19 またのお越しは、お待ちしておりません


 嫌がらせに近い急坂道を越えれば、祠があった。


 一条は倒れ込むように地面に四つん這いになり、時間をかけて息を整えた。立ち上がり、静かに祠の前に立つ。


 なんの変哲もない、ありきたりな古い石造りの祠は、妙に小綺麗に見えた。


 到底人など来ないであろう険しい坂道途中にあるにもかかわらず、つい最近誰かの手によって清掃されたかのようだ。


 帰れるかもしれない、との期待感に落ち着いていた心臓が高まった。

 苔一つない祠の中を覗いてみれば、丸い石が二つ。

 もう一つあるが、真っ二つに割れている。


 この祠が元の世界へと戻れる場所だという保証はどこにもない。


 ここから先、さらに山頂へと道が続いていても、まるでここで行き止まりといわんばかりに、大岩が道を塞いでおり、登るのは不可能に近い。


 腹を括るしかない。ここまできたからには、やるしかない。


 プライドだけはエベレスト級、謝罪の経験などほとんどない男が片膝を地面についた。もう片方も。

 正座して一度背筋を伸ばし、三つ指をつく。

 ゆっくりと頭を下げていくと、汗で束になった前髪が土についた。


「伏してお願い申し上げます。お願いします、俺を、俺を元の世界へ帰してくださいっ、元に戻してください!」


 何度も、何度も、何十回も。土下座して地に額を擦りつけ、乞い願う。

 腹の底からありったけの声を張り上げて、嘘偽りのない真摯な思いを込めて。


 されど山に反射した男の必死な声が自らに虚しく戻ってくるだけだ。

 事態は何も変わらない。風もなく風鈴の音もない。


 それでも、一条は諦めない。

 傷つけた山の木々、葉、蔓、根へ向け、申し訳ありません、すみません、ごめんなさい。

 自らが知る謝罪の言葉を繰り返す。

 ただただ、繰り返す。


 徐々に徐々に声が小さく掠れていく。


 それでもなお、嗄れた声を吐き出し続ける。

 震える両手で土を握りしめ、気力のみで声を振り絞った。


「山の神よ、どうか、どぅか、お願いしますっ、俺を――」



 ◇



「帰して! く、ぅわっ!」


 よろめいた身体は、腕を引かれたことにより転倒を免れた。

 たたらを踏み、体勢を立て直した一条は、眼前の数寄屋門に気づき身震いした。


「なに、言ってるの……?」


 片腕に添えられたほっそりとした手の持ち主に、小声で問われた。

 背後を見やれば、そこには見慣れた幼馴染みの顔があり、浅く眉を寄せている。

 初対面時から変わらぬ表情だった。

 通常であれば能面だの、陰気臭いだの文句ばかりつけて罵っていたその顔を見て、どっと安堵が押し寄せてきた。


「……も、もどった」


 震えた声でたどたどしく呟き、片手で身体の至る所を探るように撫でている。


 女には、奇妙な仕草にしか見えない。

 先ほどまでの威勢はどこへやら。あれだけ傍若無人に振る舞っていたというのに。


 ほんのついさっき、格子戸を蹴りつけようとした一条が、いきなり後ろへと飛ぶ勢いで下がってきたのだ。


 初訪問の他人の家、得たいの知れぬ雰囲気の家への、神をも恐れぬ所業を止めようと手を伸ばした所に、ちょうど腕がきたので支えたにすぎない。


 己より体格のいい男は、重い。

 咄嗟に支えてしまったが、避けて砂利道へ転がせばよかった。


 そう後悔した直後、大声で帰してなどと叫ぶ始末。わけがわからず面食らう。ふざけるにもほどがあるだろう、こちらが言いたい台詞である。


 間近の顔が泣きそうに歪む。

 暴君の豹変が微塵も理解できない女は気味悪そうに腕から手を離した。

 支えてやったのだから頭は打っていないだろうに。


 距離を取るべく二歩ほど後退すれば、一条が二歩前進してきた。

 三歩横に逃げる、斜めから三歩寄ってくる。


 ざざっ、ざざ! と踏まれ続ける砂利の音だけが、しばし門扉前で鳴った。


 いつまでも、振り切れないではないか。

 このままではすがりつかれそうだ。想像しただけで怖気が走る。


 やだ、怖い。誰か助けて。神様、仏様、お母様! 誰でもいいから! それになんなの、その安心し切った薄気味悪い顔は。私に近寄らないでよ!


 そう言えない自分が、情けなくて、歯痒くて、荒れた下唇を強く噛みしめたその時――。


 ――ちりん。


 家から聞こえてきた音で劇的に状況が変わる。


 凛と高く鳴った音色が聞こえるやいなや、一条の赤らんでいた顔が青く変わり、脱兎のごとき勢いで逃げ出した。


 音高く砂利を蹴立てて方々へ跳ね飛ばしながら、数歩大股で進んだ先でスッ転ぶ。

 ズザーッと横倒しで派手に滑り、砂利を掻き分けて長細い穴を作った。

 即座、跳ね起き、舗装されていない道を疾走。

 みるみるうちに遠ざかり……また、転んだ。


 田んぼに豊かに実る稲穂たちに隠れて見えなくなった。その上を赤とんぼの群れが横切っていく。


 初めて目にした幼馴染みの本気走りを、女は呆気に取られて見ていた。


 ――ちりん、ちりん。


 背後から軽やかに鳴り響く。


 その音はなぜか、今し方聞こえた時に感じた身体の芯が凍えそうな得たいの知れない恐ろしさはない。

 ただの風鈴の音が、やけに頼もしく荘厳な調べのように感じられた。


 なぜか、いたく呼吸がしやすい。

 かすかに笑みを浮かべた女はその場に佇み、目を閉じて深く呼吸しながら、しばらく耳をすませていた。



 ◇



「まったく喧しい輩よ。はよう去ねばよいものを」


 山神は目を開けざま、ぐるぐると喉を鳴らし、鼻梁に深い渓谷を刻んだ。


 山神は鬱陶しい一条を追い払うべく風鈴をかき鳴らしたにすぎない、結果的に女を助けることになっただけだ。


 山神にとって己に敬意を払わない人間がどうなろうと知ったことではなく、気にかけてやる気も毛頭ない。


 普段から神の存在を信じてもおらず、どころか馬鹿にしておきながら困った時だけの神頼みなど、片腹痛い。

 そんな調子のいい願いに耳を貸す気にもならない。


 神とは人間にとって都合のいい存在ではなく、呼べば飛んできてくれるお手軽なヒーローでもないのだから。


 久々に目覚めた山神はかなりご機嫌麗しくないようだ。

 玄関チャイム連打など一つも聞こえず、座卓に向かっていた湊が無言で室内に戻っていく。

 再び現れたその手には、きんつばが載った皿。

 見るまでもなく匂いで気づいた山神の不機嫌に呼応して逆立っていた毛が大人しくなり、身を起こした。


 人間一人分の精神のみを神域に閉じ込めるため神力を遣いすぎた山神は一時、眠りにつかねばならない。

 その前に英気を養う気満々だ。


「頂こう」

「どうぞ」


 ばったばったと忙しなく振られる尻尾を横目に、湊もきんつばに楊枝を刺した。



 ◇



 性根のねじ曲がったタチの悪い人間が、たかだか数ヶ月程度の短期間でそう容易く心を入れ替え、聖人君子になれるはずもない。

 人間、喉元すぎれば熱さを忘れるものである。


 一時的に鳴りを潜めていた一条のモラハラが、最近またしても見られるようになっていた。




 都内某所の陰陽寮舎にて。

 ブラインドが下ろされた室内の一角で、一条がポケットに両手を突っ込み、大股を開いて自席に座っている。

 その正面、最近やや肉付きがよくなった幼馴染みの女が、スマホを眺め続けていた。


 ちらほらと周囲の席にいる同僚たちが、険悪な雰囲気を放ち始めた一条へと控えめに視線を向けている。

 一様に何かを期待して待っているような、妙に浮わついた空気が漂う。


 そんな周囲の様子を、一条は何も気づいていない。

 何をいっても生返事しか返さない、幼馴染みに苛立っていた。


「だから、あいつとは駄目だっつてんだろ。いくんじゃねえって」

「無理です。仕事なんで」

「最近のお前は、かわ、あー、いや、ちが、太ったから前以上に足手まといになるだけだろ」


 バキッと小気味よい音。ボールペンがへし折れた音だ。

 それを成したのは、近くの席にいた歳若い女性である。


 美しくネイルが施されたその手が、役目を強制終了させられたボールペンを足元のゴミ箱に、叩き入れた。

 すかさず椅子を後ろへ下げる。


 立ち上がりかけたその細肩を、隣席から素早く伸ばされた手にわしづかまれる。

 椅子に縫い止められた。立てぬ。


 万力のごとき力の持ち主に鋭い眼差しを向ける。

 そこには、中年に差しかかってもなお、美しさを保つ女性の至って涼しい顔がある。

 仲のよい先輩への暴言に堪えきれず、般若と化した女性から禍々しいオーラが放たれる。


 止めてくれるな、姉上よ! 今日こそあのモラハラヘタレ野郎ぶっ潰してくれるわ! 


 そう般若から無言の訴えを受け、年かさの女性が首を振る。

 鮮やかな紅色唇の片側をつり上げ、ビューラーマスカラなしでもくるんと上向きバサバサまつげの下から、意味ありげなメッセージを放つ。


 しばし、待たれよ。


 ハッとその意味に気づいた般若が楚々とした令嬢に舞い戻り、にんまりと無言で頷き合う。

 よく似た面差しの播磨姉妹であった。



 悪霊祓いの任務は基本的に二人一組で当たる。

 一条は近頃とみに気になる幼馴染みが己以外の男と組むのが気に入らなくてしょうがない。

 なんといっても相手は、あのにっくき播磨である。

 いくな、断れ、と私情を挟みまくった命令をしていたのだった。


 しかし、その焦れったい感情がどこからくるものなのか理解しておらず、周囲は情緒未発達の一条に日々生ぬるい視線を送っていた。


 にべもない幼馴染みに、一条の苛立ちが増していく。

 画面を見つめ、流れ落ちてくる髪を耳にかける彼女も、一条の淡い想いに気づいてはいない。


「おい! いい加減にこっち向けって――」


 ――ちりん。


 途切れた罵声。

 間髪いれず、膝裏で椅子を蹴倒した一条が身を翻す。

 必死の形相で慌てふためき、机と壁の隙間を駆け抜け、部屋を飛び出していく。


 疾風でめくれていた壁に掛かった紙片たちが、順に元位置へと戻っていった。


 これで数日は大人しくなる。


 億劫そうに立ち上がった女が、さも面倒くさそうに倒れた椅子を戻し、肩を震わせている男性陣と、サムズアップを向けてくる女性陣に向き直る。


「お騒がせして、申し訳ありませんでした」


 一転、晴れ晴れとした燦然と輝く笑顔で謝罪した。

 艶かな唇の両端は上がりっぱなしで下がる様子はない。


「効果抜群だねえ、ただのスマホの着信音なのにな」

「これのなにが怖いんでしょうね。いい音なのに」


 大切な宝物を抱くように両手でスマホを胸に抱き、血色のいい頬を綻ばせて笑った。


「ほんとだねえ。おっさんも念のため入れとこ」


 斜め前の席にいた呆れた様子のパナマ帽を被った男も、スマホを取り出した。

 

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