22 入るか否かはキミ次第
つつがなく散策を終えた湊と山神は、タクシーで帰路についた。
が、運転手が山神の気配を感じ取れる者で、始終落ち着かず、次第に運転すら怪しくなってしまった。
やむを得ず、楠木邸の影が遠目に見える位置で降車した。
やがて、太陽が地平線に隠れてしまいそうな刻限、水田に挟まれた街道にはどこか侘しい空気が漂う。
隊列を組む鳥が薄い青空を羽ばたいていく。
その下方、路面に長く伸びる影は湊のものだけだ。
山神の影はない。
大型トラックが横を駆け抜け、風圧で山神の毛がなびいた。細めた眼で黒煙をたなびかせて小さくなっていく車体を眺めつつ、山神はしみじみと告げる。
「――うむ。にしても、実際に訪れてみなければ、わからぬことばかりよな」
実感のこもった声と表情であった。山神も常々人の世に関心を向けているわけでもないうえ、睡眠時間も多く長い。
毎日、朝起きて夜寝る。そんな慌ただしく過ごさざるを得ない人間とは違う。久方ぶりに訪れた地と、民草と接して、いろいろと思うことがあるのだろう。
そう思いつつ、湊は今日のことを振り返る。
「今日は、南部に出かけてよかったよ」
穏やかに告げる相貌は、満足げだ。
「木彫り用の紐も購入できたし。――ちょっと、変わった縁ができたかもしれないけど」
十和田記者は顔を覚えた程度だが、和雑貨屋の店員とはこれからも確実に会うことになる。
「その縁がいかように転がるかはわからぬが、良縁であろうよ」
「そうだといいけど。自分で選んだしね」
「案ずることはない。お主には、四霊が加護を与えておるゆえ、悪縁はつながらぬようになっておる」
「――そうだったんだ。お礼しないと……」
いまその手が持つ紙袋の中には、眷属たち用の物しか入っていない。なにぶん四霊のお気に入りである酒類は、重い。
明日買いにいこうと心にメモった湊の視界の端には、常に御山がちらついている。御神体はいつでも無視できない存在感を誇る。南部のどこにいっても同じであった。
今日は、面白楽しい一日であった。
しかしある事柄が、常時頭の片隅に居座っていた。
「御山の所有者さんも知りたいから調べないと……」
つぶやいた湊の目前の虚空が一気に歪んだ。
楠木邸へと至る細道まで、あと数歩の位置であった。波打つ向こうに、直立する地蔵がひどくぼやけて見えた。
突如として、神域の入り口が出現した。
その範囲は広く、屈む必要もなく通れるだろう。
まるで不可視の門があるようだ。
大きさは珍しいが、いつもと変わらない様相である。
しかし、そこからの吸引力はない。
身構えた湊が引きずられる事態にはならなかった。
戸惑う湊の傍ら、山神が静かな声で告げる。
「見極めよ。あれの中に、神がおるか否か」
「――わかった」
ぼやける宙を見つめ続ける湊の周囲に、人はいない。車も通らない。誰にも邪魔されず集中できたおかげか、ほどなくして判断がついた。
「中に神様がいらっしゃる」
「左様」
「あと、今までとは少し違うみたいだ。規則的に波打つ中に、ときどき黒い色が交じることがある」
「人もおるゆえ」
湊は頭が吹っ飛びそうな速度で、山神へ顔を向けた。
「まさか、無理やり引き込まれたの?」
「さてな。引き込まれたのか、中のモノに喚ばれて自ら望んで入ったのか。そこまでは、我にはわからぬ」
「山神さんにもわからないことがあるんだね」
「むろん。我は全知全能ではないゆえ」
不可視の門は、依然としてそこにある。
入るも入らぬも好きにしたらいい。そう言わんばかりだ。
そこを注視したままの湊を、山神が見上げる。
「中に入るのか」
「……うん。いちおう見に行ったほうがいいような気がする」
しばしの間を置き、山神はふさりと尾を振る。
「――中の者は、望んでそこにおるやもしれぬぞ」
「かもしれないね。その時はあいさつだけして戻ってくるよ」
「説得せぬのか。人の世に戻れ、と」
「本人がそれを望んでいるのなら、何も言うつもりはないよ。心に決めたことを変えるなんて簡単じゃないし、余計なお世話だろうしね」
「ならば、ゆくがよい」
それもそうだろう。
湊は納得する反面、不安もあった。けれどもこれから先も、一人の時に同様の事態に遭遇することもあろう。一人で対処できずしてどうする。
決心を固めた湊の傍ら、山神はそれ以上何も言わず、その場――路傍に鎮座した。
どっしりとした佇まいは、まさに動かざること山のごとし。そこにいてくれるなら、有事の際にはどうにかしてくれるに違いない。
加えて、神域の入り口が在り続けるのは、あちらも拒否していないということだ。いきなり取って食われることもあるまい。
湊は、紙袋の持ち手部分を山神の鼻に引っ掛けた。
「いってきます」
「気をひゅけろ」
話しにくく、ふがふがしている大狼に、湊は笑いかけた。
ここ一番の時に、いまいち締まらないのはいつものことだ。とはいえ脱力して、余分な力みが抜ける利点はある。
満天が黄金色に染まりゆく中、湊は神の住まいの入り口へ踏み出した。
◯
ザリッと大地を踏んだ湊の靴底が鳴った。
難なく不可視の門をくぐった瞬間、その視界を黄金色が埋め尽くした。
頭を垂れる稲穂の絨毯が、どこまでも続いている。
無限に広がる田んぼのあぜ道に、湊は立ち尽くした。
見上げた空は羊雲に覆われており、太陽の姿はない。
やや冷たい風が吹きすさび、薄着の肩をすくめった。
「――さむっ。それにしても、広いな」
たびたび無神の神域に引き込まれ、数々の神の住まいを見てきたが、ここまで広大なのはひさびさになる。
アマテラスの所、以来だ。
神域の規模はそれこそ、千差万別である。
たとえ小規模であろうと、本物と遜色ない見事な山岳、田園、湿原、あるいは御殿といった、誰もいないことが惜しまれる素敵な住まいも多かった。
自らと同じように引き込まれてしまう被害者が出ないよう、全部破壊してきている。
佇む湊がゆっくり見渡した。ちょうど反転した位置で、遠くに一軒の建物らしき影を見つけた。
黄金の海に浮かぶようなそこまで、あぜ道は一直線に伸びている。
感覚を研ぎ澄ませて一帯を探ると、建物がもっとも神気が濃い。
――神は、そこにいる。
やや歩きづらい道をゆくと、建物の全容が見えてきた。
ぽっかり開いた四角い敷地の中央に建つ、平屋の日本家屋。昔ながらの引き戸の玄関を構え、あたかも農家のお宅といった風情である。
「大きな
玄関の向こうを想像した湊は、思わずつぶやいた。
直後、その引き戸が開き、人影が現れた。
同年代らしき細身の女性だ。遠目で顔色まではうかがえないが、歩き方から異常は見受けられない。
ただ、膝丈の厚地コートとロングブーツという、真冬の服装なところだけが異質であった。
ともあれ、疲弊してもおらず、精神に異常をきたしてもいないようだ。
彼女は、望んでここにいるのかもしれない。
そう思った時、女性が湊に気づいた。
ぱっとうれしそうに笑うと、長い髪をなびかせて駆け寄ってきた。
秋の風景の中、春夏仕様の男と冬の装いの女が対峙した。何もかもがちぐはぐである。
足を止めた女性は、開口一番に弾んだ声で告げた。
「私以外にも、ここに人が迷い込んできたりするのね!」
「はぁ、そうですね。こんにちは……?」
正確にはそろそろ晩のあいさつでも通用する刻限だが、無難なほうを選んだ。
彼女は不思議そうにしている。
「えっと、おはよう……? 今、朝よね?」
湊は答えあぐねた。
経験上、神域内の時間の流れは、それぞれ異なる。外界に出ない限り、内部の時の流れを知る術はない。
それよりもまず、彼女はここが神域であることを知っているのか。
問うのを躊躇した。
神域内での言動はすべて、そこを支配する神には筒抜けとなる。下手なことを告げた場合、神の怒りに触れる恐れもある。
湊はちらりと家屋を見やった。取り立てて異様な気配はない。
――傍観している。そう感じられた。
一か八か。訊くしかあるまい。
「今は夕方ですね。……ここの外では」
「そうなの……? てっきり朝日が昇って間もない頃かと思ってた」
「ここが神域――神様の領域だと知ってるんですか?」
女性は風に流れる髪を片手で押さえ、小首をかしげる。
「あ、うん。らしいね? 神様にそう聞いたんだけど、でも私、あんまりわかってないのよね」
あっけらかんとしている。現状を正確に理解していないのは明らかだ。
彼女は、昨夜からここにいるという。
深夜、友人の車から降りて自宅へ向かう途中、気がついたらここにいたらしい。
それは実際、
真実を知るのが、無関係の湊でさえ心の臓が冷えるほど、恐ろしかった。
女性の服装、髪型、化粧を見るに、時代遅れの印象はない。そう長い時は経っていまい。
意を決した湊は、静かな声で現在の年月日を告げた。
「今、世間は――ですよ」
「え? なに言ってるの……? 今日は――でしょ」
女性が言ったのは、四年前の日付であった。
からかう素振りなどまったくない湊を前にして、彼女は狼狽える。
「――そんな、冗談じゃないの……? でも、だってっ」
慌ててコートのポケットからスマホを取り出した。
「ほら、これ見て! 昨日ここに入った時に止まっちゃったんだけど……」
掲げられた画面に記された時刻は停止しているが、その年月日は女性の言う通りであった。
湊も無言でスマホを取り出す。
奇しくも同一機種だが、彼女の物より四代新しく、形状も洗練されている。同じくデジタル表示も止まっているが、四年進んだ日にちだ。
そのすべてでもって、真実を突きつけられた女性は言葉を失った。
うつむく女性を前に、ふいに湊は思い出した。
武蔵出版社で見かけた、あの新聞記事を。
――帰宅途中、行方不明になった二十代女性、四年経ってもいまだ戻らず。
年数も符合する。おそらく行方不明者は、今、目の前でうつむく女性のことではないのか。
いずれにせよ、どう声をかけたものか。
悩む湊の前で、彼女は面を上げた。その表情は驚きでしかなかった。
嘆き悲しむどころか、決意に満ちている。
「帰らなきゃ」
力強い堂々たる宣言であった。芯が強いのだろう。泣かれたら進退窮まったであろうから、湊は胸をなで下ろした。
「まだいまいち実感もなくて、頭が追いついてもいないんだけど」
言いながら女性は首をひねった。
基本的に物事を深く考えない性質なのかもしれない。よしんばそうであっても、ここから出て現実を目の当たりにした時、彼女が今と同じ状態でいられるのかはわからない。
四年という月日は、決して短くないのだから。
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