた。

 が、大声で喚き散らし気が大きくなっている一条は空耳だと片付けてしまう。


「それともなんだ、あの家の奴が――」


 ――ちりん!


 耳許ではっきりと音が聞こえ、怯えて肩を跳ねさせた。


 思い出した。

 前回この音が鳴り、突然吹いた風に背中を押されて斜面を転がり落ちたことを。


 ひゅっと息を吸い込んだ直後、背後からまたも暴風が吹きつけた。

 声をあげる間もなく、つかんだ枝ごと急斜面を、弾みをつけて転がり落ちていった。



 ◇



 木立の合間、胡座をかいて座る一条が千切れた根を指先でくるくると回した。


 もう何度最初の地点に戻ってきたのか、覚えていない。

 十回を超えたあたりで数えるのを止めていた。

 もう何度死んだのかも、わからない。

 覇気のない顔が乾いた笑いをもらす。


「いや、死んではねえな。今、呼吸してちゃんと動いてるし」


 深い深いため息をつき肩を落とす。

 下っても、下っても、決して下れない山。

 あと何度死に戻りを繰り返せばいいのだろう、よもや永遠か。


 震え上がり、激しくかぶりを振る。

 出られるはずだ、ここから出られるに決まっている。

 図らずも力が入り、握り潰しそうになった根っこからゆっくりと力を抜き、静かに地面に置く。


 息を潜め、耳をすませる。どこからも、耳許からも、あの風鈴の音色は聞こえてこない。

 条件反射で強張っていた身体から力を抜いた。


 幾度も深呼吸したあと、ころりと地面に転がる木肌が剥き出しになった痛ましい根を見つめる。


 三十三回、死に戻った男は、ようやくまともに頭を働かせ始めていた。


 延々と繰り返すうちに、わかったことがある。

 悪態をつき、山の物に傷をつければ風鈴の音が鳴る。

 そして、風が吹いたり、巨木が倒れてきたり、巨岩が空から降ってきたり。強制終了させられると。


 片意地を張り続けて一切態度を改めなかった男が、ついに改心を決意した。


 縦横無尽に地を這う根の合間、比較的平たい箇所になんとか正座し、手前の根と差し向かう。


「申し訳ありませんでした」


 深々と一礼。

 下げたままの頭の下で、下唇を強く噛みしめてながら。膝の上で握った拳にあらん限りの力を込めながら。


 屈辱だ。

 だが試す価値は十二分にある。


 風が吹き、垂れた前髪がゆれる。

 がばりと頭が飛びそうな勢いで顔を上げた。


 根っこがくるくると回っている。

 手に汗握り見守っていれば、徐々に回転速度を落としていき、やがて止まった。


 尖る先端が指したのは、山の上方だ。

 素早く立ち上がった。




 斜面を登り始めると、次第に山の様子が変わってきた。

 針葉樹が無限に続いた下りと異なり、広葉樹が続く。見慣れた広い葉をゆらす巨木のあいだを進む。樹林帯を抜け、草薮を掻き分けながら登っていく。


 登りは下りに比べ、脚の疲れが段違いだ。

 けれども、全身汗みずくになって、重い足を引きずりながら山頂を目指した。


 下って駄目なら、上がればいい。

 それしかないだろう。

 なぜ、もっと早く気づかなかったのか。

 自らの頭のポンコツぶりに瞬時に渋面へと豹変し、舌を打ちそうになれば、頭上から葉擦れの音がする。


 大空から雪のごとく木の葉が大量に降ってきた。

 完全に視界を埋め尽くされ、顔を両腕で庇いつつ慌てて表情を取り繕った。


 収まった葉の雨に深い安堵の息を吐き、先を急ぐ。

 緩やかな登りの緑のトンネル内には、自らの息遣い、踏み分けた草が立てる音だけが響いた。




 やがてトンネルの先に、平坦な道が見えてきた。


 ここにきて初めて人の面影があるものに出会えた。

 いても立ってもいられず、駆け出す。

 喘鳴を響かせ、雑木林から足を踏み出し、傷だらけの革靴の底が踏むのは、均された山道だ。


 辛うじて人と離合できるであろう道幅しかないが、道は道である。

 明らかに自然にできたものではなく、人工的なものだ。

 喜びに一時的に脚、肺腑の痛みを忘れ、口角を引き上げた。


 左側を向けば、緩く曲線を描き、下方へと伸びて途中から丸太を並べた階段になっている。

 次いで、右側。

 下り道と打って変わり、急勾配の坂道が上方へと伸びていた。


 一条の顔が曇る。その急坂には行く手を阻むようにいくつもの巨岩が転がっていた。


「……どっちだ」


 膝を折り、山道に座り込む。

 乱れてた呼吸が落ち着くまで、どちらへいくべきか悩み続けた。



 ◇



 一人きりの食事は、ひどく味気ないものだ。


 ダイニングで一人寂しく昼食を終えた湊が椅子から立ち上がる。

 子どもの頃から食事時はテレビをつけないのが習慣で、それは現在でも継続されている。


 己の立てる物音しかしないダイニングからキッチンへと足を向ける。

 テレビの力を借りなくてもいつも会話が途切れることなく明るくにぎやかだった実家を思い、ふと息をついた。

 静かな部屋で一人黙々と食すのは、まだ慣れない。


 シンクの前に立ち、数分で食器を洗い終えてしまう。

 一人分程度、さして時間も掛からずあっさり終わった。

 シンクに散る水滴を丁寧に拭き取っていく。

 あまり屈む必要もない高めのシンクは、こだわりが強く長身だった故人に合わせて備え付けられた物だ。

 至って使いやすく、気に入っていた。


 最後に手を洗い、タオルで拭きながら縁側を見やる。窓際に、寝そべる山神の背中がある。

 その体は微動だにしない。


 近頃、山神は寝てばかりだ。


 眷属たちも久しく訪れていなかった。

 珍しく起きた際、具合でも悪いのかと尋ねてみれば、何も問題ないという。

 ゆえに無理やり起こすような真似はしない。


 が。


 冷蔵庫から食後のおやつを取り出して皿に盛りつけ、窓を開けて縁側へ。

 ことり。長いマズルの近くに置いた。

 すぐさまうごめく鼻っ柱。大きく上下する胸部。振られ始める尻尾。


 嗅いでる嗅いでる。しゃがんで頬杖をついた湊がにやけて見つめる中、くわっと両眼を見開いた。


「黒糖饅頭であろう!」


 確信を持って叫び、ムクッと頭部を起こした。

 鼻先の皿に載るのは、ピラミッドを形成した黒糖饅頭お供え物。黄金を細め、深く首肯する。


「……やはりな」

「一緒にどう? 山神さん」

「うむ。頂こうではないか」


 時折、誘いはしていた。

 釣果は七割。まずまずといったところである。


 ともに饅頭に舌鼓を打ったあと、またしても山神は瞼を閉じてしまった。


 特に憔悴しているようには見受けられず「ま、いっか」と二つの皿を持って立ち上がり、庭を見やる。


 視線の先には、一本のクスノキ。


 種から急激に大きく育ち湊と変わらない高さになったものの、そこからまったく成長がみられない。

 まばらではあるが青々と繁る葉から元気だと知れて、山神も大丈夫だといっており、心配はいらないようなのだが。


 どうにも気にかかって眺めていると、不意に気づく。


「……最近、動くの見てないな……」


 しばしば風にゆられ、戯れるようにざわざわと枝葉を動かしていたのに。


「……風が吹いてないからか」


 そのうえ、久しく風鈴の音も聞いていないことにも、気づいてしまった。


 しばしのあいだ、無風の縁側に立ち尽くし、軒先に下がる風鈴を見つめていた。

 

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