26 罠
右を見て。
ぶ厚いガラス扉の向こう側、ガラスケース内に整然と並ぶ洋生菓子の数々。
白い生クリームたっぷりショートケーキ。こっくりとした深い茶色のチョコレートケーキ。
こんもりと盛られた色とりどりの艶めく果物が乗ったタルトケーキ。
バターてんこ盛り使用ケーキたちからの魅惑の誘い。
ねえ、こちらへおいでなさいな。
左を見て。
全面ガラス張りの向こう側、店内の木棚に行儀よく並ぶパンの数々。
あふれる具材の惣菜パン、チョコ、ジャムがこぼれんばかりの菓子パン等々。
籘かごに山と盛られた表面がてりてりの悩殺バターロールが手招く。
さあ、どうぞ、こちらへ。
ごくり。
通りの真ん中に立ち止まったウツギが大きく喉を鳴らした。気を抜けば涎が垂れそうだ。
左右に店舗を構える洋菓子店とパン屋。
一体どっちを向けばいいものか。幾度も左右へ振られ続ける首は止まらない。
食べたい、食べたい。
今すぐ駆け寄り、口いっぱいに詰め込んで噛みしめ、食べ尽くしてしまいたい。
けれども。
ぐぐっと手を握りしめ、足を踏ん張り、己を律した。
駄目だ。
己はここに、物見遊山に来たのではない。湊の手伝いのために、来たのだ。
山神に託されたお役目を果たすため、はるばるここまでやって来たのだから。
駄目だ、駄目だ。絶対に駄目だ。我慢しなければ。
順調な道行きであった湊一行は、目的地のとある寺へと至る道で、まさかのハニートラップならぬバタートラップに引っかかり、足止めを食らっていた。
あとほんの少し。徒歩十五分程度で着く予定だというのに。
大層罪深い。カーゴパンツの脛部分をわしづかみ、ぴるぴると震え必死に欲望と戦っているウツギを見下ろしながら湊は思う。
ウツギのみならず反対側の足元にいるセリとトリカも、しきりに鼻を左右へと向けて匂いを嗅ぎ続けている。
完全に意識を絡め取られて立ち止まったままだ。
まあ、無理もない。彼らは初めて食べ尽くせないであろう膨大な洋菓子、パンを目にしたのだから。
早朝から楠木邸を出発し、タクシー、新幹線、快速を乗り継いでたどり着いたのは、とある歴史ある町だった。
スマホのアプリに導かれるまま、迷うことなくすんなり到着。駅を降り、まっすぐに延びる煉瓦道の両側には古色蒼然とした店舗が軒を連ねていた。
やがて午後二時になろうという時間帯。
薄い雲がかかり太陽からの恵みはささやかで、気温も低く肌寒い。
立ち往生する彼らの頭上を大型の鳥が鋭い鳴き声をあげて横切っていく。
店先に立ついくつもののぼり旗が寒風に煽られ騒がしい音を立て、身動きが取れずに身体が冷えた湊が肩を竦めた。
週一の頻度でしか家を出ない湊は、出かけるたびに外気温の下がり具合に戦いている。
加えて今回の場所は日本の北に位置しており、楠木邸近辺より明らかに凍てついていて骨身に染みる。
湊は外へ遊びに出かけるよりも、家に皆で集まり騒ぐのが好きなタイプである。
ゆえにそれなりに有名観光地であるこの町に初めて訪れたものの、さして興味もない。観光などもっての他だ。
なるべく早く済ませて帰りたいが、テンたちの足は根でも生えたかのように動かない。
さながら動かざること山のごとし。
涎を抑えきれない様子の三匹は、移動中に食事は済ませたから空腹ではないだろう。
新幹線の車内販売で購入した駅弁を予約されていた個室で周囲を気にせず皆で仲良くいただいたのだから。
一人にもかかわらず四人分を注文した時は、怪訝な顔をされたが何食わぬ顔で乗り切った。
眷属たちは
一般席であれば、駅弁の中身が蒸発するかのごとく消えるホラー現象になってしまう。播磨が気をきかせて個室を予約してくれていたおかげで助かった。
播磨はすでに現地入りしている。
帰りの時間は未定だ。
状況次第では泊まりもありうるだろうが、日帰りを希望。頑張る所存である。
だがしかし、にっちもさっちもいきやしない。
通りのど真ん中で突っ立つ湊は無表情だった。
生気を失い、死んだ目が切ない。無我の境地の湊だけしか見えていない人々が、怪訝な表情をしながら避けて通りすぎていく。
ちろりと足元を見やると、セリもトリカも煩悩に必死に抗っているのが見て取れた。
彼らは山から出たことがない箱入りである。
移動中もタクシーで駅に直接乗りつけて駅構内しか見ておらず、初の洋菓子、パン屋に驚き、すべての意識を持っていかれていた。
通りにかすかに漂うパンの焼ける香ばしい匂いもまた強力な罠といえよう。
人間の何倍にもなる彼らの鋭すぎる嗅覚では一溜りもあるまい。
セリとトリカも震える手で湊の脛あたりをつかむ。
完全に両足を捕らわれた。
動けぬ。
この事態は予想してしかるべきであった。迂闊だった。
食後のデザートとして、かの有名なスプーンに戦いを挑む、名物ガチガチアイスを与えるべきであったか。寒かろうとやめておいたのだが。
ともあれ、さっさと悪霊退治して帰りたい。
小声で囁く。
「帰りにケーキとパン買って帰ろ」
「ほんと!? いいの!?」
ぎゅむっと閉じていた両目をすぐさま開き、キラッキラの眼差しで見上げられた。眉を下げた湊が仕方なさそうに笑う。セリとトリカの気配も華やいだ。
これぐらいでやる気が上がるのなら安いものだろう。
山神さんたちへのお土産はどうしようかな、と呑気に思いつつ、動きの鈍い三匹を促し、ようやく足を踏み出した。
一拍後。
悪魔が来たりて。
――リリィン、リリィン。
ハンドベルを鳴らす。
真横だったパン屋の木扉を開けて出てきた店員の手元から鳴らされた音だ。
コック服をまとった笑顔の小悪魔が弾んだ声で歌うように告げる。
「アップルパイ、焼き上がりました~、焼きたてですよ~、お一ついかがですか~?」
ぶわりと香ばしい焼きたてパイの香りをふんだんに乗せた空気弾が湊たちを直撃した。
全身を包む、甘酸っぱい林檎の香り。
つんと鼻を抜けるシナモン特有の香り。
そして、濃厚で馥郁としたバターの、かお……。
ガタガタと激しく震え、毛を逆立てた三匹が湊の脛にすがりついた。
店の入り口近くで、両足を毛玉三つにがっちりしがみつかれて進退窮まり、そのうえ、にこやかな店員と目まで合った。
これで買わずにいられようか。
外からガラス窓に張りつき見守る三匹の熱い期待に応え、焼きたてアップルパイを三つ購入した。
ひっきりなしに涎を垂れ流す猛獣たちをどこに連れて行けば食べさせられるものか、と紙袋を抱えたまま首を巡らせたところへ。
ガアッと濁った鳥の鳴き声。
テンたちに遅れて湊も声がした頭上を見上げた。
そこには、一羽の
スレート屋根の際に止まった全身真っ黒の小型の鴉が、こちらを見下ろしている。
再度、鳴く。今度は少し長めに。
ウツギが脛あたりの生地をつかんで軽く引く。
同じタイミングで鴉が背を向け、首だけで振り返った。
着いてこい。
そう告げていると教えてもらわずともわかった。
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