25 これからよろしく
山のモノとはいったい誰のことをさすのか。
疑問に思う湊をよそに、田の神がのんびり告げた。
「では、いくよ」
湊は頭を切り替え、気を引き締めた。
田の神は得意分野だと告げた。土が出てきたのなら、それを使用するのだろう。
わずかに重心を落としたら、カカシの傍らの地面が盛り上がった。
見る間に形作られたのは、強大な人の手であった。
肘までせり上がったその影が、湊をすっぽり覆う。
予想外の形に一瞬固まったが、たちまち風の刃を放った。人差し指一本斬り飛ばすも、四指は無傷だ。その手が小虫を始末するかのごとく、湊がいた場所を拳で殴った。
得意というだけはある。その動作は風よりも疾く、威力も桁違いであった。だが――。
カカシの白面が横を向くのと、地面に湊が着地したのはほぼ同時であった。
土に片手をつき、低姿勢となった湊の頭髪と上着の裾が遅れてきた風圧でなびいた。
「へぇ、空を飛ぶんだ。――人の身でねぇ」
風の精たちのお節介が功を奏し、浮くことに慣れ始めた湊は自ら地面に風を放ち、跳躍できるようになっている。
とはいえ、まだ十メートル未満だ。跳ぶであって、飛ぶではなかろう。
「大した飛距離は出せませんけどねッ」
体勢を整え、矢継ぎ早に風の刃を繰り出した。
依然として刃は、鋭利かつ色も濃い。疲弊している様子もない。
日頃、高頻度で放棄神域に引き込まれては壊し、神木クスノキの木材を裁断し続け、さらにはスサノオに強制的に力を引き出された。
その積み重ねのおかげで最初の頃に比べ、神威を扱える時間は格段に延びている。
みじん切りにされた土の手がばらばらの土塊になって、地面に落ちてゆく。それを待たず、新たな巨人の手が地中からせり上がってきた。
それも、無数に。シワの多い老人の手、節くれ立つ男の手、線の細い女の手、紅葉と見紛う赤子の手。
四方から襲いくるそれらを湊は避け、
土の手を蹴りつけ、風の刃で応戦するもキリがない。
どれだけ斬っても所詮、土は土だ。決定打は与えられない。
どころか壊しても同じだけ、否、手の数が増えていく一方だ。
大本を叩かねばならぬ。
カカシは動いておらず、地上でやじろべえよろしくゆれている。余裕そうだ。
遊びだと、田の神は自ら告げた。
ならば、湊もそのつもりでいけばいい。神は必ず約定を守るというのなら、祟られることはあるまい。
湊はつかみかかってきた土の手をかいくぐり、地上へ向かう。巨大な指たちを踏み台にして移動しつつ、カカシを注視した。
御霊はどこだ。どこにある。
人の形を模しているなら、心臓か。それとも腹か。
――否、頭部であった。そこがわずかに光っていた。
迫る土の手の手首を風で斬り捨てたあと、湊の指先の蒼色が消える。
代わりに、その手のひらにじわりと明かりが灯った。
その天上に輝く
その手のひらをカカシにかざす。
放たれたのは、網であった。
六角形で編み上げられたそれは、魚を一挙に捕る
湊に貸し与えられたアマテラスのごく一部の力である、閉じ込める力。それは、物質だけではなく、目に見えぬ概念すらも対象物に封じることを可能とする。
ならば、田の神の御霊をカカシ自体に閉じ込めるのも可能ではないのか。
そう考えた湊は、初めて己の祓いの力以外、しかも神にその力を行使する。
大きく広がった網が、カカシに覆いかぶさった。
即座、湊の手が握りしめられる。網が急速に閉じ、カカシの頭部で収束。手のひらから長く伸びていた光の糸がぷつっと切れた。
直後、すべての土の手が制止した。
無数の手が崩壊し始める。湊が足場にしていた箇所もボロボロと崩れた。
「うわッ」
平屋の屋根よりはるか上、上空からその身が投げ出された。
さすがに無茶をしすぎていた。
アマテラスの力を引き出せるだけ出したのは、初になる。疲労感がとてつもない。その手から日輪は消えている。
もう風を放つ余力もなかった。
硬い土の上へ湊が真っ逆さまに落下していく。
両眼を閉ざしたその身が打ちつけられる寸前、土が水田に変わった。派手な水音とともに高い水柱が立つ。
泥はどこまでもやわらかくその身を受け止め、そのまま沈んでいくかに思われた。
が、一呼吸するまもなく引き上げられた。
水田の中に座った姿勢の湊の全身は、泥だらけだ。
ボタボタと髪先や服から泥を垂らし、理解が追いつかずに目を白黒させている。
その真正面に、とんと一本足が飛んできた。
「なかなか、驚かせてもらったよ」
湊が見上げると、青空を背にしたカカシが楽しげに笑っていた。もちろん声のみだ。顔面の文字は変わらない。
「まったくきいていないようですけど……」
「三秒間は閉じ込められたよ、この体にね」
たったそれだけかと思うも、できないことはないのだとも知れた。いい収穫であったともいえよう。
「今日は楽しかったよ。では、そろそろ――」
田の神がくるっと白面を家屋に向けると、玄関の引き戸が音もなく開いた。
ハンドバッグを手にした裏島が出てくる。まるで、ついさっき中に入ったような普通の調子だ。
田の神は、時間をいじるのが得意なのかもしれぬ。
思いつつ、湊は泥が入りかけた片目を閉ざした。
そんな泥人間を見た裏島がギョッと目をむいた。
「カ、カカシさん! 隣りにいるのは、まさか
聞き慣れぬ呼称に湊が疑問符を浮かべていると、田の神が教えてくれた。
「全身が泥でできた一つ目の爺さんの妖怪だ。口癖は『田を返せ』。近頃、とんと見かけなくなったね」
「――なるほど」
よろめきながら湊は立ち上がった。まっすぐ立ったその総身から瞬時に泥が消えていった。
水気もさっぱりなくなった両手を見た湊がカカシの横に立つ。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。遊んでくれてありがとう。またいつでも遊びにくるといい、うちにね」
カカシは白面をひねり、家屋へ向けた。
お断りするなぞできようはずもない。
生気の感じられぬ面持ちの湊が頷いた。
「――はい」
いきいきとした声のカカシが告げる。
「キミは山の神を山神さんと呼んでいるね。ワタシのことは
「これからよろしくお願いします。田神さん」
新たな
青空から数多の苗が降ってきた。湊とカカシがいる以外の水田に落ちていく。気温も上がり、やわらかな風も吹いた。
定規で引いたように並んだ苗は、すぐに背を伸ばし、あっという間に田植えが済んでしまった。
整列する緑の稲が春風に吹かれ、仲良く波打った。
◯
湊と裏島は、ともに神域を出た。
外界の景観は、入る直前と何も変化がないように見えた。
暮れゆく街道も、地平線に太陽が隠れようとしているところも、やや湿気が勝る気温も変わらない。
むろん、山神も。路傍に堂々たる大狼が鎮座していた。
ただ、その鼻に引っ掛けた紙袋はない。
もしやと考えた湊は、固い声で問うた。
「――山神さん。……俺が入ってからどれくらい経った? 今、いつ?」
隣の裏島が息を飲んだ。その目には、数歩先の大狼は映っていない。
けれども、湊と田の神との会話を聞いていたため、察していた。
己の一族が所有する山に御座すと代々言い伝えられてきた
「お主が入ってから一分も経っておらぬ」
湊を見上げながら、山神は平坦な声で伝えた。
そう聞いても、喜びを表すこともなく、湊は目を伏せた。
「そっか……」
彼にとっては朗報だが、裏島にとってはどのみち今は四年先の未来になる。その事実を彼女に伝えるのに、気の重さを感じていた。
◯
それから、湊は裏島を家まで送っていった。
待ち侘びていた家族たちに大いに感謝され、これ幸いとばかりに御山の整備を申し出た。
かくして、あっけなく許可は取れた。
裏島家曰く。御山が荒れるまま放置していたのは、金の工面がつかなかったからだという。
山の整備は、一度行ったらそれで済むわけではない。
逞しき自然の草木たちとの終わりなき戦いとなる。
相当な金額を必要とし、かつ手間もかかるのはわかりきっている。
むしろ申し訳ないと、逆に謝罪されてしまったのであった。
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