12 はるか歳上


 息を切らしながら大岩に片手をついて回り込む。

 階段状の滝にせり出す大岩上に、ぼんやりとした黒い塊があった。


 空を覆い尽くす梢にぽっかりと空いた穴から差し込む一筋の日差しに照らされている。

 清廉とした日の光は黒い塊にはひどく不似合いだと感じられた。

 岩の上に緑葉が散っている様子から、空から落ちてきたのだろう。


 その周囲も煤けたように霞んで見える。

 最初にあの家に着いた時と同じように。


「み、みなと!」


 切れ切れな、セリのか細い声。見れば、大岩からやや離れた場所で、三匹とも口許を押さえ前屈みになっていた。

 山の警護を担う彼らは異変を察知して駆けつけたものの、穢れのひどさにどうにもできないらしい。


「我らは、これ以上、ち、近づけません」

「穢れが、うっ、ひどく、て」

「ううぅ、ギボヂわるいぃ」


 えずいて随分と苦しそうだ。


「大丈夫!? もっと離れて。俺なら行けるんだろ?」

「……はい。メモ帳、ありますよね」

「うん」


 もちろん持ってきていた。ベストの胸ポケットからメモ帳を取り出す。

 己の力を知ってから、いつなんどきでもメモ帳半分のページは字で埋めるようにしている。


 しかし正直、自らの書いた字が悪霊を祓う力があると、完全には信じ切れていない。


 涙目のトリカが湊を見やる。


「気を……つけて」

「わかった」


 頷いた湊がゆっくりと大岩へと近づいていく。



 眷属たちには視えていた。

 黒々とした塊からあふれ出す瘴気が霧のごとくあたりに立ち込める中、湊が歩くたびに散り散りに消えていく様を。

 まるで黒い海が左右に裂けて道ができていくように。


「あんなにひどい穢れでも湊には、視えていないのですね。ううぅ、め、眼が痛い」

「だな。顔色一つ変えず平然としてるのが、また。ひぎゃ! 鼻がっ」

「視えないほうが幸せかも。きちゃないし、おぅふ、ぎもぢわるぅ」


 彼らは山神の眷属。神聖なモノであり、穢れに滅法弱い。まだ生後間もなく、あまり耐性ができていないというのも大きい。


 ほどなくして眼と鼻に激痛、吐き気まで込み上げる瘴気が薄れた。

 深呼吸を繰り返し、ようやくまともに立てるようになった三匹が遠巻きに固唾を呑んで見つめる先、湊が大岩に足をかけた。




 湊は足元を見下ろす。

 わだかまる薄黒い塊は、人の頭部ほど、高さは膝のなかばあたり。


 ちらりとやや離れた位置のテンたちを見やれば、後ろ足で立ち上がりこちらを心配げに窺っていた。

 具合はよくなったようだ。


 安堵し、再度足元に視線を落とす。

 やはりただぼんやりした黒もやがあるくらいにしか見えない。身体にもこれといった異常は感じられない。


 正直、どうしてコレがそこまで眷属たちに悪影響を及ぼすのか、理解しがたかった。



 湊は、見鬼の才には恵まれていない。

 怨霊クラスのひどい穢れになると、ようやくうっすら視認できる程度だ。

 ゆえに湊が知覚できるのなら、対象はそれだけ穢れ堕ちていることを意味する。


 そんな湊だが、穢れ耐性は一級品である。

 触れなければどうという被害もない。


 しばし物珍しげに眺め続けた。ほんのわずか薄くなったり、濃くなったり。広がったり、狭まったりしている、ような気がする。


「……ふうん、こんなもんか」


 さして感慨もない。

 視界の端に何かちらつき、そちらへ視線を向ければ三匹が、せかせかと動いていた。


 なんでいつまでも眺めてるの! 早く祓って! とばかりに必死の形相で地団駄を踏みながら、前足で宙を掻いている。


 躍っているみたいだな、と不謹慎にも笑いそうになった。

 気持ちを引き締め、メモ帳をまくる。

 字が少しばかり薄くなっていた。


「これでいける、か……どうなるんだろ」


 自らの能力には興味津々。なんといっても現役陰陽師が大枚をはたいて買ってくれる代物なのだから。


 メモ帳から一枚の紙片を破り取り、真上から落とす。

 ふわりと舞い落ちて腰付近をすぎれば、完全に字が消えた。


「綺麗さっぱり消えたよ。……でも、黒もやは何も変わってないような」


 首を捻る湊には、いまいち変化がわからなかった。


 一転、眷属たちには。


「うわあ、ほぼ吹っ飛びましたね」

「すごいな、木っ端微塵だった」

「山神が言ってた通りだね!」


 塊を成した悪霊の半分以上、一気に霧散する様がばっちり視えていた。三匹が興奮して、はしゃぐ。


 だがしかし、頑固な悪霊はいまだ残存している。

 うごめくしつこい穢れに震え上がり、毛を逆立てて身を寄せ合った。


「持ったまま直接当てるのは……やめとこ」


 以前弾かれた時の痛みを思い出した結果、メモ帳から束で引き千切り、上から雨のごとくばらまく。

 途中から文字が消え、白い紙が次々に岩へと落ちていく。


 最後に落ちた一枚だけは、文字が残っていた。


 どうやら祓えたらしい。

 ここにきてやっと湊は、薄黒い塊がなくなったのを視認できた。

 己の能力を目の当たりにした瞬間だった。


「ちょっと感動したかも。……これ、鹿? いや違うな」


 うっすらにじむように白いモノが現れた。

 鹿に似て非なるモノ。

 鱗で覆われた四肢の体躯。長い背毛。牛の尾。二本角が生えた頭部は龍。

 その瞼は閉ざされており、全体的に淡く儚い印象が拭えない。


「怪我とかは……ないみたいだけど」


 様々な方向から眺めていると、テンたちも近づいてきて大岩に上がってくる。

 周囲は先ほどまで瘴気が渦巻いていたのが嘘のように、通常通り山神の清浄な気が満ちていた。


 滝が流れ落ちる水音をすぐ傍で聞きながら、輪になって中心を覗き込む。

 見守っていると白いモノが色を濃くしていき、存在感を増していく。


「大丈夫です。じきに目を覚ますでしょう」


 セリが力強く太鼓判を押してくれた。


 やがて瞼が開かれ、その眼に湊とテンたちの顔を映す。パチパチとまたたきを繰り返し、緩慢な動きで頭部を持ち上げた。


 湊たちが距離を取り、輪が開く。


 体を起こしたモノは、ゆるぎなく四本足で立ち上がった。

 淡いクリーム色の真珠の輝きを帯びた風雅な御身。

 長い髭が風にゆれる。


「だいじょ――」


 最後までいわせてもらえず。

 予備動作なしで飛び上がり、頭上に空いていた穴を突き抜けて上空へと逃げていった。

 あっという間。ロケット弾もかくやの爆速ぶりであった。


 唖然と口を開けた一人と三匹が、丸く切り取られた青い空を仰ぐ。

 キャップのつばを引き上げた湊が目を凝らす。もはや白い点にしか見えない。


「はっや、もうあんな遠くに……。でも、まあ、元気になったならいいか」

「礼を述べてしかるべきでは」

「だな。礼儀がなっとらん。そこそこ永く存在しているだろうに」

「ばいば~い! 元気でね〜!」


 呑気に笑う湊、苛立たしげに腕を組む年長組、両手を振って見送る末っ子。

 三者三様の反応を示す一行に向かい、枝から外れた数枚の青葉が、ひらりひらりと舞い落ちていった。

 

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