2 奇妙な音

  

 熟練の庭師たちによって、庭は見違えるほどに整えられた。

 塀の上から大幅にはみ出していた山側の樹木、伸び放題だった雑草も消えた。

 申し訳程度に植えられていた低木も綺麗に刈り込まれ、随分見映えはよくなったがやはりどうしても、がらんと寂しい印象は拭えない。


 どうぞ、と湊が縁側に腰かけた若い庭師に煎茶を振る舞う。

 つなぎを着た大柄の庭師が快活に礼を述べ、首にかけた手拭いで顎を伝う汗を拭った。


「いやあ、あまり時間もかからず、あっさり終わってしまいましたよ」

「午前中で終わってしまいましたね。お世話になりました」


 丸一日の予定だったが存外早く片付き、まだ昼食には早い時間帯。大勢いた他の作業員たちは、小山となった枝葉を荷台に乗せた軽トラック三台とともに帰っていった。


「山からのお客さんが手強かったくらいですねえ」

「塀の半分は上から覆って見えてませんでしたからね。白い壁が眩しい」


 からからとおかしそうに笑った庭師が、お茶で喉を潤す。空の池を眺め、目を細めた。


「ここを中途半端に放り出す形になった親父は、とても残念がっていました」


 作庭を依頼されたのが彼の父だったという。

 志なかばで断念せざるを得なかったのは、何もこの家の持ち主が急逝したからだけではない。彼の父もそう間を置かず鬼籍に入ったからだ。


 庭師のグラスを握る手の甲に力が込められたのを湊からも見て取れた。

 静かで温度のない声の彼はどんな思いを握りしめたのか。


 死因について詳しく語られることはなく。一度深く息をついた若い五代目は、湊のほうを向き、愛想よく問う。


「どうしますか、庭のほうは? よければ俺が引き継ぎますよ。とりあえずシンボルツリーでも植えますか? 今のままではあまりにも寂しいでしょう」

「そうなんですけど、俺がここにいるのは一時的なものなんですよね」

「……そうなんですか」

「はい。だからあんまり勝手にするのもどうかと思ってまして」


 わずかに残念そうに首を傾けた庭師が、顔を歪めて肩をつかんだ。いやに痛そうだ。


「もしかして作業中に痛めました?」

「いえ、ここのところ、どうも調子が悪くて」


 ぎこちなく肩を回すその顔色もあまり優れない。早めにお帰りいただいたほうがいいだろう。


「この家の持ち主に庭のことを訊いてみます。俺もこのままではどうかと思いますし」

「わかりました」


 湊は連絡を取る旨を書き込もうと上着のポケットからメモ帳を取り出した。

 直後、背後から強い風が吹き、メモ帳がめくれてあいだに挟んでいた一枚のメモ紙が飛ぶ。

 庭師の肩に当たった瞬間、双方、驚きの表情になった。


「すみません!」

「え? あ、いや、大丈夫ですけど。なんか肩が、急に……」

「どうかしましたか」


 曲げた腕をぐるぐると前後に回し、次に首も回す。

 その軽快な動きに合わせて乾いた快音が鳴った。

 幾分か顔色が良くなり、にわかには信じられないといった口振りで呟く。


「……軽い。あんなに重かったのに」

「え、まったくですか?」

「はい、ほとんど腕が上がらないくらい痛かったのも、ない……」

「まあ、痛みがなくなったなら、よかったですね」


 湊が呑気に笑顔で告げた。


「ええ、まあ、そうです、ね……?」


 困惑しきりながらも頷いた庭師が、狐につままれた面持ちで辞去を告げた。


 裏門まで見送るべくついていく湊には視えていないが、視える人であれば視えただろう。

 叩きつける勢いで張りついたメモ紙により、家を訪れる前から彼の肩にべったり乗っていた複数の悪霊が爆散された無残な様を。


 綺麗に祓われた背中が、軽い足取りで裏門をくぐっていった。



 ◇



 黒い外観の家屋は白い塀に囲まれ、表と裏に数寄屋門がある。

 表門の柱に木製の表札を取りつけ、湊は満足げに首肯した。


「一時的だけど、俺がいるあいだくらいは、いいよな」


 二十四歳にして初の一人暮らし。しかも大層な一軒家で憧れの一国一城の主である。

 持ち家に己の表札を掲げるのは、ささやかな夢だった。

 厚木に彫られた楠木の黒文字を上から人差し指でなぞる。表札は湊の手作りだ。


「結構、上手くできたな。うん」


 字の歪みもなく堂々とした納得の出来栄えに自画自賛する。

 幾度もニス塗りと乾燥を繰り返し、墨で書いた文字を彫刻刀で彫る。の粉を塗って黒色を入れ、またニスを塗ること複数回。心を込めて、時間をかけて作成した。


 書道の心得はなくとも、読みやすく綺麗な字だと褒められることが多い。

 子供の頃から実家の表札、温泉宿の看板を作り続けており、今回二つ作り上げ、持ってきていた。


 出来のいいほうを表門へ取り付け、裏門へと向かう。

 塀の外側を埋めていた雑草も刈られ、歩きやすい平坦な細道をたどっていく。

 家を取り囲む塀は湊の背丈よりも高く外からの視線を完全に遮断してくれるだろう。


「そういえば、なんで表札を作るようになったんだか。あー、そうだ。子供の頃、すげぇ褒めてくれた人がいたからだ」


 小学校高学年時、宿題で作ったものだった。

 今よりはるかに出来が悪く、歪に曲がった文字で温泉宿名を彫っただけの素朴な木材の切りっぱなし。

 父に渡せば、温泉宿の門柱に飾られてしまい、気恥ずかしくも嬉しかったものだ。

 それを宿泊に訪れた客人、パナマ帽を被った和装の壮年の男性が、手放しで褒めてくれたのだ。


 ――これは素晴らしい、君が作ったのか。絶対に外さないほうがいい。家のほうにもつけることを強くお勧めするよ。ついでにおじさんにも作ってくれないかい、お金はちゃんと払うから。


「そう言われた時は、驚いたけど」


 かすかに笑い、裏門柱に表札を取り付けた。


 キンッと高く澄んだ音。

 湊には聞こえない、結界が張られた音。


 閉じられた正方形の敷地から翡翠色の光が四方へと放たれた。

 家の上空に渦巻く瘴気を消し去っていく。

 瞬時に薄く陰っていた家と山肌が、鮮明な姿を取り戻した。


 やわらかな一陣の風が吹く。隣の山の斜面を埋める木々がざわついた。

 それはまるで歓喜に震えるように、歌うように。


「うん。こっちもなかなか」


 表札だけを眺めていた湊は、何一つ気づかない。


 たとえその目を向けていたとしても視ることは叶わなかっただろう。

 悪霊を視認できる特別な目を持たないのだから。


 客人の勧めで作った実家の表札は一年も持たず割れてしまい、今の物は一体何代目になるのか覚えていない。

 懇願してきた男性にも作成して渡せば、非常に喜んでもらえた。

 そして謝礼として渡されたのは、温泉宿の離れに半月は余裕で泊まれる金額だった。

 家族一同騒然となったものだ。


 以来、彼が訪れることはなく。今もどこかで元気に過ごしてくれていればいいと湊は思う。


 思い出に浸りつつ、門扉を閉じた。結界の中に満ちた清浄な空気の中を、気負いのない歩みで家へと戻っていく。


 かたん。


 誰もいないはずの裏門で、表札がほのかにゆれた。


 

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