18 魔性のモノ現る
「こぅちゃぁ……!」
つかみ取ったカップを呷る間、その場にブリザードが吹き荒れた。その発生源たる大狼の背毛が、ハリネズミのごとく毛羽立つ。
「このあばずれが、またも勝手に入って来おったなッ!」
地を這う重低音で責められようと、どこ吹く風の黒い狐は顎を上げた。
「わらわをそのように呼ぶでないわ、人聞きの悪い。――それはそうとソナタ、喉は大丈夫かえ?」
思いがけず労られた湊は、気合いで咳を止めた。
「だ、大丈夫です……! ちょっとびっくりしただけです」
へらりと笑って返すと、じっと凝視された。黒い狐の方が低い位置にいるにもかかわらず、見下されているような気になる。
そして、その獣の瞳が縦に絞られると、一挙に身にかかる圧が増した。
「っ」
四方から押しつぶされそうな強さに総毛立つも、湊は己を奮い立たせた。
しばらく経つもその身体、目つきに大きな変化はない。
天狐は唐突に神気をゆるめ、その場に渦巻く己が気配を蹴散らすように尻尾を払った。
「ふむ、正常じゃな」
妙に機嫌がよさそうで、湊は困惑する。
「はぁ、まぁ、なんとか……?」
「むろんぞ」
山神が強い口調で横槍を入れた。その言葉に別の意味が含まれているような気がして、湊が見やると、大狼は実にいやそうに黒い狐を睨めつけていた。
「なんのつもりぞ。ろくでもない神気を大量に垂れ流しおって」
黒い狐は体を小刻みに震わせ、妖しく嗤う。
「もちろん、確かめたのじゃ。わらわとじかに逢っても問題ないかをな」
その額の紋様が、一瞬にして白に戻った。
途端、頭上から雨だれの音が聞こえ、湊は空を見上げる。目の醒めるようなスカイブルーに、雨雲の影も形もない。
けれども山側――正確にいえば、天狐が住まう山側の景色が蜃気楼のごとくゆがんだ。
「あっ」
ポツッと虚空に丸い穴が開いた。
じわじわと四方へと広がり、向こう側の景色が見えてくるにつれ、湊の目も広がった。
黄色に輝く池に咲き乱れる蓮の花、樹林が囲うなだらかな階段の上にそびえる、煌びやかな楼閣。
「ご、極楽浄土……?」
そう言われても、納得しかない荘厳さであった。
呆ける湊の鼓膜をさらなる雨音が打つ。他の音が聴こえないほど大きく、堪らず耳を塞ぐも、その視線は逸らさない。
――シャン。
甲高い鈴の音が鳴った。
するりと極楽浄土を思わせる空間から二匹の狐が出てきた。
間近できちんとお座りして眺めているツムギと変わらぬ体格をしていることから、眷属なのは紛れもない。
だが色は異なっており、白に近かった。
その狐たちが開いた空間の縁に沿ってまっすぐこちらへ向かってくるや、同体のモノが次々と続き列をなす。最初の二匹が楠木邸の塀まで到達し、そこに座った。
狐はさらに増えて二段、三段と高さも築き、二枚の壁となって一本の道を作り上げた。
狐の双璧ともいえるそれらは異様に高い。
まるで外からの視線を一切拒むように。
湊がそう思った時、極楽浄土めいた景色から七色の光が四方へと放射された。
むろん天狐がいでますに違いない。
聴覚の次に視覚まで攻撃され、湊は顔面を覆う。
「は、派手すぎるっ」
嘆くその声に導かれるように、黄金の輝きが現れた。
九つの尾を持つ、白き狐である。
その巨躯は山神と大差ない。あたりをことごとくを灼き滅ぼしかねぬ眩さをまとい、しずしずとやってくる。
「主、お早くっ!」
「主様っ、お急ぎになってくださいまし!」
「アルジ、いそいで、いそいで〜!」
壁の眷属たちが口々に言おうと、天狐の歩行速度は微塵も変わらない。
「そう急かすでない。ひさびさに己が足で歩くとダルいのぉ」
気だるげに眼を細め、動きも最小限のその挙動は、冬眠明けの野生動物さながらであった。
「天狐さんは、あんまり外に出ないんだっけ?」
湊が小声でツムギに訊くと、やや眼を逸らされた。
「――ええ、まぁ……」
妙に歯切れの悪い返答であった。
「あやつは出かけぬに越したことはないゆえ」
山神も深々とため息をついた。
その理由を問うていいものか、悩む湊の傍らで、大狼が身を起こす。出迎えのためであろうが、そのすこぶるのろい動作と相貌でいやいやと丸わかりである。
その場に凛とした声が響いた。
「山の神よ」
塀の上に座す、二匹の狐のうちの片方であった。ともに深く頭を垂れる。
「伏してお願い申し上げます。どうか主の訪問をお許しください」
「山の神よ、どうか、どうか、お願いいたします」
切実な願いを込めた物言いであったが、
「ぬぅ……」
山神は唸るだけだ。その顔面はかつて見たこともないほど渋い。
湊は気軽に口を挟めなかった。二神の確執の原因を知らないからだ。
とはいえ天狐に対して険悪な態度を取る山神だが、その眷属であるツムギには普通に対応し、家にまで招き入れている。
ならば、心底天狐を拒絶しているわけではないのだろう。
考えているうちに、天狐は塀の寸前まで迫っていた。
あと数歩の位置で、天狐はまっすぐ湊を見た。
「お邪魔してもよいかの?」
湊は山神を一瞥するも、その口が開かれることはない。おどろおどろしい神気を発しはじめたけれども。
迷った時間は一秒にも満たなかった。もとより神様を門前払いなぞできるはずもない。
「はい。どうぞ、お入りください」
大きな三角の耳がぴくりと動く。天狐は九つの尾をなびかせ、大口を開けて笑った。
「では、うかがうとするかの。みなも来やれ」
はい、と眷属たちの大合唱とともに、天狐の前足が境界を越えた。
「ぬしは向こうぞ」
地鳴りとともに山神の声が響いた。
天狐の前足が突風によって払われ、その身も横方向へと吹っ飛ぶ。瞬時に虚空に穴が開き、そこへ巨体が吸い込まれていった。
「ちと席を外す」
その言葉を残し、駆けた大狼も穴に飛び込んでしまった。
「え、ちょっと、山神さんっ」
腰を上げた湊に向け、ツムギは平然と宣う。
「湊殿、なにも心配はいりません。山の神が新たな神域をおつくりになって、我が神をご招待してくださっただけなのです」
中腰の湊が尋ねる。
「タイマンを張るために?」
「運動をするために、なのです。我が神は運動不足気味ですので、ちょうどよかったのです」
「――そっか」
人間である湊からすれば血の気が引く戦いでも、神の類にとっては些末な運動にすぎないらしい。
「じゃあ、まぁ、いいのかな。放っておいても」
「なのです」
「あ、眷属のみんなは……」
こちらは事態についていけなかったらしく、塀の手前で固まっていた。
ハッと一斉に我に返ると、ツムギに向かってキャンキャン吠え出した。
「
「どうしましょう、御姉様!」
「御姉様、なにを悠長になさっているのです! 主の一大事ですのよー!」
「みなのもの、鎮まるのです」
威厳のある声に一喝されるや、ピタリと大人しくなった。そんな一同を見渡し、ツムギは淡々と告げる。
「なにも心配いらぬと申したのです。いま我が神は山の神の神域内にいるのですよ」
「あ、そうでございますわね」
「――ああ、ではもう心配はいらないのですね」
眷属たちはあからさまに安堵したようだ。
その理由を聞きたいが、ひとまず家に入ってもらうべきだろう。
狐の大群に敷地外を占められていては、湊の方が落ちつかない。すでに天狐の神域の入り口も閉ざされていることでもある。
「それよりみなのもの、湊殿にごあいさつをなさいなのです」
ツムギもそう促してくれた。
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