5 隣神の山神さんと井戸端会議


 獣の食事風景は豪快だ。


 鼻梁に縦皺を刻み、獲物に牙を突き立てる。

 鋭利な牙は食らいついた肉を紙でも裂くようにあっさりと噛み千切った。

 咀嚼音を立て、次々と消化していく。

 黄金の両眼は愉悦にとろけ、絶え間なく長い尻尾を振っている。


 気持ちいいほどの食いっぷりは、いたく満足そうだ。


「どうですかね、お味のほどは」

「……うむ」


 最後まで呑み込んで返事をくれた。

 忙しない尻尾が巻き起こす風を半身に受け、縁側の縁に腰かける湊もフライドチキンにかぶりついた。


 大狼は、お隣の山の神だという。


 それを聞いた湊は「隣神りんじん? 山神さんでいいんですかね」とややふざけて尋ねれば「うむ。よかろう」とあっさり快諾されてしまう。


 ゆえに、呼称は“山神さん”に決定した。

 神とはいえ、存外気安い方のようだ。


 星空のもと、ともに縁側でくつろぎ、夕食を摂っていた。リビングから漏れる斜光が、仲良く隣り合って談笑する一人と一柱を優しく照らす。


「ちと脂が多いがうまいものよ」

「さっぱりめのほうがいいのか。口直しに酒、要りますか」

「まだ完全に力が戻っておらんのでな。すまぬ、水がよい」

「あー、力が弱ってるんでしたっけ」


 ミネラルウォーターをガラスボウルに注ぎ、傍らの山神の前へ。山神の体が透けているのは、神力なる力が弱まっているからだという。


「おかげで、鬱陶しいモノが祓えんでな」


 水を舐めながら山神が苦々しく吐露する。

 それを眺めてグラスを傾け、炭酸ジュースを呷る湊は、下戸である。


「美味である。我の所の清水に勝るとも劣らぬ」


 山神は唸り、うまそうに飲み続ける。


「お主のおかげで助かったぞ。礼を云う」

「……俺、なにもしてませんけど」


 空になったボウルから顔を上げた山神は、長い舌で口回りの滴る水を舐め取った。


 じっと見つめてくる。心の奥まで暴かれそうな底知れぬ眼差しを向けられ、湊は落ち着かない気分になった。

 ほどなくして、山神が神妙な口調で告げる。


「知らぬ、気づかぬほうが、お主のためなのか。我では計りかねる」

「はあ」

「だが、その力は稀有なものぞ。自覚し、磨けばさらなる力を手に入れられるであろうよ」

「はあ……?」


 内容がまったく理解できない湊は、生返事するしかなかった。グラスに炭酸ジュースを注ぎ足しつつ思いつきで尋ねる。


「無意識でなにかしてるとか?」

「ああ。悪しきモノを祓っておる」

「俺がですか?」


 思いがけない情報は、にわかには信じられない。


 「えー……あ、水もっと要ります?」

「頂こう」


 新たなペットボトルの封を開ける。ボウルに注げば、しゅわしゅわと泡立ち、表面から泡が弾けた。


 それを山神は無言で見つめ、物問いたげに湊を見やる。

 ニコッと営業スマイルを返した。

 長年培った接客用笑顔はこの上なく胡散臭い。


 わずかにためらった山神が、恐る恐る長い舌を細かい気泡が立つ水へと伸ばしていく。触れた途端――。


「っ!」


 しびびっと耳から頭、背中、尻尾の先まで何かが駆け抜けいき、毛が逆立った。


「炭酸水です」

「舌がひりつく……ぬぅ、これもなかなか」


 ばっさばさと尻尾が音高く床を叩く。

 思考を転がすため少し遊んだ湊が眉間に皺を寄せ、腕を組んだ。


「祓ってるって、どうやって……? 気合? 無意識で?」

「おぬひが、きゃいたものひょ」

「え、なんて?」


 ひたが、ひたが、と舌の痺れを楽しむ神の言葉は聞き取り不可能である。湊もグラスを傾け、喉を鳴らした。


 炭酸水を飲み干した山神が姿勢を正して座す。

 静かに佇むとやけに神々しさが増す。

 風にゆれる毛並みが煌めいているのは目の錯覚か。

 最初に見た時よりも体躯が明瞭になったのは、気のせいなのか。


 だらけた姿勢は失礼かと、座布団に正座し背筋を伸ばして山神と向き直る。

 神たる獣が御神体である高くそびえる黒山を背に、厳かに神威を乗せて宣う。


「お主の書いた文字が祓っておる」


 その声は、朗々と庭の隅々まで響き渡った。

 さながら大気を震わす天からの神託のように。


 予想だにしていなかった湊の心にまで深く、重く響いた。

 美しい神が仰せなのだ、疑う余地はあるまい。


 雰囲気に呑まれ、平伏しそうになった瞬間、げふっと追加されたのは、げっぷだった。

 威厳が夜空の向こうへと裸足で逃げ出した。


 台無し、台無しだ。

 ただの巨大な狼と化したモノが、ちらりと視線をペットボトルへと流す。


「炭酸水を頼む」

「……はいよ」


 猫背に戻った湊が苦笑し、ふと閃く。


「ああ、だから字が消えるのか!」

「左様」

「おお、謎が解けてすっきりした」


 嬉しげに炭酸水ペットボトルをつかんで持ち上げると、尻尾が忙しなくゆれる。


「じゃあ、これからも書いた字が消えるってこと?」


 どぼどぼとボウルの半分まで注ぐ。


「左様。おっと、もうよい」


 前足をかざして制止をかけられた。


「はいよ。えー、迷惑だな。油性でも駄目?」


「さして変わるまい」と澄ました顔で炭酸水を飲んでいく。

 いつの間にか敬語ではなくなっているが、山神は気にもしない。


「書いただけで悪いモノ祓えるんだ……知らなかった」

「お主が字を書いた紙が触れれば悪しきモノは面白いように消し飛ぶ。我が弱っている隙にここに巣食っておったモノどもが一瞬で塵も残さず消え去ったのは、よい見せ物であったぞ」


 人の悪そうな、いや、神の悪そうな面持ちの山の神が嗤う。

 三日月を形作った黄金が、庭の向こうの裏門へと向けられた。


「あの表札は、さらによいものぞ」

「書いた大本の字は消えてるような……時間かけて彫ったからかな」

「祓いの力がよりこもっておる」

「へえ。あー、そういえば、昔作った同じような物をすげぇ褒めてくれた人がいたんだよね」

「視える者だったのであろうよ」


「そうかも」と頷きながら、過去を思い出す。


「表札が一年持たずして割れたりするのはなんで?」

「力が尽きたからではないか」

「……そう、か」


 目を閉じ、湊がしみじみとこぼした。

 過去、表札はいくつも割れた。稀にひと月持たないこともあった。


 実家が温泉宿を経営していると告げると、様々な者が訪れる場所は悪いモノが集まりやすいという。

 加えて、温泉は、汚れのみならず穢れまで落とされていくらしい。


 実家が心配だが予備の表札を置いてきており、ひとまずは大丈夫だろう。


 五月の夜風はまだ肌寒い。

 厚着していても、風に煽られて寒さに震えた。

 気づいた山神に促され、初の食事会はお開きとなった。


 

 ◇


 

 それから山神とほぼ毎日、食事をともにするようになった。


 山神はおおむね庭にいる。

 縁側の中央で寝そべり、微睡んでいる姿をよく見かけた。

 時折いなくなるものの、もはや隣神ではなく、同居神のような状態である。



 空に浮かぶは上弦の月。

 いつものように縁側でともに夕飯を済ませ、食後のおやつをつまんでいた。


 隣で練りきりを頬張る山神は、リビングからの灯りを弾いて煌めき、目にも鮮やかである。

 湊がまじまじと見つめ、首を捻った。


「山神さん最近、存在感マシマシになってないか」

「うむ。お主のおかげよ」


 胸を張る姿は今や、透けた所などどこにもない。

 最初の頃、頻繁に濃くなったり、薄くなったりしていたというのに。

 湊のおかげというのなら、心当たりは一つしかない。


「いつもいっぱい飯食ってるから?」


 甘味をこよなく愛する山神は、練りきりを堪能するのに忙しそうだ。相当好きらしく、大きな体躯にしては小さすぎる甘味を、一つずつ、一つずつ、丁寧に口へと運び、噛みしめて食べる。


 その顔ときたら堪らなく幸せそうで幸せそうで。

 見ているだけで微笑ましく、ほっこりと和む。神の威厳とやらは空の彼方へと飛んでいってしまうけれども。


 長年、動物を飼いたくとも、家業が忙しく家族から反対されて叶わなかった。

 よもやここにきて、傍に動物に近しいモノがいる生活を送れることになるとは、と湊は内心かなり喜んでいた。


 十二分に練りきりを堪能した山神は、湊に視線を向ける。


「それは些細なもの。お主が我を敬う気持ちゆえよ」


 深く感謝の込められた物言いだった。

 己の分を隣の皿へと移していた湊の動きが止まった。増えた練りきりに尻尾を激しく振り、純白の体躯がますます金色こんじきの光を放つ。

 背後の電灯よりも明るい。


「ただ、それだけで?」

「それだけ、でな。我の力はそれに左右される」

「もっと早く言えばよかったのに」

「うむ。厚かましいかと思ってな」

「すんげえ、今さらでしょ」


 たらふく食っちゃ寝しておきながら何をかいわんや。

 頻繁に山の幸を頂くが、ほとんど山神の腹に収まっている。そこは気にせず、己を敬えというのは気が引けるらしい。


 いまいちよくわからない存在だ、神様というモノは。


 まったく遠慮のない山神とはいえ、楽しく会話して食事を摂れるのは大変ありがたい。

 近所付き合いが密な地域で生まれ育ち常に人に囲まれてきた湊にとって、広々とした家で一人侘しく食事するのは気が滅入る。


 ここは一つ、聞いたからにはやらねばなるまい。

 正座して、咳払いを一つ。

 眼前の山神に向かい、合掌。


「山神さま。いつも一緒にご飯食べてくれて、ありがとうございます。とても感謝しています」

「うむ。なあに、そのような畏まった言葉遣いでなくとも、よいよい」

「最近敬語使ってなかったな、と思って」

「言葉遣いなど気にせずともよい。大事なのは気持ちだ。いくら丁寧な言葉遣いであろうと礼儀正しかろうと、そこに敬う心がなければなんら意味はない。我の力にはならぬ」

「へえ、じゃあ、今は?」

「うむ、わからぬか?」


 山神の体が一段と輝きが増し、後光まで差し始めたではないか。

 これぞ、まさに神の威光である。

 おおっ、と湊がまばゆさに瞳を眇め、拍手した。


「いかにも神様って感じする!」

「当然であろう。我、山神ぞ」


 ふんぞり返る電飾もかくやの神々しさの御身は、実に偉そうだがすこぶる似合う。

 拝む度に光が増すのが、面白くて、楽しくて、敬う気持ちを込めまくって拝み倒す。


 結果――。


「あの~すみません、眩しすぎる。ちょっと抑えてくれませんかね」


 目が痛い。

 天に輝く太陽にも負けない発光体と化した山神だった。


 その後、妙に身体の怠さを感じた湊は、早々に就寝する羽目になった。

 

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