28 あなたが、ここのアルジ
楠木邸の白糸の滝は、いつでも美しく煌めいている。
滝壺に落ちる豊かな水量のおかげで、しぶく周辺は癒やしの空間でもある。
湊はたびたびそこに吸い寄せられている。
細かい霧状の水を浴びながら、息を吸って吐き出す。ただそれを繰り返すだけで、心が静まり疲れた身体も慰められる。
ここでは、より深く呼吸もできる気がしていた。
今日も気がついたら、滝のそばに寄り、細い帯状の水に指先を入れていた。
「――滝に打たれるのもいいかも」
「ならば、高さと水量を上げてやろうぞ」
声が降ってきて、湊が見上げると、塀に山神が乗っていた。珍しく自宅に帰ったはずが、もう戻ってきたようだ。
「おかえり、山神さん」
手を振って水滴を飛ばす湊を見ながら、山神は再び問うた。
「うむ。して、滝に打たれたいのか」
「冗談だよ。汗をかいたからちょっと水を浴びたいなと思っただけ」
「好きなだけ浴びればよかろう」
「いや、俺が御池に入ったらダメでしょう。神様専用なんだろうし」
座った姿勢の大狼の毛がゆれ、その双眸が細まった。
「楠木湊よ」
瞠目した湊が、まっすぐに立った。驚いたのは、初めて姓名で呼びかけられたからだ。
塀の上に小山のごとき佇まいの大狼は、静謐な眼で湊を見下ろす。
「ここの
その重低音は、湊の鼓膜だけではなく大気をもゆらす。
「名義だの、所有者だの、人の世の習わしなぞ我には関係ない。知らぬ。お主がここの
実に尊大な態度と口ぶりで、湊は苦笑するしかなかった。
いくら神の思し召しであろうと、それは世間にまかり通らない。
けれども、この神域内でなら通用するだろう。
湊は川に入ってみることにした。
滝壺は応龍の寝床のため、そこは遠慮して、太鼓橋のたもと近くを選んだ。
裾をまくった湊が、そろっと川に片足を浸した。
「冷たいけど、驚くほどじゃないな……」
とはいえ足が冷えると一気に体温が下がる。無駄に上がってしまった身体には心地よい。両足を入れると、水かさは膝をやや超えた。予想より深い。
山神はといえば、露天風呂を占領している。
岩に顎を乗せてプカプカ浮いていた。ひやっこい水より、ぬくい温泉派である。
「水量は足りておるか」
「十分だよ」
鼻歌交じりの問いに答えた湊は、両手を器にして水を掬い上げた。指の間から流れ落ちる水が、陽光を反射して七色に光る。
はねる水滴で服が濡れても構わなかった。
「心なしか水もやわらかいな……」
「神水だからね〜」
山側――下流から、ウツギが犬かきで泳いできた。
この川と温泉は別の次元につながっており、ウツギはそちらから来ていた。
「珍しい、泳いで来たんだね」
「うん。たまにはね。この水は飲んでもおいしいよ〜」
「――俺が飲んでも大丈夫?」
「もっちろん!」
そう言われても、このまま飲む気にはならなかった。
水を戻して川の中を歩こうとしたら、トリカとセリも泳いできた。
二匹は、湊のそばまでくると身軽に岸に上がる。トリカは身を震わせ、水気を切った。
「ほどよい温度でいいだろう。冷たすぎる神水は、体によくないからな」
「ええ、四霊は若くもないですから」
セリが訳知り顔で宣った。
若い眷属たちは珍しく濡れそぼっている。あえて乾かさないらしく、別の個体かと見紛うほど細い。
「ほんと素敵にぶ厚い毛皮をお持ちだよね」
「我ら、いついかなる時も冬仕様のもっふもふ〜」
軽やかに泳ぐウツギが、太鼓橋を越えた先でターンをキメた。
ドボンッ! 同時、庭に大きな水音が響く。
「亀さんが飛び込んだのかな」
時折、霊亀が華麗に大ジャンプをキメるがその時より、音が激しかったようにも思えた。
湊が滝を見やると、プカッと滝壺から一つの果実が浮き上がってきた。
「桃!? しかも、で、でかい……!」
その大きさにビビリ、素っ頓狂な声をあげた。大きな桃が川の流れにその身を任せ、流れてくる。
浮き沈みを繰り返し、くるりと横に回って、逆にも回って。
川は蛇行してるにもかかわらず、まったく岸にぶつからない。
明らかに挙動がおかしい。
そんな異様な桃から湊は目が離せない。
大桃は、人の赤子が入っていてもおかしくないサイズはある。
割ったら出てくるかもしれぬ。
活きのよい男の子が。
そして育つやいなや、昨日食べた素朴な団子で次から次に動物をスカウトし、
「モモタロ――いや、いや! そんな、まさか……ッ」
想像力を逞しくして、及び腰になった。
そんな挙動不審者を、トリカとセリがニマニマ見上げている。
岸に上がったウツギもセリたちの横に並んだ。
「ちょうど流れてきたから通したよ〜。湊最近すごく気にしてたから会いたいんだろうと思ってね!」
「おとぎ話のおのこのほうではありませんが……」
苦笑したセリが、説明してくれた。
かの有名なおとぎ話〝桃太郎〟には、元ネタになったらしき神がいるという。
国産みの神たるイザナギ――スサノオの父神が、亡き妻イザナミを連れ戻すために黄泉国へ赴いた。
しかし、変わり果てた妻の姿を見るや、恐れをなして逃げ出した。
キレたイザナミによって追手がかかり、その時、桃を投げつけて
この功績により、桃はイザナギによって
その名を、
その桃神が、湊のそば近くまで流れてきて止まった。くるる〜っと陽気に回る。
湊はそれを、とくと眺めた。
カカシも度肝を抜かれたが、桃もまた驚き木桃の木
もし桃太郎が入っていた果実もそうであったなら、おばあさんがためらいもなく、ぶった切ったのは致し方あるまい。
ツムギにもらった金の桃のほうが、よほど神様らしかったといえる。
だが、香りだけは決して負けていない。
悩殺するかのごとき熟した甘さではなく、やや青さが残る桃の香気は、すっきりとした気分になれる。
それよりも、おそらくあいさつされているのだろうから、お答えせねばならぬ。
「は、はじめまして」
なかなか妙な構図だとも、湊は頭の隅で思う。
ゆるやかに流れる川の只中、静止した桃と成人男が差し向かってあいさつを交わし、それを人外たちが眺めている。
川べりの石に並ぶテン三匹。露天風呂につかった大狼。クスノキの木陰にいる亀、龍、ひよこ、鹿っぽいの。
誰も好奇の眼は向けていない。あたたかく見守っている。むず痒い気持ちになった。
桃神は声を発しなかった。
ただ浮いたり沈んだり、くるくる回って川の流れとともに、塀の壁に溶け込むように去っていった。
見送った湊の顔がやや曇る。
「機嫌損ねたのかな」
セリが苦笑しつつ通訳してくれた。
「いいえ、こう言っていました。『よぉ、兄さん。邪魔するぜ〜。こちとら旅の途中でよ。ほんじゃ、またな!』」
「すごいあっさりしてる。桃の果肉そのままみたいな方だったね」
「だね!」
ウツギが川に飛び込んだ。
派手に飛んだ水しぶきが湊にかかる。続けて、セリとトリカも川へその身を躍らせた。
バチャバチャと三方から水をかけられ、応戦する湊も濡れ鼠になってしまった。
この庭の気温は常春であって、真夏ではない。残念ながら水遊びの適温ではなかった。
春風に吹かれ、湊がブルッと震える。
露天風呂の山神がちろっと片眼を開けた。
「こちらにつかってあたたまるがよい」
「――そうする。数分程度の水浴びだったけど、すごい堪能できたよ」
しみじみつぶやきつつ、きゃっきゃと逃げ惑うテン三匹をまとめて抱え上げる。あったかい。
そのままプラプラゆらしながら温泉へ向かった。
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