31 ある決意
宵の口。のどかな田舎道の端を歩む湊を、時々通り過ぎる車のヘッドライトが照らす。
その横を黒い狐が歩いている。
何もない宙であれど、地面の上を歩くのと変わらない動作をしていた。
それをしばしば眺める湊の視界は、通常に戻っている。
黒い狐の額の紋様も白くなっていて、尾も一本のみ。
こちらもツムギに戻っていた。
ついでに湖周辺の穢れも祓った湊とツムギは、帰路についていた。
道すがら、ツムギは湖に悪霊が巣食った理由を語る。
「あの湖には、いまだかつてないほどの渡り鳥が来ていたのです。中には、穢れをまとうモノたちも多かったのでしょう。それらが集まることにより、悪しきモノが喰い合って力をつけ、湖および小屋を根城にしてはびこっていたのです」
「そうだったんだ。とりあえず湖のあたり一帯、視えるモノは全部祓ったけど、また渡り鳥が集まるなら同じことが繰り返されるよね」
湊が懸念するのは、そこだ。
おそらくではない、渡り鳥の数が増した原因は、確実に鳳凰だ。
自分たちの
そんな健気な彼らを止める術はないため、また悪霊が巣食うだろう。
ツムギが湊を流し見る。
「そうなのです。でもあの湖はしばらくの間――おそらく数年程度は、清浄さを保ったままでいられるのです」
ひとまず安心ではある。
もっともそれは自らの力のおかげではないと百も承知している。湊の能力は除霊――悪霊および穢れを祓うのみ。その場を清浄に保つ力はない。
「山神さん力のおかげだよね」
ツムギがふさっと尾を振る。
「はい、実に慈悲深きことなのです。我が神であれば、かような所業、ありえないのです」
「そういうものなんだ」
「はい、なんの益もありませんから」
見上げてくるツムギの目は一片のくもりもなかった。
そうこうしているうちに、等間隔に街灯の灯る道の先、小高い山が見えてくる。照明に照らされた千本鳥居の存在が浮き上がっていた。
数時間前まで人の壁で塞がれていたそこは、今は何モノかがぽっかりと口を開けてるようで、やや薄気味悪い。
自然光から人工的な明かりに変わっただけ。たったそれだけだというのに、どうしてこうも不気味に映るのだろう。不思議だと湊は思う。
本来、鳥居は境界である。
ここから先は、神の域だと知らせるための物だ。
その神の域から、人が出てきた。
若い男のようだが、急階段を下りてきたばかりのせいか、最後の鳥居をくぐった時によろめいた。
近づく湊を一瞥し、反対方向の道へとうつむきながら歩いていく。
視界が悪いため、表情は知れなかったが、猫背で暗く沈んでいるように見えた。
湊が山頂を仰ぐ。
下からの照明で浮かび上がる朱色を基調とした神社。そこから人の声などは聞こえず、神事はとうに終わっているように思われた。
「こんな時間にもまだ参拝する人がいるんだね」
「時折いますね。今し方の若者は、お百度参りの最中なのです」
「……なるほど」
「今日で九十九回目。明日でちょうど百回目になるのです」
道の先を遠ざかっていく人影の速度は異様に遅い。
歩くのも一苦労のようだ。
「さっきの男の人、体調が悪そうな感じがするんだけど……」
「そのようですね。だからといってお参りを途中でやめると、今までの苦労はすべて無駄に終わるのです。体調が悪かろうと、天候が悪かろうと、やり遂げるしかないのです」
ツムギの声に変わりはない。さも当然だろうといった風情だ。
立ち止まった湊が何かを言いよどむ。くるりと体ごと振り向いたツムギが湊の正面に立つ。
「非道だとでもおっしゃりたいのです? これは人間が勝手にやりだしたことなのです。百日間、毎日欠かすことなく、あるいは百回連続で参拝すれば、神が心願を叶えてくれると勝手に決まり事をつくったのです。こちらはそのような誓約を結んだ覚えはないのです」
「――そうなんだ」
他に言いようがなかった。
確かに人間が勝手に決めた行事に、神がいちいち付き合う義理もなかろう。
「まあ、気まぐれに願いを叶えて差し上げたら、たんまり御礼を持ってくる見上げた者もいましたから、味をしめた神もおりますけどね」
「人も人なら、神も神だよね」
おかしそうにツムギが声を立てて笑う。
その後方には、体調不良をおして参拝に訪れた青年の姿はもうない。
彼がいかほど強い心願を持つのかは知りようもないが、よほどのことであろうことは想像にかたくない。
科学が発達した今の世でさえ、まだ神の存在を信じる者は多い。
そうでなければ、先ほどの青年しかり、昼間の大勢の参拝客しかり、わざわざ神社に足を運びはすまい。
あの青年は、ツムギには気づいてもいなかった。
神の類いを視ることも、感じることもできないのは明白。
それでも、心の底から人知を超える超常的な存在を信じている。
個人なれど稲荷神を盲信する強固な思い、さらには数多の信者の信仰心。
そのおかげで天狐の神力は強いのだろう。
ろくに人も訪れない山の山神を、はるかにしのぐ神力を有するのは当たり前だ。
一時的とはいえ、湊の目さえ視えるようにもできるのだから。
物思いに耽る湊の傍ら、ツムギが透明の階段を上るように稲荷神社に向かっていく。その背には、膨れた風呂敷包みがある。
「今日もお使い途中だったのかな」
「はい、たまたま湖に通りかかっただけでした。我が神がわたくしから出てきたのは、気まぐれなのです」
「そっか、でも助かったよ。ありがとう」
振り向いたツムギが笑う。
「明日、お昼にお邪魔します」
「稲荷寿司と蕎麦稲荷をつくって待ってるよ」
「楽しみなのです。では、ごきげんよう」
弾む足取りで神社へと帰っていった。
神の使いを送り届けた湊は脇道を通り、御山沿いに家路をたどる。
背の高い木々におおわれた御山は静まり返り、木立の合間の奥は夜陰に沈んでいた。
半月の明かりを頼りに、均されただけの道をゆく。
その途中、人の声がした。
屋外灯が灯る民家に停まった車に大荷物を運び入れている三人組がいる。
「持っていく物、このテントで最後だよな?」
「おう、終わり終わり。……あ、やべぇ、酒忘れてた」
「おいおい、一番大事な物忘れてどうすんだよ」
げらげら大笑いする男に背中を小突かれた青年が家の中へと戻っていく。
彼らは動きやすさ重視の重ね着スタイル。
さも今から山に参るぞと主張する服装と、車のトランクにキャンプ用品が積まれていた。
それらを流し見た湊が行き過ぎる。
こんな時間に遠出までして山へ行くつもりなのだろうか。
ごく間近に立派な山があるにもかかわらず。
いや、竿が乗ってるのも見えたが海釣り用だったから、行き先は海かもしれない。
そう疑問に思っていると、車の扉を閉める男たちが語ってくれた。
「山のそば近くに住んでおきながら、わざわざ他県の山までいくとか、俺らも相当物好きだよね」
「まぁ、途中の海釣りがメインだしな。どのみち、この御山、登れねーし」
たばこの煙を吐き出し、つぶやいた男の言葉がやけに湊の耳についた。
湊は月に数回は御山に入っている。祠の清掃と山の幸をいただくために。
その際、人と行き合ったことはない。
おそらく登りたくても登れない人が、多数いるのではないかと思われた。
山神も以前は多くの人が訪れていたと言っていたことでもある。
暗い道で立ち止まった湊は、振り返る。
男たちが乗ったワゴン車の赤いテールランプが遠ざかっていく。その斜め上、照明に照らされた稲荷神社も見えた。
妙に明るく、暗い海に灯る灯台のような頼もしさを感じる。
引き換え、すぐそばにそびえる御山は、ひどく暗い。
どうしても寂しい印象を拭えない。
されど、山神の清浄で厳かな気配に満ちた山だ。
とりわけ感覚が優れていない湊でさえ、それを感じ取れる。神の存在を感知できる者であれば、なおさらその気配に気づくであろう。
その鋭い感覚は、現代人が失いつつあっても、持っている者はいるにはいる。
現に、この町で山神の存在を認識できる人たちと会ってきた。
もしそんな人たちが御山にくるようになれば、御山がにぎやかになれば、山神の神力は増すのではないか。
じっと山奥の暗がりを見つめながら、湊はそう考えた。
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