36 にぎやかな青空教室


 敷地内に足を踏み入れた瞬間、すっと身が引き締まる清らかな空気に包まれた。

 それは世の中と同じ春の陽気をたたえている。


 けれども世間から隔絶された非日常の気配がする。

 それを心地よいと感じるか、居心地が悪いと感じるか。それは個人によるだろう。


 むろん前者の湊は、ああ、帰ってきたなとも思うようになった。


 そのまま家の中には入らず、幅の狭い家の脇を通り抜けると、一気に視界が開けた。

 広々とした緑一色の庭。外周にほどよく落葉樹が植栽され、芝生が地面を覆っている。


 この庭は、桜の開花がようやく始まった巷より、少し進んだ五月頃、木々が一番緑鮮やかな時期を維持する。

 ひょうたん型の池、その池に架かる太鼓橋、二基の石灯籠。

 中央にそびえるクスノキが一際目を引く、一見普通の日本庭園の様相を示している。


 だがしかし、御池おいけにせり出す大岩の上で、全身イエローパールの亀――霊亀レイキが甲羅干し中で、そのそばをブルーパールの蝙蝠コウモリの羽を持つ龍――応龍オウリュウがゆるく身をくねらせながら泳いでいった。


 クスノキの先には、白く湯気立つ温泉があり、黄金の煌めきを放っている。

 よそではまずもってお目にかかれない、神の庭である。

 湊の姿が庭に現れた途端、クスノキが葉枝をざわつかせた。


「ただいま」


 一度大きく震えたクスノキを見納め、縁側へと足を向ける。

 

 そこには、最も異質な存在がいる。

 

 己が定位置と定めた中央、紫の座布団上に寝そべる真白の大狼。目にも眩しい白からさらに金色こんじきの光を放っていた。


 近づけば近づくほど、森林の香りが増していく。

 山神からするこの香りを嗅ぐと多少の疲れは吹き飛んでしまう。

 家に帰れば、森林浴ができるなど、まことに贅沢な環境だとつくづく思う。


 山神は組んだ前足に顎を乗せ、目を閉じている。

 その両眼がうっすら開いていく。さすれば、琥珀こはくのごとき黄金の瞳が露になった。


「うむ、戻ったか」

「ただいま、山神さん」


 本来なら、お隣の山の神――いわば隣神りんじんに帰りのあいさつをするのはおかしなものだ。


 しかし、ここ楠木邸では当たり前に行われている。

 それだけこの隣神が居座っている証左である。


 とはいえ、おかげで、この家の管理人として雇われ、一人寂しく過ごさなければならなかったであろう事態を避けられている。

 おかえりとあたたかく迎えてくれる存在がいるというのは、単純にうれしいものだ。

 

 湊が靴を脱ぎ、縁側に上がる。

 麒麟がどこに持っていたのか、南国果物をころりと縁側に転がした。

 異国に赴いた際は、必ず土産を持ち帰ってきてくれる。意外にマメな性格をしている。


「ありがとう、麒麟さん」


 麒麟は合成獣のため、そのままの名で呼んでいた。

 一度、最初に似ていると思った『鹿さん』呼びしたら睨まれてしまったからだ。


「山神さん、新しくできた和菓子店から、いちご大福買ってきたよ。あえていうまでもないだろうけど」


 先ほどから山神の尾は振られっぱなしだ。


「相変わらず、お鼻がよろしいことで」

「我、山神……狼ゆえ」


 のそりと身を起こした山神は、あまりに神々しい。

 この異質ながらも美しい神の庭に君臨するにふさわしい。

 思わず湊は両目を細めた。


 ここは、神の憩いの場であり、神域でもある。


 人間である己がいてもいいものかと思う時がある。

 けれどものんびりとして、心が安らぐ景色を堪能できるのは、言葉にできない充足感があるのは確かだった。


「お茶淹れてくるよ」


 どこかうれしそうな湊が窓を開け、家の中へと入っていく。

 

 その背後で、麒麟が山神を見つめていた。

 


  ◇

 


「このいちご大福のぽってりとした愛らしい見た目。すでにそこからよい。薄い求肥ぎゅうひを通して見える、あ、あんこもっ、むろんのことっ……くぅ……こし餡であるのは、紛れもなるまい!」

「もちろん、こし餡だよ。誰かさんは、つぶ餡食べないってわかってるし」


 山神は、なかなかわがままだ。つぶ餡は食さない。


「そして、噛めば、じわりとあふれ出るみずみずしいいちごの果汁と果肉が……ぬぅぅ、合う! とことんこし餡に合う! なんと罪深き味かッ。こし餡といちごのこらぼれーしょんが、ニクイッ!」

「山神さんが英語を使って表現するとは……『肥前庵ひぜんあん』侮れん。また買いにいくか」

「作り手は爺であったか」

「爺って呼ぶには少し早いと思うよ。五十代くらいの方だったから」

「ぬぅ、安心できぬ歳ではないか……」


 鼻筋に皺を寄せながらも、じっくりと味わっている。

 苦手な横文字まで使い、さらには店主を気にかけるほどお気に召したようだ。


 適当に合いの手を入れていた湊が、白餡のいちご大福を口に放り込む。餅と甘さ控えめ白餡、そして果肉。

 意外な組み合わせのようで、完全に互いに引き立て合うお味は乙なものである。


「白餡もうまい」

「……それは、否定できぬ。だが小豆のこし餡以上の物はなし」

「白餡の原材料って、なんだっけ」

「いんげん豆ぞ。稀に白小豆もあるようだがな」

「ほぅ、左様でございますか」


 最近、山神の口癖が移ってきていた。

 まずいな……と内心で反省する湊と、小振りないちご大福を時間をかけまくって食す山神。

 そんなふたりの周りでは、ひっきりなしに鳥の声が響いている。


 ――ほー、ほー。

 ――ほっ、ほっけ! きょっ。


 クスノキの木陰で、鳳凰ホウオウを中心に輪になっているうぐいすたちの声だ。

 鳳凰が正面にいる気張る若鳥を片翼で示した。


 ――ぴっ(そち。そちは、最初の『ほー』の最後をもっと伸びやかにすればいいだろう)

 ――ほー、ほっきょっ。

 ――ぴぴ(そうだ、いいぞ、その調子だ。このまま励めば、その鳴き声で意中のモノに振り向いてもらえる日も近いだろう)

 ――ほけっきょ。

 ――ぴー(そちは、最初の『ほー』を忘れているではないか。もう一度)

 ――ほー、ホー?

 ――ぴぴ(そうだ、その音だ。音程も抑揚も申し分ない。褒めてつかわす)

 ――ほけー? ホゲーッ!

 ――……ぴぃ(……そちは、まったく違う)


 鳳凰先生による青空教室、開催中である。

 うぐいすたちは己が鳴き声ぶりを、長である鳳凰に聞いてもらいに訪れていた。


 今し方、表門まで響いていたのは、彼らの練習声だ。

 鳳凰が楠木邸にきてからというもの、多くの鳥がご機嫌伺いをかねて訪れるようになった。


 基本的に神庭は、現世うつしよの生き物は入れない仕様だが、鳥たちが来る時だけ開放されている。

 今日はうぐいすのみならず、大勢のスズメもきており、クスノキで羽を休め、眼下の青空教室を眺めていた。


 ――へきょ!

 ――……ぴ(……仕方のない)


 鳳凰が微塵も上達の見られない背後の若鳥へと体ごと向き直る。


 ――ぴぴ! (よいか、余の声をよく聞け!)ホーホケキョ!


 透き通った鳴き声が庭の隅々まで轟いた。

 その美しきさえずりは、耳はおろか心にまで心地よく響く。鳳凰先生による実演に、うぐいすたちが興奮して羽をばたつかせた。


 野生のうぐいすは、かつて聞いた親の鳴き声を思い出しながら、鳴く練習をするという。

 美しいさえずり声を耳にしたことのないうぐいすは、うまく鳴けないともいわれている。


 人と同じように、上手な鳳凰先生が直接指導してくれるなら、若鳥たちの上達も早いだろう。


 ――ホゲ〜!


 約一羽、怪しいのがいるけれども。

 問題児の駄目っぷりに、鳳凰が空を仰いだ。


 少々お疲れ気味な鳳凰は、いまだひよこ姿のままである。まだ快癒かいゆしておらず、起きている時間より、寝ている時間のほうがはるかに長い。


 長の疲れ具合を察知したうぐいすとスズメたちが、ひと声高く鳴き、一斉に飛び立っていく。

 鳥たちは統率が取れていて行儀がよく、決して長居はしないのだった。 

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