13 常春の神庭
――ちりりん。
軒下の風鈴が涼しげな音を奏でた。
世間ではうだる暑さが続いているのとは裏腹に、楠木邸の縁側では、絶え間なく心地いい風が吹き、春の陽気に包まれている。
座卓に向かいメモ帳に文字を綴る湊は、至って通常通り。とりわけ暑さを感じている様子もなく、居心地よさそうだ。
不快な虫一匹すら見当たらない、快適な楠木邸の庭。
虫に悩まされたのは最初の頃だけだった。
本来ならあり得ないことだ。山裾に近い立地は、虫との共存を強いられる場所である。
それはむろん、山神の神力によるものだ。
反面、家の中は蒸し風呂のごとし。
大変ありがたい、と湊もほぼ庭にいる。何より電気代が浮いて助かっており、夜も縁側で寝てしまうことも多かった。
今日も今日とて、縁側の中央を山神が占領している。
くわり、と大あくびし、斜め前の座卓で書き物に勤しむ横顔を眺めやる。
「精が出るではないか」
「まぁ、それなりに」
最初のうちは、意識しながら集中して書くと、ほんの数枚程度で眠気、倦怠感を感じていた。
しかし今では、コツをつかんできて、倍以上の枚数を書けるようになっていた。
「風の強弱つける練習しているうちに、祓いの力の流し方もわかってきたんだよ。だから結構楽しい」
「どのような学びであれ無駄になることなど、何一つとしてないものだ」
「だよな。肝心の風力のコントロールは微妙だけど」
苦笑する湊であったものの、淀みなく動くペン先からは均等に祓いの力が流れていく様子が、山神の視界には映っていた。
細く、長く、無駄なく。強靭な翡翠色の糸のように。
座布団上に正座し、背筋を伸ばして心を静め、淡々と文字を書き連ねていく姿はなかなか堂に入っており、修行僧に通じるものがある。
ある種、神聖ささえ漂う。
書くのは相も変わらず和菓子名、煩悩まみれではあるけれども。
湊の祓いの力が短期間の内にここまで安定したのは、常に神の息吹きを感じているところが一番大きい。
神の化生が黄金の眼を細めた。
以前は、文字に含まれている稀有な祓いの力の量が多かったり、少なかったり、と大層無駄が多かった。
ムラ気の多い湊の気分次第で込められる力に偏りがあったようだ。
よほど強い悪霊の穢れはうっすら視える湊だが、自らの能力を視ることや感じることはできない。
人の五感による知覚の割合は視覚が八割を占める。
その最大知覚に頼れない非凡な力をコントロールするのは至難の業である。
ゆえに視覚でわかりやすく調整しやすい風の力は、いい取っ掛かりになったのだろう。
雷神の力を借りていたなら、今のように遊び感覚で気軽には扱えはしなかったに違いない。
下手すれば命に関わる危険な力だ。
風の力も鍛錬次第では恐ろしく強大な力となりうるが、今のところ、髪を乾かす程度にしか遣われていない。
新たに野菜の水切りに挑戦し始めたという。
かくも平和である。
昔から食えない風神は何を知り、どこまで見越していたのか。
ふと息を吐き、同じく曲者の山神は重ねた前足に顎を乗せ、瞼を伏せた。
――ちりん。
形だけでも夏を感じるべく取り付けられた風鈴が、涼やかな音を立てて、丸いガラスに描かれた朱色の金魚たちが軽快に回った。
ほどよく冷えた神水を湛える御池では、心地よさげに泳ぐ霊亀から扇状に水紋が広がっていく。
しばし、ゆっくりとした穏やかな時が流れた。
「よし、今日のところはこれで終わり」
ぱたんとメモ帳を閉じて、上に乗せたままの手の甲を見つめ「護符がメモ帳って、どうよ」と湊は今更ながら気づく。
ごろりと寝転がった山神が、横倒しの体勢で湊を見やる。
「なんぞ問題でもあるか」
「薄くない?」
「紙の厚さは関係ない。筆の種類は関係あるようだがな」
様々なペンを試した結果、鉛筆やシャープペンシルには力を込めづらく、あまり祓いの力が入っていなかった。
もし力が込められたのなら、学生時、提出した紙に書いた字が消えていた可能性もある。
むしろ力が入らなくてよかったと、湊は胸を撫で下ろしていた。
「大事なのはお主の気持ちだと、再三申したであろう」
「そうだけどさ、他人様に買ってもらう物で、しかも商売道具になる物だろ」
よいせと仰向けになり、横目で問いかけてくる山神に、説明していく。
「陰陽師がどうやって悪霊を祓ってるのか知らないけど、たぶん護符を投げたり、じかに張りつけたりするんだと思う」
前足を振って先を促せば、真顔でメモ帳を振る。
「このペラッペラのメモ紙で、ちゃんと役目を果たせるものかな」
「投げるのは……難しかろうなあ」
「だよね。俺もこの前、自分で使った時、投げるのはどうかと思って上から降らせたんだ。播磨さんって俺が書いたメモ紙があるだけでありがたいって感じだから、実は不満だけど遠慮して文句言いたくても言えないとか……」
「それはなかろう。あの男、結構我が強いぞ」
「そうかな……。基本的に所作が綺麗で、いかにも育ちのよさそうな人だし。いつも高そうなスーツ着て、ブランド物の革財布に安物のメモ紙、大切そうに入、れて……」
団扇代わりに振っていたメモ帳を止め、がばりと顔を上げる。
「そうだ、名刺だ。名刺に書けばいい!」
「うむ。よいのではないか」
「投げやすそうだし、これで格好もつくだろ。名刺ぶん投げる陰陽師って、おもし、いや、カッコイイよ、うん。明日、白紙のやつ買いにいこ」
若干にやけて立ち上がりかけたその時、腹這いの体勢に戻った山神が塀を見やった。
「間に合わんかったようだな」
玄関チャイムが軽やかに鳴る。この家を訪れる者は限られており、十中八九、気前のいい陰陽師だろう。
「……まだ、前回から一週間も経ってないのに」
訝しげな顔をしつつ、縁側下のサンダルに足を入れた。
見目も手触りもいい上質な和紙に包まれ、金の紐で結ばれた手土産。
卓上に乗る煌めく角ばった箱を、山神が真上から焦がしそうなほど凝視する。
その眼は瞳孔が開ききっていた。
山神が深呼吸し、鼻孔いっぱいにほのかな匂いを吸い込み、小豆の香りを察知する。黄金の瞳に一筋の流星が走った。
どれほど厳重に密封包装されていようとも、神たる獣の優秀な嗅覚は造作もなく好物の香りを嗅ぎ分ける。
安物ではない高級小豆の香りを、断じて違えることはない。
加えて、ほんのり混ざる抹茶香。
時期的に中身は、水羊羹であろう。間違いない。
深く、深く、首肯した。
その間、傍らの正座した湊の脚上に置かれている拳が震える。
深みのある神の声が、重々しく宣う。
「大儀である。よきにはからえ」
播磨にメモ紙護符を渡しかけていた湊の腕がブレる。歯を食い縛り、込み上げてくる笑いの発作を喉奥で耐えたのだろう、頬と首に力が入るのが見て取れた。
毎回、当たり前の顔をして座卓の一角を陣取る山神を播磨は気づいていないと、湊は思っている。
ゆえに山神の何者にも配慮しない大きな独り言が聞こえても、澄ました顔で対応を心がけていた。
山神が播磨を見やる。
生真面目な顔つきでメモ紙を両手で恭しく受け取ると肩の力を抜き、同時に張り詰めていた気配も和らいでいく。
播磨は気づいている。
明確には視認できておらずとも、神という異質な存在がすぐ傍にいて、自らをつぶさに観察していることを。
今回の供物はお気に召していただけたのか。神の不興を買ってはいまいか。
常に全神経を尖らせ、神の機微を何一つ取りこぼすまいと気の毒なほど緊張していた。
山神が喜んだのを感じ取り、ようやく気が緩んだようだ。山神が愉快げに尻尾をゆらめかせた。
「なにも噛みつきなどせんというのに。我、山神ぞ」
「ッ! きょ、今日は涼しいですね」
「……そうだな」
外は猛暑、いや酷暑である。
身体中の水分が蒸発しかねない灼熱の真夏日だ。
とうの昔に不快指数のメーターは振り切れているが、噴き出しかけた湊は家からでなければ気づくまい。
ゆらめく蜃気楼が立ち上るアスファルトを、汗だくで歩いてきた播磨がこっそり額の汗をハンカチで拭った。
話を合わせた陰陽師は、ここが
わざわざ好き好んで幾度も通ってくるなど、ほんに豪胆な男よ、と山神は喉を震わせた。
山神が本来の力を取り戻すにつれ、庭は徐々に現世から切り離されていった。
少し前まで現世の天候と合わせていたが、今は完全に異なっている。
湊はいつも洗濯物を外に干せていい、と喜んでいた。
だが雨が降らないため、庭木に水撒き必須となり、毎日、御池から神水をじょうろに汲んで撒いている。
――ちりん。
麗らかな春の庭に吹き抜ける風が風鈴を戯れるように鳴らす。
「では、失礼する」
「あ、播磨さん」
呼びかければ席を立ち上がりかけた播磨が、再び腰を下ろす。
ポケットから油性ペンを取り出して握り、湊が手のひらを差し出す。
「お手をどうぞ」
「……なにか違わないか」
「そうですか? いつも土産もらってるので、サービスということで、どうぞ」
手を取り、書こうとした湊を「待ってくれ」といやに鬼気迫る勢いで止めてくる。
絶対に譲れないという強固な意志が感じられ、山神が面白そうに、ふすっと鼻息をもらした。
眼鏡越しでも劣らない眼力の強さが、少し怖い。
「できれば格子紋を書いてほしい」
「星印、嫌でした?」
「いや、その」と口ごもるあいだ、大人しく待つ。
なぜか次第に播磨の気配が荒んだものになっていき、覇気のない声で告げる。
「五芒星、晴明桔梗紋は、うちの家紋ではないんだ」
「あれ、家紋なんですか。すみません、知らなかったです。他所のお宅の紋はまずいですよね。じゃあ、本数は?」
「横線五本、縦線四本」
頷いた湊の気配が変わる。
両目から光が消えていた播磨が、伏せていた瞼を上げた。
その視界に入ったのは、先ほどまでの呑気者とはまったく異なる別人かと見紛う姿。
極限まで研ぎ澄まされた凛とした空気をまとう姿だった。
息を呑んだ播磨の眼前で、一本、また一本。
ゆっくりと丁寧に線が引かれる度、祓いの力が、強く、強く込められていく。
幾本かの線が入った手の指先が、かすかに戦慄く。
そのブレすらも気にせず湊は、粛々と書き続けた。
見守る山神が愉しげに耳を動かす。
御池の岩の上から甲羅干し中の霊亀も、ちろっと片眼を開いて縁側を窺う。
風と戯れていたクスノキも喜ぶように枝葉をゆらした。
「はい、終わりました」
湊の声に、清廉な雰囲気に呑まれていた播磨が我に返り、瞬く。
「どうですかね」
手の甲に記された歪みもない格子紋から放たれる翡翠色の光。
まばゆい輝きのそれは前回の晴明桔梗紋より、格段に祓いの力が強い。
気圧された播磨の喉が大きく上下した。
満足の出来に上機嫌な湊から疲れた様子は見受けられない。
眠そうだった以前とは違うことに訝しそうにしながらも「ああ。あ、りがとう」と辛うじて礼を述べた。
ペンのキャップを閉めていた湊が「あ、そうだ」と呟き、播磨へと視線を向ける。
「次から名刺に字を書こうと思っているんですけど。どうしますか、メモ紙のほうがよければ、そのま――」
「名刺、名刺がいい。なにがなんでも是が非でも名刺で頼む」
「あ、はい」
食い気味の早口、さらには念押し。
しかも少しばかり身を乗り出して。
やはりペラペラメモ紙では使い勝手が悪かったようだ。
わずかに身を引いた湊がさりげなく山神を見やれば、顔を伏せて尻尾を床に叩きつけ、声を押し殺して笑っていた。
◇
楠木邸の表門が閉ざされると、神威の気配がピタリと消える。
途端、頭上から蝉の大合唱が降り注ぐ。
むわりと全身を包む暑気と湿気。一気に体温が上昇し、汗が吹き出す。
不快なはずのその感覚が、今は心地よかった。
播磨が門へと向かい折り目正しく深く一礼する。
顔を上げて上着から取り出した革手袋をつければ、格子紋から放たれていた翡翠色の光が消える。暑いが仕方のない処置だ。
深々と息をつき、踵を返した。
ざくざくと砂利と靴底が擦れる音を鳴らし、楠木邸から離れていく。スマホを操作し、耳に当てた。
「お疲れ様です。はい、今からすぐそちらに向かいます」
端的に用件のみ告げて通話を切る。
上着のポケットに戻す所作が、少しぞんざいになったのは、全身から流れ落ちる鬱陶しい汗のせいばかりではない。
田んぼの畦道をのろのろと歩き去っていく足取りは大層重々しい。
いつも伸ばされている背筋が、いやに曲がっていた。
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