9 ただの亀と思うなかれ

 ダイニングにて。

 テーブルに広げた家計簿を前にして、湊が頭を抱えていた。その力なく曲がった背中が、悩みの深刻さを物語る。


「金がなあ……」


 家計は逼迫している。まさに火の車。

 なんとも由々しき事態に陥っていた。


 他県のとある山間の温泉郷にある実家近辺は、近所付き合いが濃厚な地域である。

 いつの間にか家の中で隣家の者が寛いでいたり、湊も他家の一家団欒の夕食に参加していたり。

 近隣の年の近しい者はまとめて育てられ、至って仲もいい。


 そんな地域ぐるみで仲のいい場所で育ってきた湊にとって、まるで馴染みのない土地、近所に知り合い皆無の現状は正直辛い。


 けれども庭にさえ行けば、とても安心できた。

 大抵、縁側で山神がゆるぎなくどっしりと構えている。さすが本体は、山。安心感半端ないといつも思う。


 さらには、いかにも御利益がありそうな亀が、御池でのんびり過ごしているのもよい。

 見ているだけで、心が安らぐ。


 何より山神とその眷属たちとは、会話までできるのだから。山神たちがいてくれるのは素直に嬉しい。


 だが、金がかかる。


 遠慮を知らない神々は思う様、好物を貪り食ってくれる。

 しかも、いささかお高めの物を。

 彼らは安物を出しても決して文句はいわないが、明らかにテンションがダダ下がり、食の進みも段違いというわかりやすさだった。


 美味しい、と喜んでもらいたくて、つい高級品のほうを買い与えてしまうのは致し方ないことだろう。


 とはいえ管理人として振り込まれる給金など、微々たるものだ。収入もそうない今、貯蓄を切り崩すのは不安でしかない。


 いかんともしがたい。非常に悩ましい。

 ペン先で家計簿をつつきながら唸る。


「いったん実家に帰って稼いで……いや、遠いし。ここから近いとこに働きに……俺、資格なにも持ってないしな。あー、どーしよ……」


 ペンをノート上に投げ出す。組んだ両手の甲に額を乗せ、肺腑の中が空になるほど重いため息を吐き出した。



 庭にて。

 縁側の中央に寝転ぶ山神の耳がピクリと動く。

 閉じていた瞼がゆっくりと持ち上がり、黄金が徐々に露になっていく。

 さながら山間から昇る御来光のごとく。


 その色彩はますます輝きを増し、またたくたび、金粉が舞うよう。

 力を取り戻した山の神にとって、防音完璧な室内の呟きであろうと、聴き取る程度のことは造作もない。


 黄金の眼差しが、池へと流れる。

 御池にせり出す大岩の上、真珠色の甲羅が陽光を弾き、乱反射した。

 にょろりと頭部と四肢が飛び出す。


 何を隠そうこの子亀、名を霊亀レイキという。


 その正体は、吉祥をもたらす瑞獣ずいじゅう、“四霊しれい”。


 その一角を担う霊亀が、やおら立ち上がった。


 力強く四本足で岩を踏みしめ、蒼天へと向けて首を長く長く伸ばす。

 そうして、大口を開いた。



 ◇



 カランカラ~ン! 澄んだベルの音が人でごった返す商店街に轟いた。


「おめでとうございまーす! 出ました、一等でーす!」


 声を張り上げた店員の片手に掲げられたのは、福引きのクジ。一等の金文字が燦然と輝いている。

 爆発的などよめきが起こった。


 箱から引いたクジを店員へと手渡した湊が立ち尽くし、ポカンと口を開ける。


「やったな、兄ちゃん!」


 後ろに並んでいた中年男性に景気よく背中を叩かれ、我に返った。


「え、あ、はい。どうも……?」


 振り向き、呆けたまま応える。

 そうすれば、呵々大笑されて一段強めに叩かれた。

 地味に痛いが、おかげで現実の出来事だと認識できた。


 商店街のくじ引きで、まさかの一等大当たりである。


 驚いても仕方ないだろう。

 かつて当たったことあるのは、せいぜい参加賞のポケットティッシュくらいだ。

 酒、和菓子を頻繁に購入するため、たまりにたまった引換券を使っての一発目だった。


 なんたる幸運か。


 一等の景品が何かも知らず、差し出された封筒を受け取る。

 頭に鉢巻きを巻いた法被姿の店員が、にこやかに告げた。


「金券十万円分です」

「じゅ、十万!?」


 どもって眼をむく。随分太っ腹な商店街だ。


 ともあれ、金券とは喜ばしい。

 今日は皆には申し訳ないが、酒と菓子のランクを落とすかと思っていたところだったからだ。


 顔を綻ばせた湊が踵を返した。




 パアンッ! 弾けたクラッカー音とともに沢山の紙吹雪が頭上から降ってくる。

 驚いた湊が酒屋の出入り口で立ち止まった。


「おめでとうございま~す! 我が丹波酒屋創業三百三十三年記念日である本日、三百三十三人目のお客様!」


 店の扉をくぐった瞬間だった。

 狭い店内を埋める笑顔の人々から拍手を送られ、身の置き場に困る。

 すかさず扉の脇から紙テープが飛び出たクラッカーを手にした店員が出てきた。


「いつもご贔屓にありがとうございます。ささっ、こちらへ」

「はあ」


 今一つわけもわからず、満面の笑みで促されるまま、店レジ横の丸テーブル前へ。

 その上には日本酒の一升瓶が、ぎっしりと置かれていた。


「ささやかなプレゼントですが、どうぞお受け取りください」

「えっ、こんなに」

「はい、三十三本です」


 呑兵衛の父が、なかなか手に入らないと嘆いている有名酒蔵の物もあるな、とぼんやり思う。

 到底持ち帰りは不可能なため、配送してくれるという。


 流れるようにサクサク動く店員に煽られ、気がつけば配送用紙に住所を記入し終えていた。

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