12 山神のたくらみ
限りなく降る銀の雨が、御山に斜線を描いている。
その一滴たりとも落ちてこない楠木邸の庭で、一人の人物が動き回っていた。
むろん、管理人の務めに勤しむ湊である。
庭の風景のごとき四霊たちはそろって出かけており、いまいるのは縁側を陣取る山神のみである。
神霊――エゾモモンガは、石灯籠にこもりっぱなしだ。
湊がそばを通ろうと物音一つしない。だが、そのガラス窓は明るく透けていて、時折、動く様子がうっすら見えた。
依然積極的に出てくる気配はないが、外界を気にしているのは丸わかりだった。
朝方、ガラス窓の手前に一本のバナナを置いてみたが、残念ながら手つかずで残っている。お気に召さなかったようだ。
ならば、他の果実にしてみよう。さくらんぼはどうであろうか。
真っ赤に熟れた果肉は、やや固めで歯ごたえがある。それは、酸味が少なく甘みが強いのだと味見した湊は知っている。
こちらはいかがでしょうかと、窓の手前に置いてみた。
声は出さずしばし見守るも、火袋の中は沈黙している。まったく惹かれないようだ。
では、あんずはどうであろうか。
こちらは、酸味が強く甘さは控えめ。みかんを好むのなら、案外気に入るのではなかろうかと買ってみた。
さくらんぼと入れ替え、ころりと橙色の果実を置いた。少し距離を取って見守るも、うんとすんとも反応はない。
夏みかんの時とは大違いだ。
「やっぱりみかんがいいんだ……」
それがわかっただけでも収穫だろう。こうまであからさまだといっそ清々しい。わかりやすくてありがたくはあった。
さて、神霊のご機嫌伺いのあとは、日課の水まきである。
いつも絶妙なタイミングで滝壺から水を放ってくれる応龍は不在のため、山神が手伝ってくれる。
のほほんと座布団に伏せた大狼の尾が、しなやかに振れた。滝壺へ落下するはずだった神水の一部が庭の中心へ、生き物めいて長く尾を引きながら跳んだ。
それを待ち受けるのは、湊だ。
「山神さん、ありがとう」
水の塊を風で受け止めつつ巻き上げ、クスノキと庭木へかけていく。上空に絶えず降る雨のごとく、庭木たちはその恩恵にあずかれる。
彼らもクスノキ同様、普通の雨や水道水を好まず、神水しか受けつけない贅沢ものだ。
湊の足元にちょこんと生えたクスノキは、すでにたっぷり神水を浴びてしっとり濡れている。
柔軟性にますます磨きがかかり、樹冠を前後左右へ振る様は、軟体動物のようだ。しばしばメキメキと生木が裂けるような音がして気が気でないが、クスノキは平然としている。
問題ないよ、とでも言いたげに、すべての葉を曲げて四方へ水滴を飛ばした。
「――うむ」
だいぶ間を置き、山神が湊に答えた。大あくびを連発中である。
応龍の代役をこなし、水まきを手伝う山神は寝起きだ。梃子でも動かない風情で縁側を占領していたため、まだそこの清掃は終わっていない。
水まきをさくさく終わらせた湊は、邸内へ戻った。再び縁側に現れたその手には、掃除機がある。
「はいはい、すみませんね。失礼しますよ」
そこをおのきなされ、と遠慮なく大狼をどかす。掃除機のヘッドがたどり着く前、身を起こした大狼はリビングへ入り込んだ。くるりと反転して、前足で座布団を引き寄せた。
普段、極力家の中には入らない山神でも、掃除の時はリビングへ避難する。
新たにフローリングに敷いた座布団をポフポフ叩いて均した。うずっと両の前足が動く。
爪を立てて掘りたい。
そんな衝動が沸き上がってくるも、素知らぬ顔で抑えた。もし本能のままに行動してしまったら、生地が破けて中の綿が飛び出して大惨事になる。
山神は、室内をくまなく見渡した。床には、物はおろか埃一つすら存在せず、光り輝いている。
整えた寝床に乗った大狼は、くるくる回って位置を決め、「どっこらせ」とおもむろに座るや、深々と息をついた。
掃除機の音が響く中、ダイニングテーブルに置かれたノートパソコンが浮き上がる。
犯人はむろん大狼だ。ちょいちょいと手招くそこへ、音もなく滑空していった。
山神の眼前の床に落ちついたノートパソコンが獣の手でひょいと開かれ、起動スイッチが押される。山神は座布団にペタリと伏せ、後ろ足まで伸ばした姿勢でキーボードを巧みに打ちはじめた。
一連の仕草は流れるようだ。手慣れすぎているのは、それなりの頻度で扱い、情報収集しているからである。
「――ぬぅ」
意図せず声が漏れた。全開になったその金眼に飛び込んでいくのは、和菓子ばかり。毎回、真っ先に調べるのは、方丈町に店を構える和菓子屋の新作だ。
そのため、ブックマークは和菓子屋関連で埋め尽くされているが、本来の持ち主たる湊は文句をいった試しはない。
山神はカチカチとマウスを操作し、お気に入り店のホームページを巡回し終えると、浅く息をついた。
「まだ新作は出ておらぬか――」
「しょうがないんじゃないかな。つい三日ぐらい前に調べたばかりでしょう」
掃除機のスイッチを切り、湊が告げた。
「ぬぅ、ならば致し方なし」
「頻繁に新作を出す和菓子屋さんのほうが稀だと思うよ。まだ月も変わってないしね」
「そうさな」
「いやでも、方丈町の和菓子屋さんは、よく新作出すよね。――それが普通なのかな。いままで特に注目したことなかったから、俺が知らないだけかもしれないけど」
「否、このあたりの店は、頻度が高かろうよ」
「やっぱりそうなんだ……」
掃除機からモップへ獲物を交換した湊が、思いつきを口にする。
「まさか、山神さんのためとか?」
返事はなく、これみよがしに尾だけ振られた。
お決まりのホームページめぐりを終えても、金眼は一瞬たりとも画面から逸らされることはない。
不思議に思った湊は、床をモップでなでながら室内へ視線を投げる。だらけきった姿勢の山神は、画面にかじりついたままだ。
いまの位置から画面はうかがい知れない。
いったい何に興味を惹かれているのか。ただ大手通販サイトの和菓子ランキングを漁っているのか。
思考する間もモップの動きは止まらず、床一面が光沢を帯びてきた。
「よし、床磨き終わり。綺麗になった」
「左様か。ならば、これを見るがよい」
顔を上げた湊へ、画面が向けられた。
そこには、緑豊かな日本庭園が映っている。池と石橋を備えて、さしてここの庭と変わらないように見えた。
一つだけ違いを挙げるとすれば、地面が起伏に富んでいるところであろうか。ともあれ、劇的な差はない。
「はぁ、素敵なお庭だね」
湊の気の抜けた声を聞くや、
「それだけか……」
大狼は不満げに尾で床を叩いた。
「そりゃあ、だって――」
湊は、背後の美しき庭を紹介するかのごとく手で示した。
「こことあんまり変わらないからね」
むぅ、と山神が鼻梁に渓谷を刻む。
「いいや、違う。ここには山がなかろうよ」
顔を斜め上へ向けた湊は、雨でけぶる御山を眺めた。威風堂々たるその様相は、他ではそうそうお目にかかれまい。
「お隣に、たいそう立派な御山がそびえておりますけど」
「否、庭にぞ、この庭に!」
ムキになって吠えるその身も小山のごとし。
湊的には、いつでもどこを向いても、御山と山めいた大狼が視界に入るが、山神にとってはそうではない。
そして、山神が言わんとすることを察した。
「ああ、あれか。山に見立てた――
「左様」
我が意を得たりとばかりに、山神は大仰に頷いた。
とんと湊はモップを薙刀よろしく横に立てた。勇ましきその立ち姿たるや、武蔵坊弁慶さながらである。
「偽物の山は、いらないと思う」
腰に手を当て、明瞭に、かつ真顔で言い放った。
半眼の山神と、視線のみで攻防を繰り広げる。
おそらく、いや十中八九、山神は庭の改装を目論んでいる。
けれどもそれを行うには、多大なる神力が消費される。
前回、池を川へと変えた折、その身が縮むばかりか透けてしまい、そのまま存在が消えてしまうのではないかと、ひどく肝をつぶされたものだ。
ゆえに、大がかりな改装は言語道断である。
先日、湊がここの
――ならば、断じて許可は出せぬ。出さぬ!
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