19 目指せ空飛ぶハンカチ





「そろそろいいか?」


 トリカが訊くや、神霊が頷く。

 トリカが下方を見やると、ニホンモモンガ先生は木立に紛れて去っていった。


 エゾモモンガが身動きすると、すかさず差し出された湊の手に跳び乗り、地面に下りた。

 ちゃっちゃと俊敏に駆け、一本の木の根元で止まった。その幹は、湊にとって己の胴体とさほど変わず、大きいとは思えない。

 けれども小粒のエゾモモンガにしてみれば、視界を埋めるほどの大木であろう。

 エゾモモンガは木登りも未経験だ。


「いつも石灯籠を登ってるから、木もイケるよね?」


 湊に訊かれ、トリカは頷く。


「ああ、たぶんな。むしろ木の方が爪を立てられるから、登りやすいだろう」


 ふたりが見つめる先で、エゾモモンガが登り出した。スルスルと危なげなく幹を伝って枝へと移り、止まった。

 目の上に手をかざした湊は、不可解そうな表情を浮かべる。


「あそこ、ニホンモモンガ先生が飛んだ位置より高いよね」

「だな。だが問題はないだろう。前方に邪魔になりそうな枝葉もないしな」


 ところが、枝上にいるエゾモモンガはまったく動かない。

 その間、遠くから近くからさまざまな野鳥のさえずりが聞こえてくる。

 湊は自ずと耳をすませていた。鳳凰のおかげで鳥と縁付き、姿を見るまでもなく鳴き声のみで種を判別できるようになっている。

 ヤマガラ、サンショウクイ、そしてホオジロであろう。


 みんな元気で何よりと思っていれば、突然、耳慣れない鳴き声が頭上から降ってきた。

 視線を上げた湊の顔が驚きに染まる。くちばしも体も赤い鳥であった。


「あの鳥、アカショウビンだよね。珍しい」


 トリカも見上げてその鳥を見た。火の鳥なる異名を持つ希少種である。


「ん? ああ、あいつは最近うちにやってきたんだ」

「実はここに登ってくる時にも、ヤマネを見かけたんだよね。ここは珍しい動物が多いよね」


 ヤマネは、げっ歯類のネズミに似た希少動物のことである。


「理由は想像がつくんじゃないか」

「自分たちの長の近くに住みたいから、かな」

「御名答。健気だよな」


 軽く笑ったトリカは、ふたたびエゾモモンガの方へと視線を戻す。やや顔を曇らせた。


「そうか、神霊はあそこまで高い位置に登ったのもはじめてになるな……」

「まさか、身がすくんでるとか? たまに野生動物でもあるよね」

「ああ、わかる気がする。登ってる時は下を見ないからな。足を止めて振り返れば、ずいぶん高い位置まで上がってたんだなと思う時が我でもある。――お、神霊が動いたぞ」


 彼らの心配をよそに、跳んだエゾモモンガが手足を大きく伸ばした。


「うーん、被膜を広げるのがやや早かったような――」

「マズいぞ」


 湊の判定がトリカの鋭い声で遮られた。


「なにが?」

「神霊、眼を開けていない」

「なっ、無謀すぎる!」


 下方からその眼が見えるはずもないが、まっすぐ飛べていないのは知れた。そのうえ、バタつくように傾くのは、風にうまく乗れていないのであろう。

 だが見上げるトリカはその場から動かない。


「とりあえず最後まで見届けよう。最初からうまくいかないのなんて当たり前だからな」

「そうだけど――」


 湊は風を繰り出したい気持ちを抑えるべく、両手を握りしめる。それを一瞥したトリカはやわらかな声で告げた。


「心配はいらない。我らの身は頑丈だから木に激突しようが、高所から落ちて地面に叩きつけられようが、怪我や骨折はしないぞ」

「でも、痛いんだよね」

「それは、まぁ――それなりに」


 正直なトリカはやや眼を逸らした。


 折しもその時、エゾモモンガが樹冠に突っ込んだ。大きくはね返され、丸まった体が落下していく。

 突如不自然な突風が吹き、くるりとその身を包み込んだ。

 ふわふわとゆるやかに降下していく中、エゾモモンガの閉ざされていた両眼が開いた。その視界に、こちらへ指先を向けている湊が映った。

 やはり我慢できず、風を放っていた。

 傍らにいるトリカがため息をつく。


「過保護だな、湊は……」

「そうかな。これぐらいいいでしょ。自転車も最初は補助輪をつけて練習するしね」

「痛い思いをするからこそ、次は失敗せぬと意気込むものであろうに」


 突然低い声が山間に響き、湊の肩が跳ねた。


「山神さん」


 肩越しに振り返った湊は、バツが悪そうだ。

 白い毛をなびかせ、大狼が優雅な足取りで山道をくだってくる。その間も湊は風を操り、エゾモモンガを丁寧に地面に下ろしていた。

 ててて、と駆け寄ってくるエゾモモンガを見やった山神は、湊の正面で止まった。


「甘やかすのはあやつのためにならぬぞ」

「わかってるけど、つい――」


 小さな体に、似合いの非力さ。どうしても庇護欲を掻き立てられるせいだ。助けることのできる風の力を持っているだけに、余計手が出るというのもあった。

 後ろ首を掻く湊のかかとに神霊がしがみついた。


「助けてもらったことに感謝しておる。だが、次は助けなくてよいと云うておるぞ」


 山神に代弁され、湊は視線を落とす。見上げてくる神霊は表情豊かとは言いがたい。しかし気配から、やる気を漲らせているのを感じ取った。


「わかった。もう手は出さないよ」


 両手を挙げて降参のポーズをとると、神霊が離れた。見る間に斜面を駆け上がり、幹を登っていく。


「あれだけでも結構すごいことだよね。もし俺が突然エゾモモンガの体になったら、ああも潔く木に登って、飛べはしないと思う」

「うむ、そうかもしれぬな。あやつはやや無鉄砲のようぞ」


 山神の言葉を聞いて湊は納得する。


「そうだね。真っ先にニホンモモンガ先生よりも高い位置から挑戦するあたり、察するべきだった」




 噂の神霊は果たして、無事空飛ぶハンカチとなれるのか。

 枝をつかむエゾモモンガは、下界を見下ろした。

 こちらを見上げる湊たちが、己と同じような小さきモノに見える。十数メートルも高い位置にくれば、世界はまったく違うように感じられるのも不思議だ。


 それはいいとして、高い。

 鋭く息を引き、身をすくませて小刻みに震え出した。

 生理的なものだ。無理からぬことだろう。


 だが、慣れなければならない。

 そうでなければ、いつまで経っても滑空なぞできはしない。

 神霊は枝を握りしめ、無理やり震えを抑え込んだ。

 挫けそうになっている場合ではないだろう。幾度も幾度も思ったではないか。

 暗く狭い剣の中に閉じ込められている時に。

 ここを出て、歩きたい、走りたい、そして飛べるなら空も飛んでみたいと。

 そのすべてが叶う身を与えてもらったのだ。ようやく思い通りに振る舞えるのだ。活用してしかるべきだ。


 神霊は遠くを見た。

 青い空に白い直線の線が引かれている。あれは自然に生じたモノではなく、人工的な飛行機雲なのだと湊に教えてもらった。それを作り出した飛行機は、鳥に似た鉄の塊だというのも聞いたうえ、飛ぶ姿も見た。


 高空を突っ切るように飛翔するそれらには、到底及ばないだろう。鳥のごとく翼もないから、どこへでも自由に羽ばたいていけるわけでもない。

 しかしエゾモモンガの体は、滑空できる。

 地を駆けるよりも早く、目的の場所へと到達できると思うだけで心が躍る。何より以前の人の形に比べ、断然使い勝手がよいのも気に入っている。


 ただ一つだけ不満はあった。

 大狼の山神やテンの眷属たちより、はるかに小さいことだ。そのせいで湊に、過剰に心配されてしまうのだろう。

 けれども誰にも見向きもされず、永く孤独な時を過ごした神霊にとって、それはうれしいことでもあった。心配されるということは、それだけ己が気にかけてもらえている証なのだから。


 さておき、そろそろ覚悟を決めなければならない。

 下界の誰もが声をかけてくるわけでも、態度で急かしてくるわけでもない。ただ静かに待っている。

 心配げなオリーブ色の目で、優しい黒眼で、眠そうな金眼で見守ってくれている。


 ――それに応えたい。


 エゾモモンガの小さな足が枝を蹴った。

 被膜を広げて、眼は閉じない。無理やりこじ開けながらも、眼下は見ない。ただ前だけを見るようにした。

 ふいに追い風が吹く。その風は、湊のやわらかな風とは異なっていた。

 自然の風に乗って後方から飛んできた風の精が、横に並ぶ。


『いいゾ、いいゾ』


 横手からもう一体現れ、反対側を飛ぶ。


『じょーず、ジョーズ』


 きゃらきゃらと笑いながら声援を送ってくれた。無理な風を送ってこようとはせず、自然の風とともに飛んでくれている。

 楽しそうな彼らは心強い味方であった。

 神霊も楽しもうと思った。怖がってばかりでは、もったいないではないか。念願の空を飛べているというのに。

 風に乗ればいい。ただ流れに身を任せればいい。


 その滑空する様子は安定していた。地上から見上げるトリカが口を開いた。


「今度は、しかと眼を開けているぞ」

「よかった。あれぞまさに空飛ぶハンカチだね」


 湊は喜色満面になっているが、山神は眼を眇めた。


「うむ。だが、まだ風の流れは読めぬようぞ」

「厳しすぎる。まだ二回目なんだけど」


 下方を向いて湊が意見していると、トリカが背筋を立て、首を伸ばした。


「そろそろ、木に着くぞ」


 最大の難所が迫っていたようだ。

 はっと湊が顔を上げた時、エゾモモンガの高度はかなり下がっていた。その前方に幹があり、位置取りはなかなかいいように見えた。

 拳を握って過剰に力む湊に見守られる中、エゾモモンガはビタンッと音高く幹に張り付いた。

 遠目からでは上出来に見えた。


「やった!」


 湊が歓声をあげる一方、トリカと山神は微妙な顔をしている。


「――だな。幹に到達したのはよかったな。顔面を強打したが」

「えっ⁉」

「うむ。それでも幹に張り付き続ける根性も買おう。ちと泣いておるが」


 湊が猛然と斜面を駆け下りていった。



 それからエゾモモンガは、半泣きながらも練習を続けた。

 回数を重ねるたびに上達していく様子を、梢の隙間から烏天狗からすてんぐが、木立の陰から山姥やまんばが、茂みの中からヤマアラシがのぞいている。

 そのうえ、彼ら妖怪を束ねる古狸も大木の枝の又に座って見学していた。


 そのどんぐり眼が湊の背中へと向いた。

 じっと見つめていると、振り向いた湊と視線が合うや、姿をくらませる。

 別の木へと場所を移し、同じようにしばし凝視していれば、また湊が振り仰ぐ。

 その表情は呆れているようだが、古狸は笑い顔だ。


「やつがれに気づくのが早くなってきたな。上等、上等。フヒヒッ」


 そのつぶやきと含み笑いを耳にしたのは、足場にした木の洞に住まうアオゲラキツツキだけであった。


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