17 おつかれのツムギさん
忙しなかったお出かけの翌日。楠木邸の塀の上に音もなく黒い狐が現れた。
その時、湊は渡り廊下を歩いている最中であった。
珍しいと思った。そこからツムギが現れるのは、最初にここを訪れて以来になる。それだけ気が急いているのだろうか。
庭の変貌ぶりに眼もくれず、ひたすら露天風呂のみを注視し、塀の上で足踏みしているからだ。よほどお疲れらしい。
「湊殿、先日は大変申し訳ありませんでした」
覇気はなくとも、律儀に謝罪してくる。
「気にしてないよ。いらっしゃい」
笑うと背後の大きな尾がゆらゆらゆれた。
けれども、疲労感は隠せていない。ぜひともひとっ風呂浴びるといい。空に湧く雲のように湯気の立つ露天風呂も、快く彼女を迎え入れてくれることだろう。
湊は役者めいた大仰な仕草で、庭の片隅を指し示した。
「とりあえずお風呂へどうぞ」
ツムギが頭部を引いて、言葉に詰まった。しかしそれも一瞬のこと。
「お邪魔しますなのです。ありがとうなのです……!」
万感の思いを込めたような声であった。
湊の心には同情しか湧かない。心の内を漏らさない彼女が温泉で癒やされるというのなら、好きに利用すればいい。
まっしぐらに駆けて露天風呂に飛び込む様は、かけつけ一杯ならぬかけつけ温泉でも、湊は気にしない。
ここの主がそうならば、クスノキの下でうたた寝中の山神も、池を泳ぐ霊亀と応龍も、石灯籠にこもる鳳凰とカエンもとやかく言うことはなかった。
渡り廊下に佇む湊は己の手をじっと見た。
「朝から握ったいなり寿司の匂いがついてるのかな?」
嗅いでみるも、微塵も匂わない。
「ほんといいタイミングでくるよね」
彼女の好物をたんと用意しておいてあげよう。
温泉上がりの黒い狐の被毛は、つやっつや、双眸もキラッキラ。神もかくやの後光まで放ち、クスノキの優しい木陰を隅々まで照らす勢いである。
座卓についていた湊は朗らかに、横臥した山神は半眼で、対面にちょこんと鎮座したツムギを見つめている。
「たいっへん! よき湯加減だったのですッ!」
いたく拳の入った感想で、湊は笑う。
「それはなにより。ところでお腹空いてない?」
「ええ、ほんの少し空いているような気がするのです」
澄ました言い方だが、餓えた獣の眼で座卓を凝視している。いなり寿司と蕎麦いなりが、大皿いっぱいに並んでいるからだ。
ひとまず凝視するのはやめるがよいと、山神が言いたそうだが、よそ様の眷属ゆえか、その口が開くことはなかった。
「お好きなだけどうぞ」
「いただきますっ」
湊に促され、ツムギが食らいついた。
とはいえ所作は上品である。セリとトリカ同様、器用に箸を使いこなし、ゆっくり顎を動かすその相貌が咀嚼の都度、とろけていく。
「本日の五目いなり寿司も実に美味しいのです。人参、ごぼう、蓮根、椎茸それぞれの食感がとても楽しい。その味つけを引き立たせるべくお揚げさんはいつもより薄味なのですね……。絶妙な味のはーもにーなのです……!」
相変わらずの食レポを交えつつ、じっくり味わっている。
その正面で、山神は小ぶりなケーキを眺め回す。
こちらは、昨日購入した抹茶レアチーズケーキである。
白と緑のマーブル模様をした断面の最下層はタルトとなっている。その間に小豆がちらほらお目見えする、和と洋のいいとこ取りをした一品である。
かたやお食事、かたやお菓子。〝好きな物を好きなだけ〟が基本スタンスの楠木邸の食事会は、メニューに一貫性がない。
大狼は頭を左右へ傾け、ケーキを見ながら唸った。
「このけーきは、ずいぶん和菓子とは違うものよな。ぬぅ、やけに華美ぞ」
「そうかな? 宝石みたいな果物がぎっしり乗ったタイプに比べたら、かなりシック――慎ましい雰囲気だと思うけど」
いまだ横文字を話すのにはためらいがある。
ちらりと上目で見てくる山神の眼が、その程度のことを理解するくらいお茶の子さいさいぞと訴えてくる。
口角を上げつつ、湊は緑茶を淹れた。
ややミスマッチであるが、山神は珈琲、紅茶、ジュースなどは一切飲まないからだ。なお同じケーキを前にする湊は、馥郁たるアールグレイを選んだ。
「ま、食べてみてよ。昨日お店で味見させてもらったんだけど、おいしかったよ。たぶん山神さんも気に入るんじゃないかな」
試食として丸々一個食べさせてくれたのには驚いた。
太っ腹な試食もさることながら、販売員に涙ながらに『おまけでござる。ぜひともお持ちくだされ……!』と焼き菓子を山のように持たされたのは、解せなかったけれども。
しかしながら、四霊の加護による効果でそういうことは多々あるため、湊の記憶にはさして残らない。
が、今回の品を山神が気に入ったあかつきには、新たな行きつけとなるだろう。
それを販売員が渇望しているのをあずかり知らぬ湊は、パカリと開いた大狼の口へ半切れのケーキが放り込まれていくのを見守った。
果たして、偏食の山神の判定はいかに。
もぐり。咀嚼した瞬間、金色の瞳に流星が走った。
ブルブルと震えるその全身から粒子がこぼれ落ち、床に降り積もる。
感動を表すせいか、その金の積雪はなかなか消えず、あろうことか雪崩と化してツムギを襲った。
「眩しいのです」
いともたやすく尻尾で押しやられ、ふんと山神が鼻を鳴らした。
「ぬしは我のことをとやかく云えまいて。――それはともかく侮れぬわ、この抹茶れあちーずけーきとやらはっ……! 抹茶のほろ苦さと濃厚なちーずがここまで相性がよいとは予想外ぞ。この下に敷き詰められた大粒の小豆もふっくらとして、実に、実によきあくせんとになっておるわ」
眼を閉じてとことん味わい、嚥下した山神はまたも唸る。
「ぬぅ、この食感の豊かさは小豆の形が残っておるからこそよな。こし餡であればこうはなるまい……」
「そこは必ず考えるんだね」
ひたすら感心するしかない湊に、山神が鷹揚に頷いた。
「こし餡派として、譲れぬところゆえ」
「なるほど。ま、おいしかったんだよね?」
「うむ」
ぶんぶんと振られる尻尾を目を細めて見やる湊は、フィナンシェをパクついている。
「あ、これもうまい。アーモンドの風味が強くて香ばしいから、セリたちも好きそうだ。あとでお裾分けしにいこうかな」
なにぶん多く、一人では消費しきれない。
「彼らはフィナンシェが好きなのですか?」
ツムギが新たないなり寿司へ箸を伸ばしつつ、尋ねてくる。
「フィナンシェだけじゃなくて、洋菓子全般を好むよ。和菓子は食べないことはないっていう感じだね」
「では、山の神とは嗜好が違うのですね」
「そうだね。ツムギのとこは? 天狐さんと同じ好みなの?」
「そうなのです――」
突如、ツムギの額の色が白から赤へと変わり、尻尾も九本に増えて扇状に広がった。
「さほど違いはないのぉ。ほぼ同じじゃ」
ニィと口角が吊り上がり、その眼も弓なりに反った。
相も変わらず、前触れもなく天狐がツムギの体に入ったのであった。
ふふふ、と妖しい笑声がするや、湊の背筋が粟立つ。黒き狐から漂ってくる壮絶な色香にめまいもしそうで、
「うぐっ」
食べかけのフィナンシェを喉に詰まらせた。
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