11 恨みをもつのは人間だけじゃない





 ちゅんちゅん、ヂュンヂュン。

 常ならば、そんなにぎやかなスズメの合唱が木霊する早朝にもかかわらず、楠木邸は無音であった。


 いつでも春の陽気に包まれていたそこは現在、いやに寒々しい空気が流れている。

 あくまで比喩だが、その極寒の冷気を噴出しているのは、クスノキのそばに座した管理人である。

 無表情で正面を見据えている。その槍のごとき鋭い視線を受けるのは、鎮座した山神であった。


 そんな彼らの周り――板張りの床の外周には、昨日までなかった柵が張られている。

 寄り掛かってよし、腰掛けてもよしのそれは、寝起きの山神がつくった転倒防止柵である。

 それはさておき、静かなる怒りをたたえる管理人は、抑えた声で切り出した。


「山神さん、昨日のこと覚えてる?」

「――それなりに」


 実は大半を忘れており、セリの記憶を確認して己のやらかしを知ったのであった。なおその元凶の大岩は池に浸かったままで中島となっている。

 それはともかく、そこになおれと言わずとも、折り目正しく座った山神であったが、もぞもぞと尻を動かしており、その下にお気入りの座布団はない。


「酔った山神さんがやらかしたせいで、座布団も水浸しになったんだよ」

「――すまぬ」


 しばしの間。険しい顔の湊は乱雑に後ろ頭を掻く。


「――まぁ、そろそろ打ち直しに出そうと思っていたし、カエンの座布団も買わなきゃいけなかったから、ちょうどよかったといえないことも……。いや、よくない!」


 軟化しかけた態度を元に戻そうと努めた。


 湊は普段、滅多に怒らない。

 ゆえに怒り方がいまいちわからないのである。

 そのうえ耳を下げた大狼に、反省しきりといった態度を取られてしまえば、怒りを持続させるのはなおのこと難しかった。

 さらには昨日、この板の間、廊下、縁側の水拭きを手伝ってくれた眷属たちにしきりに謝られたというのもある。


 湊は頭を前へ垂らし、長々とため息を吐き出した。


「――どうか、これからは気をつけてください」

「うむ、心にとどめ置いておく」


 真摯な態度である。その言葉に偽りはあるまい、おそらく。

 神の類が誓いをする時に鳴る鈴の音がしなかったなとは思うも、湊は信じることにした。

 何しろ、いままで山神は酒に呑まれるようなことはまったくなかった。昨日がはじめてだったのだから。

 ただ、一つ懸念はある。


「セリたちも酒癖が悪いの?」


 テン三匹は山神の分身ともいえる存在だからだ。


「否。あれらは酒を好まぬようにつくったゆえ、まず呑まぬ」

「よかった。賢明な判断だったと思う」

「そうであろう。我もそう思うておる」


 いけしゃあしゃあと言ってのけた山神は、首をめぐらせた。


「――にしても、なかなかよき景観となったものよ」


 自画自賛し、満足げに鼻息を吹いた。

 庭の改装は、山神の趣味である。その楽しみを奪うのはよろしくなかろう。


 湊も同じように庭を見やった。

 四方を囲む池には青空が映り、長い渡り廊下の先に縁側と家屋がある。二基の石灯籠と露天風呂の位置は変わっていない。

 手水鉢は、この板張りの床に入る廊下の脇に移動している。まさに一新されてしまい、気分が変わっていいだろう。

 ただ太鼓橋が消えてしまったため、これからは壁沿いを伝って裏門へいかなければならない、やや不便な仕様になった。


「ずいぶん変わったよね……」

「左様。一変させたぞ」


 誇らしそうにされてしまえば、もう湊は苦笑するしかなかった。そのまま横へ手を伸ばし、クスノキの幹に触れる。


「こんなにクスノキの近くで過ごせるようになるなんてね」


 微笑みながら見上げると、入り組んだ枝とびっしり茂る葉が見えた。

 わずかに差し込む光の筋を受ける下方の枝に、風鈴がぶら下がっている。

 縁側にひとり取り残されていたのをあまりにも不憫に思い、湊が持ってきたのであった。


 ――ちりん。


 短冊をなびかせ、存在を主張している。

 それ以外の音はしない。鳳凰とカエンは石灯籠で惰眠をむさぼっており、麒麟もお出かけ中。それから霊亀と応龍は――。

 ポチャッと、池の二か所――両端に水紋が広がった。

 それぞれの中央に亀と龍の頭が浮かび、悠々と泳ぎ出す。池の流れがないせいか、川の時よりいっそう優雅な遊泳に見えた。

 広々となった池には、変わらずこの二匹が住み、山側と田んぼ側に居場所を分けていた。かの竜宮城は霊亀の方にある。


 湊は最後に大狼で視線を止めた。

 煌めく輪郭もさることながら、気配が濃厚だ。緩慢に横になるその動作に合わせ、衣擦れめいた音までも聴こえてくる。


「山神さん、存在感抜群だよね」


 庭の大改装でたいそうな力を消費したであろうに、消えることなぞ万に一つもない。そう思わせるだけの力強さがあった。


「そうであろう、そうであろう」


 喉を震わせ、山神が笑った。

 しかし唐突に、その声が止んだ。鼻先を家屋側へ向けて、唸り出す。


「ぬぅ、朝っぱらからまたしても来おったか」


 薄い瘴気をまとう蛇体が近づいてくるところであった。

 山神の台詞からよくないモノ――悪霊だろうと思い、湊は必死に目を凝らし、耳をすませた。

 その様子を山神が一瞥する。


「お主はあまり、悪霊に意識を向けぬほうがよかろう」

「なんで?」

「あやつらを視て、その声を聴いていかにする」

「――いかにするって、……祓うよ、もちろん」


 ほんの一瞬ためらったのを、山神が気づかないはずもない。

 湖面のように凪いだ眼で、湊を見据えた。


「悪霊が、なにゆえそのようになり果てたのか。その理由を知ってなお、すべてを祓い尽くすだけの心の強さを持っておると、自信を持って云えるのか」


 詰問され、湊はとっさに答えられなかった。

 そして、静かに目を伏せた。


 実のところ、いつも思っていた。

 悪霊の内情を知ってしまえば、自ら進んで祓うことはできなくなるかもしれないと。

 悪霊は、もともと人や動物である。かつて生きていたモノだ。

 それを己は、彼らの醜悪な姿が視えない、その怨嗟の声が聴こえないばかりに、容赦なく祓っている。

 ――生者に仇なす存在だから。そう己に言い聞かせて。


「先日、申したであろう。四霊から加護を与えられたお主は、心から望めばたいていのことは叶うと」


 平坦な声がして、湊は目を上げる。


「よく考えるがよい。本当に認識できるようになりたいのか否かを、な。しかと己が心の声に耳を傾けてみるがよい」

「――うん」

「今回だけは特別に観せてやろう。――神域をちといじる」


 山神は振り上げた前足を音高く下ろした。

 途端、屋根の上に長い蛇が浮いているのが見えた。

 波線を描く蛇体は、二メートルはあるだろう。


「――あれは、アオダイショウかな」

「左様。そこそこ長く生きたやつぞ」


 やや老いたその身から瘴気を放っているが、ごくわずかだ。そのうえその身自体、緑がかった暗い色を保っており、湊は怪訝そうな顔をする。


「あれは、悪霊なのかな。いままでの悪霊はみんな禍々しい黒一色だったけど」

「あやつは、なりかけである。肉体から離れた魂はそのまま悪霊になりはせぬ。徐々に変わっていくものぞ」

「そうなんだ……。それであのアオダイショウは、なにしに来たんだろう?」


 蛇は攻撃を仕掛けてくる様子はまったくない。ただ宙に浮いているだけだ。

 湊にも山神にも眼をくれず、ただ己が長たる応龍を見つめている。

 いつの間にか応龍は、中島のいただきにいた。後ろ足で立ち、アオダイショウを見返している。

 その応龍に湊は意識を向けてみるも、声はまったく聴こえなかった。


「あの蛇は応龍のに会いに来おったのよ。やり場のない怒りを捨てきれずに苦しんだ果てに、な」


 伏せた体勢の山神が、温度のない声で告げた。


「やり場のない怒り……」


 復唱した湊を大狼が見やる。


「左様。己を殺した人間を殺したくとも、それがもう叶わんと嘆いておる」


 予想外の理由に、湊は瞬間的に息を引いた。


「――それは、なんで?」

「己が手を下す前に、相手が車に轢かれておっちんだらしいぞ」

「それは……」


 湊は二の句が継げなかった。

 殺された恨みを晴らそうとするのは、人間だけではないのだとまざまざと思い知らされた。そのうえ相手が死亡したにもかかわらず、いまだ恨みが消えないとは。

 その恨みの激しさ、重さに寒気を覚え、湊は肩をすぼめた。

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