第2章

1 日常風景と非日常風景


 ビール缶をつかんだ右手が熱い。

 コンビニエンスストアの冷蔵庫前で、腕を伸ばした状態のみなとは動きを止めた。

 ひんやりと冷たさを感じる手のひらと裏腹に、手の甲に熱い温度を伴う視線を感じる。


 強い期待のこもったそれには、心当たりがある。ありすぎた。


 うっすらと口角を上げ、意地悪そうに笑う。

 さりげなく麒麟キリンの絵姿入りの缶を手放す。


 そして隣のビール缶に触れた。

 それには、かの有名な、えびす顔のふくよかな男神おがみが描かれている。


 途端、手の甲が痛むほどの視線が突き刺さった。


『違います、違います、そちらではありませんよ! 最初のほうですっ』


 麒麟の激しい主張が脳内で自動的に再生された。

 麒麟の弁は山神がよく通訳してくれるおかげで、想像は容易い。


 わざと遊んだ湊は吹き出しかけ、すんでで抑えた。

 一人で買い物中に、声を出して笑うわけにはいかないだろう。

 たとえ、がらんとした店内に、棚に品出し中の店員だけしかいないとしても。


 若干にやつきながら、もともと買う予定だったいつもの・・・・ビール缶を買い物カゴに入れ、レジへと向かう。

 途中、ガラス窓を見やると、店外からへばりついた麒麟が満足気にうなずいていた。

 


 楠木邸は、そこそこ辺鄙へんぴな場所に位置している。

 周辺に民家もなければ、当然ながらよろず屋すらない。


 しかし、最近わりあい近場に、コンビニが建った。

 バス停の間近でもあるその店は、やや離れた商店街へと赴くためバスを利用する湊は重宝している。帰りしなに重い物、おおむね酒類を購入することが多い。


 今日も、出かけていた麒麟が戻ってくるかもしれないと、最後にビールを買おうとしたところだった。


 レジカウンター向こう、にこやかに笑顔を浮かべた店員が、すっとクジ箱の間口を向けてきた。


「只今、ビールを買うとクジが引けるキャンペーン中です」

「……はい」


 お約束である。

 無表情の湊がそこに手を入れた。何も考えず、ただ一番上にあった紙を抜き取る。しばしクジを眺め、硬貨で削った。


 むろん、一等。大当たりだった。

 一番いい物が当たるのがわかりきっているクジというのも味気ないものだ。

 一等賞品を受け取る湊は近頃とみに思っている。

 


 無事買い物を済ませ、店を出る。すると二匹の猫が並んで待ち構えていた。

 やや痩せ気味な成猫たちは顔つきが鋭く、野良猫特有の雰囲気を醸し出している。


 頬に縦傷の入ったぶち猫が、ずいっと鼻でちくわを押しやってくる。もう一匹の茶トラも同じく、魚の切り身を前足で転がしてきた。


 前足をきっちりそろえ、見上げてくる二匹は物言いたげだが、その内容はわからない。


『どうぞ、お食べなせぇ』


 だが、おそらくそう告げているのだと態度で想像はついた。

 この食べ物を差し出してくる行為は『うちのおさが大変お世話になっております。どうぞこちらをお受け取りください』という四霊しれいを長とする動物たちからお礼の意である。


「……ありがとう。気持ちだけうれしいので、それはキミたちで食べていいよ」


 外に出かけた際、必ず動物たちが食べ物をくれようとするのは、ここ最近の悩みでもあった。


 毎回、非常に対応にきゅうしている。

 厳しい自然環境でなお、逞しく生きているであろう野生動物から、なけなしの食べ物を分けてもらうなどできるはずもない。


 ゴミ箱などから漁ってきた食べ欠けを差し出されても、受け取りたくないのが本音だけれども。


『うちの長が世話になっとるからな。さあさあ、一思いに食べてくれ! 遠慮はいらん! 掘り出し物だ! くぅッ……』

「いえ、ほんとに無理しないで。本当は自分で食べたいんだろ」

『これはな、なっかなか手に入らねぇ逸品なんだ。うんめぇから食べてみろって! ぜひに! すぐに! じゃねぇと、俺が、俺がっ』

「あの、ほんっとうに! お気持ちだけで十分なんで! 俺はお腹空いてないから食べていいよ!」


 胸の前で両手をかざし、しどろもどろの湊と押しの強い野良猫たち。二匹はできるだけ食べ物から眼を逸らしていて、食べたくてたまらない気持ちが透けて見えていた。


 そんな押し問答が続くあいだ、彼ら、毛の生えた獣の長といえば――。


『今宵もビール。わたくしめのためのビールで、カ・ン・パ・イ』


 駐車場所狭し、とスキップで駆け回っていた。

 しかも妖しく高らかに笑いながら。

 到底助けは期待できそうにない。

 湊は、深くため息を吐いた。

 


 どうにかこうにか野良猫たちの説得に成功し、帰路についた。最初から最後まで、店員に微笑ましげに眺められていたのは、いたたまれなかった。


 高くそびえる山を背景に、田んぼに挟まれた道がゆるやかに続いている。

 そこを両手に荷物を携えた湊が歩む。その後ろ、一定の距離をあけ、麒麟が跳ねるような足取りでついていく。


 自由奔放、放浪のきらいのある麒麟は時折、出かけ先にふらりと現れたあと、帰宅をともにしていた。


 早春を迎えた今日この頃。日差しは控え気味で、髪を撫でていく風も冷たさを孕んでいる。


 しかし前方の山神やまがみ御神体ごしんたいである山は、所々に咲く山桜が彩りを添えており、確実に春はやってきているのだと実感できた。


 歩きは不便だ。

 されど四季の移ろいを五感で感じられるのは、何事にも代えがたい喜びがあるものだ。


 しばらく山を眺めたあと、視線を足元に落とした。

 排水溝から上がってきたらしきカニや子亀から見上げられている。


「キミたちの長は元気にしてるよ」


 声をかけると、カニが片方の大きな鋏を上下させた。

 さまざまな動物たちと行き合い、あいさつされるのも、また楽しくはあった。

 



 楠木邸へとつながるあぜ道に入る前、道路脇に祠がある。

 中には網代笠をかぶり、赤い前掛けをした地蔵がある。その手前には、花が供えられていた。


 見かけるたび、四季折々の花が生けられている。

 今日は赤いアネモネ。

 開いた花弁のみずみずしさ、透明な水をたたえたガラスのコップ。

 その周囲についた水滴。


 いずれを鑑みても、置かれてからさほど時間は経っていないのは明らかだ。


 いつも誰が供えているのだろう。

 そう思った時――。


「ギィョエエエエーーッ!!」


 背後から恐ろしい奇声があがった。


「は!?」


 湊が慌てて立ち止まる。

 なんと、あと一歩で地蔵に当たる位置まで近づいていた。


「えっ、なんで……?」


 数歩下がり、振り返る。

 そこには、毛を逆立て、激しく尾を振る麒麟がいた。

 怒っているというより、最大限に警戒しているようだ。


「今の声って……」


 紛れもなく麒麟であろう。

 初めて聞いたが、風雅な見目にそぐわぬ凄まじいダミ声だった。

 意図せず地蔵に近寄りすぎていたことよりも、そちらのほうがはるかに驚いた。


 グイグイと立派な角でふくらはぎを押してくる。


「なに? わかったわかった。いくよ、いくから」


 麒麟によって無理やりその場から離されてしまった。

 



 あぜ道を抜けると砂利道へと変わり、その先は数寄屋門が威風堂々と構えている。


 白い塀に囲まれた黒い外観の家。

 敷地の外周を大きなクスノキが囲っており、山の一部に取り込まれているように見える。

 まるで共生しているかのように自然にそこにある。


 一応、現『楠木邸』であるこの家は、いまだ未完成だ。


 ゆえに家までの道が砂利のままとなっている。

 いつの日かここを購入した者により、門の前には舗装された道が通るだろう。


「……いや、きっと石畳のほうが似合うだろうな」


 その様相を思い描きつつ門まで向かう。


 その最中、ザクザクと鳴る小気味よい音は一人分だけしかしない。麒麟の足音はないが気配だけはついてきている。いつものことだ。

 気配も完全になくそうと思えば、できるらしいが、わざと湊にわかるよう出しているらしい。


 さすが霊妙な獣なだけはあるなと感心している。


 そんな響く一人分の足音に、奇妙な声が交じり始めた。


 ――ホケッ、ほげっ。

 ――ほー、ほー、へ、きょっ。


 うぐいすのぐぜり鳴きである。


 その美しき鳴き声で春の訪れを教えてくれる春告げ鳥として名高い、うぐいす。

 彼らは、最初から『ホーホケキョッ』と綺麗に鳴けるわけではない。早春から練習を重ね、次第にうまく鳴けるようになっていくものだ。


 その鳴き声で異性の心を射止めるために、オスのうぐいすたちは今日も練習に励んでいる。


 ――ホケッ? ホゲー……?

 ――ほぅ、けー、けっきょ!


「……少しうまくなってきた……ような……?」


 わずかに上達してきた頑張り具合を聞きながら、表門の格子戸を開けた。

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