25 いざ、出陣
決して怒鳴ってはいない。
だが脳が揺さぶられるほどの衝撃が湊の全身にまで襲いかかる。総毛立ち、血の気が引いた。
まともに神威を喰らった播磨は顔面蒼白になっている。
顔を上げた神たる獣から、冷涼な神気がほとばしる。
全身の白い毛が持ち上がり、ゆらめいた。
押し寄せる圧倒的神の力。
その場から一気に春の陽気が消し飛び、極寒の冬、到来。
先ほどまでのとろけきった顔とは違う威厳に満ちた神の顔が、ただ静かに凍りついた播磨を見下ろす。
戦いた湊の身体が無意識に逃げを打った。
そんな加速度的に緊迫感が高まる最中、ひょっこりと軒上から三匹のテンが逆さまの顔を出す。
皆、険しい面持ちをしている。
セリが厳しい口調で咎めた。
「山神、やりすぎです」
「だな。いくら気軽に利用できると思わせないためだとしてもあんまりだ。怯えきってるぞ。かわいそうに」
「ちょっとぐらい聞いてあげてもいいでしょ。いつもその人からお菓子もらってばっかりのくせに」
「心が狭い」
「そうだ、そうだ。図体はデカイくせに」
やいやい抗議してくるトリカとウツギを「喧しいわ」と山神が軽くいなし、気配を緩めた。
即座、張り詰めた空気が霧散。
ゆったり尻尾をゆらめかせるいつものユルい調子に、湊が深く深く息を吐き出し、がくりと項垂れた播磨が座卓に手をついた。
息も絶え絶え、微弱に震えており、よほど心胆を寒からしめたのだろう。
山神が顎を斜め上へ上げて、尊大に鼻を鳴らす。
「まあ、よい。たまにはよかろうよ。いつも見上げた心意気ゆえ、な」
一度大きく深呼吸した湊が山神のほうを向いた。
「……山神さんの力があれば、そこに入れるってこと?」
播磨がびくついたが、もう気にしない。今さらだ。
いまだ萎縮した身体から完全に力を抜くことはできなかったが努めて明るい声で尋ねた。
播磨も姿勢を正す。
しかし視線は上げられないのか、座卓に置いた手の上へ落としたままだ。
遠慮がなくなった山神が鼻先で洋菓子の箱を横へと押しやる。
ズズズと菓子の海を掻き分けて進む箱を播磨が凝視する。
播磨には、ひとりでに動いているように見えているだろう。
陰陽師という職業柄、怪奇現象に耐性があるのか、そこまで驚いてはいないようだ。
強くバターの匂いを発する包みをどかせば、そこには目当ての黒い箱がある。
巨大な黒い鼻が、箱を満遍なく嗅ぎ回る。
いつもであれば気を使い、触れないようにしていたが、知られた今となってはお構いなしだ。
カタカタと箱が動くせいで周囲の菓子箱が押しやられる。
哀れ、越後屋。斜めに傾ぎ、座卓から落ちかけた。
そこに、救世主現る。
播磨にそっと手で押さえられたおかげで、十三代目作甘酒饅頭包みは、危うく難を逃れた。
「むろん。我、山神ぞ。ぬぅ、これは、なんぞ。こし餡であることは紛れもなかろうが……。にしても、ここまで厳重に包まんでもよかろうよ、どうせ剥がして捨てるというのに」
「力を貸してくれるということ?」
「うむ、構わぬ。そやつに云うてやれ。ちと脅かしすぎたようだしな」
「播磨さん。山神さんが力を貸してくれるそうです。あと、その銀のリボンの菓子はなんですか」
「……ありがとうございます。駿河本舗のあんころ餅です」
黄金の眼に彗星が走り抜け、巨躯を大きく震わせた。
全国に名を馳せる有名銘菓である。
是非とも食してみたいものよ、と誰かさんが呟いていた都会のハイクラスあんころ餅だ。お取り寄せはない。
うずうずと体をゆらす山神にほっこりしながらも、やはり恐ろしい神様なのだと改めて思い知らされた湊だった。
◇
六日後、早朝。
ペンダントライトが煌々と灯る楠木邸ダイニングで、テーブルを前にした湊が静かに佇んでいた。
落とされた視線の先に並ぶ、山神宅産和紙護符。
神水入り墨液注入筆ペン。予備として数種類のペン。
そして、元祖メモ紙護符。
半分記入済みのそれは、以前のペラペラ更半紙ではなく、やや厚紙タイプである。奮発した。
それらすべてをダウンベスト、パーカー、カーゴパンツのポケットに分散して入れていく。最後にボディバッグにもびっしりと文字を書いた和紙の束を詰めた。
一日に祓いの力を込めて書ける枚数は、そう多くない。
ゆえに播磨から依頼を受けたあと、五日をかけて作成した物たちだ。
「よし」
全部入った。若干ポケットが膨らむほどに。
昨日は万全を期すため一日寝倒し、体調はばっちりだ。すこぶる健康体といえよう。
とはいえ声も動きも硬い。悪霊退治は一度しか経験がなく、ずぶの素人である。
さらには悪霊蔓延る異界など何が起こるか予測すらできない。緊張するなというほうが無理であろう。
現場は退っ引きならぬ状況らしいが、門外漢が馳せ参じたところで役立つまい。下手をすれば邪魔にしかならない。
だからこそ、入念に準備を整えた。
思った以上に大荷物になってしまったのは予想外だ。動きが鈍る。
「……ペン、減らすか」
ポケット一ヶ所につき一本はやりすぎた。
右側のポケットのみに仕込み直す。
やにわに腕を上げて、下げて。しゃがんで足を曲げて、伸ばして。
動作に問題なし。大きく頷いた。
玄関を出て鍵をかけ、裏へと回る。
世間の気候に合わせて選んだ冬服が暑く感じる、陽気が満ちた庭園を静かにトレッキングシューズが進んでいく。
縁側の中央、座布団の上に鎮座する山神の対面に立った。
極力、明るめの声を心がける。
「山神さん、留守を頼みます」
「うむ。十二分に気をつけろ」
大仰に告げ、尻尾を左右に振る。
湊は頷き、背を向けた。
御池にせり出す大岩の上、霊亀と応龍が静かに佇み、小径を歩く湊を見つめている。
「いってきます」
霊亀が首を縦に振り、応龍が深々と頭を下げた。
振り返った湊がクスノキと向き合い、青々と茂る葉を見上げる。
「できるだけ早く帰ってくるよ」
さわさわと樹冠が震えた。
片手を上げて裏門へと歩いていく湊の後ろ姿に向かい、やわらかな風が吹く。
ゆれるクスノキの最上部から、ひらりと舞った一枚の青葉が、パーカーのフードに吸い込まれるように入っていった。
それを神々だけが、見ていた。
裏門の扉を開ける。
一歩、敷地外に足を踏み出すと、冷えた空気に全身を包まれた。
吐く息が白い。呼吸するたび、身体の芯まで冷えていく。
世間は凍てつく冬だ。
寒風が吹く中、テン三匹が外に並んで待っていた。
彼らとともに現地へと赴く。
目的地は、他県にある町中の寺だ。
山神は山の神であり、基本的にこの地から動かない。
修行の成果を見せてみよ、との使命を仰せつかった彼らの顔つきは凛々しく頼もしい。
浅く笑った湊が、ボディバッグのベルトに手をかける。
「お待たせ。いこうか」
「忘れ物ない? もちろんお菓子は忘れてないよね」
「ウツギ」
抑えた声で諌めたトリカがウツギを小突き、端にいたセリが額を押さえた。
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