14 不器用な神・現実を知った人




 それは、朝もやのかかる早朝に起きた出来事だった。

 一人の翁が地蔵にお供えを持ってきたことからはじまる。

 合掌した翁が目を開けたら、地蔵の背後にカカシが佇んでいた。


「な、な、なにッ!?」


 狼狽する翁をはるか高みから見下ろすカカシは物言わぬ。その白面に書かれたへのへのもへじも動かぬ。

 ひたすら不気味でしかないそんなモノに突然出くわしたら、心の臓が縮み上がっても致し方あるまい。


「ひぃっ、お、お助けをーッ」


 泡を食った翁がほうほうのていで逃げていく。あっという間に濃霧に紛れて、慌ただしい足音が遠ざかっていった。


「あの爺、無事に家へたどりつけたらいいが……」


 ポツリと落とされたカカシ――田神の声は、眼前を通り過ぎた大型車の排気音で消されてしまった。



 ○



「――ということがあったんだ」

「――それは……」


 田んぼの際に突っ立つカカシから、昨日の話を聞かされた湊は言葉に詰まった。

 楠木邸を出て田を貫く細道に足を踏み入れた瞬間、突如として田神が現れ、相談事を持ちかけられたのだった。


 細道に佇む湊の手には、酒瓶がある。

 田神に献上しようとしていたところで、ナイスタイミングだったともいえる。

 それにしても、まさか神域からその御身のまま出てくるとは思わなかった。予想外にもほどがある。


 いまは、真昼間である。

 曇天であれど、水田や楠木邸も明瞭に見える。たとえ車道に通行人がいても、湊がカカシと相対しているだけにしか見えないのは、不幸中の幸いかもしれない。


「人に逃げられることはままある、というより、ほぼ毎回だ。なぜだろう?」


 小首をかしげるカカシは真剣そのものだ。

 ふざけているわけではない。田神は本気で理解できず、悩んでいる。その白面の文字は動かずとも、声と醸し出す雰囲気に生真面目さがにじんでいた。


 ならば、こちらも相応な態度でお答えせねばなるまい。

 決然と顔を上げた湊は、己が意見を明確に述べた。


「――田神さん、大変申し上げにくいのですが、誰だって突然カカシが現れたら驚きますよ」

「なぜ驚くんだ。この体は、人がワタシに捧げた物だというのに」

「そうでしょうけども」

「毎年奉納してくれるから、そのたび、そちら側に移ってるんだよ。わかりやすいように」

「妙に新しい衣服だなと思ったら、毎年体を変えてるんですね」


 骨組み、野良着類、麦わら帽子。すべてが新品で汚れ一つない。

 質がいいそれらは、地元民たちの田の神への感謝と崇敬の表れだろう。

 なんにせよ、田神は人と交流を図りたがっている。


「やっぱり田神さんも、先触れを出すべきだと思います」

「ワタシの家の玄関を開く時に出るような音を?」

「そ、そうですね」


 あれは、ない。

 真逆なことを内心で思う湊は、目を泳がせつつ考える。


 田神は人との交流を好むらしいが、どうにもズレている。おそらく人のほうがその外見を受け入れがたく、思うように意思の疎通が取れないのだろうが、こうして相談を持ちかけてくるのなら、改善する気はあるということだ。

 湊にいえることは、一つだけである。


「田神さん、人は繊細なんです。できるだけ、心の準備をする時間を与えてあげてください」

「――わかった。やってみよう」

「応援しています。では、このお酒はお近づきの印ですので、どうぞ」

「ありがとう」


 差し出した酒瓶は、その手の中から瞬時に消えてしまった。


「ワタシは酒も甘味もたいてい好むよ」


 ちゃっかり伝えてくるあたり、さすが遠慮を知らぬ神の一柱だった。




 ――後日の逢魔が時。真っ赤に染まる地蔵の場所を通りかかった湊は、目撃することになる。


「ギャ~ッ、で、出たぁー!」


 悲鳴をあげて逃走する地元民の姿を。

 膨らんだ太陽に向かい、小太りな中年男性が死にものぐるいで駆けていく。湊はそれを、ただ見送るしかできなかった。


「ダメだったか……」


 その背後、カカシがしょんぼりと佇んでいる。


「カエルたちに、先触れを頼んでみたんだが……」


 とぼけた表情のカカシの足元にウシガエルが群がっている。グオー、グオー。牛並みの鳴き声を発していた。

 心なしか、否、明らかに通常よりその声は野太い。鼓膜に衝撃がくるほどだ。


 けれども湊は、表情を変えず耳を塞ぎもしない。ウシガエルくんたちは神から仰せつかった大役を果たすべく、張り切っているのだから。


 カエルたちが跳ねる傍ら、田神と相対した湊は拳に力を込める。アドバイスは端的、かつ的確に。


「――たぶん、時間帯もよろしくなかったんじゃないでしょうか」

「そうか。では、次は昼にしよう」


 意気込んだ成果が出ますように。湊は誰ともなく願った。

 不気味かつ不器用な田神の望みが叶う日がくるのか否か。それは、いずれかの神もあずかり知らぬことだろう。



 ○



 雨続きの日の隙を狙い、湊は曇天の中を買い出しへ出かけていた。

 その帰途、重いバッグを肩に掛けた彼がゆく路傍は、まだ濡れている。時期と両脇の水田も相まって湿気は強烈で、ただ歩くだけでも汗がにじんでくる。


 遠目に見える楠木邸へさっさと帰るべく、足を早めた時、行く手の小さな人影に気づいた。地蔵の所に一人の女性が佇んでいる。


 裏島だ。

 田の神の神域に迷い込んだ女性である。

 先日、湊が救出したものの、その神域は現世と時間の経過が異なっていたため、彼女は四年後の未来へ戻ってくる羽目になった。


 その後、家に送り届けて以来、会っていない。

 今日までの間、彼女は四年という長い不在時に起こった現実と直面したことだろう。


 打ちのめされてはいまいか。

 危惧する湊が近づくと、裏島が振り向いた。とりわけ、表情に陰りは見られない。おっとりとした雰囲気のままだった。




 花束を両脇に備えた地蔵の傍ら、湊と裏島が並んで立っている。二人の前を一台の車が通り過ぎていった。

 話を聞いてほしいと裏島に乞われ、湊はとうとうと語るその声に耳を傾け、適度に相槌を打っている。


「――うちの田んぼはね、カカシさんのおかげで代々実り豊かなの」


 周囲の水田を見渡し、彼女は続ける。


「うちだけじゃなくて、この一帯みんなそう。大きな被害にあったこともない。みんなカカシさんの恩恵にあずかっているの」


 カカシさん――田の神にまつわる事柄は、物心がつく頃に親に教えられたという。むろん、近隣の子どもたちも同様で、誰しも田の神は存在していると信じているらしい。

 裏島は、湊へ視線を戻した。


「――だから、田の神様を恨む気持ちはないの」

「そうですか……」


 彼女の顔は笑みを形づくっている。けれども、わずかにブレた瞳が無理しているのを物語っていた。

 しかし湊は、慰めの言葉はかけなかった。

 もし己が彼女と同じ状況に陥った時、どれだけ言葉を尽くされたとしても心に響くまい。


 ともすれば、憤るかもしれない。経験したこともないあなたに、何がわかるのかと。


 裏島は、ただ話したいだけだ。

 事情をすべて承知している湊は、ただ聞き役に徹すればいい。親しい友人どころか家族にさえ、心情を吐露できないであろうから。


「あそこに留まることを了承したのは、私だもの……」


 裏島は、両指を組んだ手へ視線を落とした。

 彼女は田神の神域に迷い込んだ時、出迎えた田神から話相手になってほしいと言われ、一も二もなく承諾したという。

 むろん彼女は、そこの時間の流れが外界とは異なっていることを知るはずもなく、田神から説明もなかった。


 その件に関しては、湊も憶測で語るわけにはいかない。

 ただ思うに、田神は人間に興味はあっても、その心に寄り添う気はさらさらない。

 なぜなら本当であれば、湊がほぼ元の時間軸に戻されたように、彼女のことも神域に迷い込んだ四年前へ戻すことは可能だったはずだからだ。


 けれども、田神はそれをしていない。

 湊も気づいている。自らが元の時間軸に戻ってこれたのは、山神が外界で睨みをきかせてくれていたおかげだということを。

 田神は他の神と交流したがらないと山神がいっていた。ならば当然、山神と揉めるのも避けるだろう。


「四年前に戻りたい、とはそんなに思わないんだけど……」


 どこか遠くを見る目をした裏島の言葉は尻すぼみになっていった。湊が穏やかな声色で促す。


「けど?」

「ただ、戸惑ってるの。たった四年で、こんなに周りの人たちは変わってしまうんだなって」


 それは外見のことなのか、内面のことなのか。さすがに訊けなかった。

 裏島は本来、三十歳になる。もし外見のことを言っているのなら、二十六歳の彼女と同級生たちは格段に差がついてしまっている。


 そのうえ、年齢も年齢である。結婚や離婚家族が増減したりなど、家庭環境が大きく変化した者も多かったろう。


「私だけ置いていかれちゃった気がするのよね……」


 流れ落ちる髪を耳にかけ、ひどくさみしげな声色で告げた。

 でもね、と続けた彼女は湊へ向き直る。その目と表情に暗さはない。


「親しかった人たち、みんな生きてるの。――生きているうちに、また会えた。たくさん話せたし、これからも会って話せる。だから問題なし!」


 そういって、晴れやかに笑った。

 もとより快活な性格なのだろう。そんな彼女に憂い顔は似合わない。明るい日の光のもとで笑っているのがよく似合う。


 いまは、曇天だけれども。

 わずかに口角を上げた湊の足元に、一つの雨粒が路面を叩いた。

 裏島が雲に覆われた空を仰いだ。


「雨降ってきたね、帰らなきゃ。――ごめんね、長話に付き合わせちゃって」

「いいえ」

「えっと、楠木君、お家の管理人さんよね? ――学生さんじゃなくて?」


 やや信じがたそうな物言いと面持ちに、湊がしょっぱい顔つきになった。


「俺、成人してそれなりに経ってます」

「えっ、そうなの!? 私とあんまり変わらないってこと!?」

「そうですね。俺のほうが下ですけど」


 湊は初対面の時からかなり歳下だと思われているなと察していた。好奇心から尋ねてみる。


「俺のこと、いくつぐらいだと思ってました?」

「てっきり、まだ十代後半かと……」


 しばしの沈黙がその場に落ちた。

 顔を見合わせてヘラリと笑いあった二人の頭上に、パラパラと雨が落ちた。

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