3 表札はドアノッカーではありません
表門の外側、地面のど真ん中に青々とした草がこんもりと盛られていた。
食料品の買い出しに出かけ、昼すぎに帰ってみれば、この有り様だった。
両手に買い物袋を提げた湊が周囲を見回す。
誰もいない、人っ子一人いやしない。
つい今し方降りたばかりのタクシーが、舗装されていない道をのんびりと遠ざかっていくだけだ。
その道の両側には草薮だらけの空き地と田んぼのみしかない。
タクシーが向かう先に片側一車線の車道が見え、その向こう側にまた田んぼと数軒の民家、さらに山へと続く。視界を遮る高層建造物は一切見当たらない。
紛うことなき田舎の風景が広がっている。
心地よく視界が開けた片側と打って代わり、反対側は高くそびえる山。樹木が穏やかに吹く風にそよいでいる。
緑深い山中にお住まいの人はいない、と思われる。
近所とは到底言えない田んぼと道を隔てた家の方からのお裾分けの線も考えにくいだろう。
思案しながら、しばし見晴らし抜群の景色を眺め、門へと向き直る。
ザクザクと砂利道をいき、低い石段を上がる。
採ったばかりであろう瑞々しい草から、青臭い匂いが漂ってきた。
円形の手のひら形。道端によく生えているありきたりな物だ。
「……嫌がらせとか?」
わざわざこのような、酔狂な嫌がらせをする者がいるだろうか。
湊はこの土地に馴染みがなく、知り合いすら皆無だ。
ここにきていまだ庭師数人としか面識もなく、他に心当たりなど当然ない。先ほど初めて赴いた商店街の人たちなど、論外であろう。
田舎だろうが、都会だろうが、どこだろうが思いもよらぬ行動を起こす奇天烈な人間は、いるにはいるものだが。
「……様子見しよう」
草山を迂回し、格子状の門扉を開けた。
小山を築くのはチドメグサ。
葉の汁には、その名の通り血止めの効能がある薬草。
それを知らない湊にはただの雑草にすぎない。
強めの風が吹き、小山の頂の数本が飛ばされていった。
翌朝、表門の格子戸をわずかに開けて覗く。
昨日の草山は跡形もなく消えていた。
だが。
代わりのように新たな花付きの草が地面に整然と並べて置いてある。
卵状楕円形の葉が対生し、その合間に筒状の白い花弁が二つ。甘い芳香を放っている。
「これって確か、蜜を吸えたはずだよな……」
さして植物に興味がない湊でもそれくらいは知っていた。亡き祖父から聞いた覚えがある。
「甘い物は昨日買ってきたから間に合ってるんだよね。それに、地べたに置かれた物を口にしたいとは思わんし」
すげなく顔を引っ込め、ぴしゃりと格子戸を閉めた。
田舎育ちのわりに、スイカズラの甘い花の蜜を吸った体験がない湊の反応はどうにも芳しくなかった。
誰の視線もない静かな道端で、横一列に並んでいた薬草がまたたく間に消える。
あとには花弁ひとつも残されていない。
翌々朝。格子戸の隙間越しから、そっと窺う。
鮮烈な朝陽に照らされた石階段には何も置かれていなかった。
もう不思議現象は終わりかな、と格子戸を引き開ける。頭を全部出して首を巡らすと、表札の真下に見慣れた物が置いてあった。
「あ、よもぎだ」
つい喜色が乗った声をあげてしまう。
細やかな気遣いが素晴らしい。
ガラリ。門扉、全開。
近づくと、心落ち着く独特な香りが鼻を掠め、思わず笑顔になった。
「もらっていいのかな」
好物の前では、多少の不穏さなぞ吹き飛ぶ。
ちょうど団子の粉を買ったばかりでいいタイミングであった。
ありがたい。大好きなよもぎ団子に思いを馳せ、いそいそとよもぎの束を抱えて格子戸を閉ざした。
かたん、かたん。
無風無人の場で、弾む表札が高い音を鳴らす。
湊の喜びに呼応するように、さも楽しげに、愉快げに。
朝から郵便受けの確認すべく玄関扉を開ける。
足を踏み出した直後、玄関ポーチ脇に置かれた物に気づいた。
いささか古びた小振りな竹籠の中、あふれんばかりの小粒の赤い果実が大葉に包まれて入っている。
「これ食べたことある。甘酸っぱくて、美味しいやつ」
弾けそうな実のクサイチゴが入った籠を両手に掲げ「ありがてえ」と、嬉しげに笑った。
それなりにいい歳をした湊だが、こんないかにも怪しげな物を喜んで受け取るのには理由がある。
実家の仏壇と温泉宿の神棚に供えた物は、消えるのが当たり前だった。
いつの間にか食卓上に残していた菓子も消えるのも日常茶飯事。幼少期より幾度も不思議現象と遭遇してきて、馴染みがあったからだ。
亡祖父が生前教えてくれた。
――うちには童子さんがおる。悪いモノではない、むしろいいモノだ。いいか、湊。菓子を盗られても決して怒るなよ。菓子の一つや二つぐらい気前よくくれてやれ。
祖父は、人ならざるモノが視える人だった。
湊自身、その存在をはっきりと視たことはない。
しかし、家中でふとした時に視界の隅を何か巨大な影が掠めていったり、廊下の角を曲がる人ではあり得ない小人の後ろ姿を目撃したり。
遭遇した回数は一度や二度ではない。
それを興奮しながら祖父に伝えれると。
――あれらは童子さんのお友達だよ。どうやら、お前はいいモノしか視えんようだなあ。
そういって、深く刻まれた笑い皺をより一層深めたものだ。
過去を振り返り穏やかな顔つきで、竹籠をキッチンの流し台に置いた。視線を窓へと転じる。
青空のもと、庭の片隅を白っぽい巨大な影が掠めていった。
またたいた湊の口角が上がる。
実家で見かけるモノたちと同じ、淡く発光した白いモノだ。
位置は低かったが湊と同等か、それ以上はありそうだ。
人に似た姿ではなく、獣に似た姿だった。
天井の片隅を見上げる。
ここにも神棚はあるものの、掃除したきりで何もあげていなかった。
ポケットからメモ帳を取り出す。
「お礼しないとな」
盗るどころか、好物をくれたのだから。
何モノかはわからなくとも、亡き祖父の言葉を信じるなら、あれはいいモノだ。
何より、今まで不思議現象で嫌な思いをした経験は一切なく、不安に思うことはなかった。
「童子さんたちはなんでもござれで、酒ならなんでもよかったけど、無難に日本酒にしとくか。甘い物は……やっぱり和菓子?」
ガタガタッと勝手口の扉が不自然にゆれた。
さも催促するかのように。
かなりお好きとみえる。
笑いながらメモ帳に品々を書き込んでいく。
「えーと、他にもあったな。そうそうゴミ袋、と」
実家のモノたちとはここまで鮮明なやり取りしたことはない。菓子を食べる時、わざとテーブルにいくつか残しておくと、時折礼なのか、窓辺に季節の花が置かれていることがあったくらいだ。
そんな経験もあり、草のプレゼントにも動じなかったのだ。
ともあれ、こちらのモノは随分と自己主張が激しいらしい。
笑いが引かないまま、カウンター上の財布へと手を伸ばした。
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