16 山神の御業、とくと御覧あれ
ぱらり、ぱらり。縁側の定位置に寝そべる山神が器用に前足で雑誌をめくる。
気だるげに伏せられた眼、緩慢な仕草。
果たして読んでいるのか、読んでいないのか。
まったく変わらぬ一定の速度で頁をめくる様子から、さほど興味はないことは丸わかりである。
その音をBGMに、座卓に向かう湊は、真白の名刺に一筆、一筆、心を込めて書き記していた。
心地いい風が一人と一柱の合間を通り抜けていく。
そんな穏やかな時間が流れていた平穏な楠木邸の庭だったが、突然終わりを迎えることとなる。
ピタリと止まった規則正しかった紙の音。
代わりにぐるぐると低く喉を鳴らす音。
次第にうなり声へと変化し、どんどん高まっていく。
不穏な気配。
さりとて湊は表情一つ変えず、名刺の束から一枚取り上げたまっさらな名刺を手元に置いた。
準備完了。時を待つ。
「ぬぅ、ぬかったわ、この我としたことがっ。かような事態を想定しておらぬとは、なんたる怠慢か!」
先ほどまでのだらけた姿とは一変、眼をギラつかせ、牙を剥き出し、射抜かんばかりに雑誌を睨みつけている。
手持ちぶさたの湊の指先で、ペンが回転し始める。
人差し指から中指、中指から薬指へ。
くるりくるりと移動していく。
「情報収集は戦の要ぞ」と悔しげな声。
憤懣やる方なしと特大のため息をつき、ゆるゆると
「……秋の新作とはな」
地域情報誌の見開きに描かれているのは、和菓子屋MAP。
色とりどりの和菓子の写真がちりばめられている。
来たる秋に向け、地元和菓子屋が相次いで新作を発表し、数頁に渡り特集が組まれた豪華版だ。
「薩摩芋、栗……柿……どれもよき……」
うっとりと陶酔した声色で呟くあいだも、絶え間なく動く視線は、断じて一文字足りとも見落としはしない。洗いざらい舐め尽くす勢いで紙面を這い回る。
一方、出番待ちである湊の華麗なペン回しはまだまだ続いていた。
指のみならず手首を軸に回転させ、反動をつけたペンが宙へ飛んだ。
一回転後、逆手でキャッチ。流れるように今度は左手へ。指先を回りながら軽快に移動していく。
ミニバトンと化したペンが指の背、手のひら、甲をくるくると回転方向を変えて回る傍ら、山神が戦慄いた。
「ぬ! なんと! ほ、干し柿の中に栗きんとんだと!? そ、そのような罪深い物があってよいのか。欲張りがすぎよう。……ぬうぅ、惹かれるわい。こし餡こそ至高とするこの我が、な。……だが致し方あるまいて、季節限定物は旬を楽しむ醍醐味ゆえ。左様左様、致し方なし」
山神が幾度も傾き、ペンの回転が止まった。
前足で両側をがっちり押さえつけられた雑誌を、湊が横から盗み見る。
黒い鼻の先、紙面のセンターを飾るは、干し柿。
オレンジの鮮やかな切り口の中心から、とろ~り黄色い栗きんとんが覗いていた。
あれか。
卓に肘をついて伸び上がる。
商品名、店名を覚え、軽く首肯する。
体勢を戻し、ペンを握り直して粛々と書いていった。
こうして毎回、山神の独り言にしては大きすぎる声で選抜された和菓子名を表側、裏側に店名を記していた。
せっかく手土産を頂けるのなら、山神ご所望の品のほうがよかろうという完全なる善意である。
山神は湊が独り言に耳をすませていると、気づいていない場合が多い。
ゆえにいつも気になって仕方なかった和菓子を持ってくる播磨の株は右肩上がり、上昇の一途をたどっている。
眼を伏せ、しみじみと語り続けていた山神は、端から端、隅から隅まであますことなく読み終え、満足げな息をついた。
そしてゆっくり頁をめくった途端、グワァッと黄金をかっぴらく。
「な、なぬっ、越後屋め、新作はこし餡ではなくつぶ餡だと!? なにゆえそのような愚かしい真似を! 貴様のところはこし餡が唯一の売りであろうがッ。し、信じられぬ。……うぬぅ、あんの老いぼれ爺め、ついに耄碌しおったか」
独り言では結構な口の悪さをさらす山神に慣れた湊は、気にも止めず表を書き終え、名刺を裏返した。
しばし毛を逆立てて憤っていた山神であったが、ふと静かになり遠くを見つめた。
かすかに鳴る風鈴の音が過去を呼ぶ。
眼を細め、凪いだ声で穏やかに言の葉を紡いでいく。
「……様々な甘味を食してきたが、いまだ主のところの甘酒饅頭に敵う物には出会っておらぬ。昔から変わらぬあの味、我の甘味の原点たるあの味を、頑固に、忠実に、真摯に守り続ける十二代目よ、まこと大儀である。主に幸あらんことを」
煩悩まみれの自らの願いをかけ、巨躯から金色の光を放つ。
数多の細い光線が鼻先に集束し、渦巻き、球を練り上げていく。
やがて出来上がったのは、美しい白き珠。
湊の拳大ほどのそれが中空で回転しながら金の光を振り撒いた。
山の神が、立ち上がる。
珠を前に強靭な四肢で立つ、その威風堂々とした御姿から神威がほとばしった。
山神を起点に爆風が吹き荒れ、放射状に広がっていく。
振動する窓ガラス。ざわめく神木クスノキ。
御神体たる高山の木々も大きく横殴りにされ、葉が、枝が大空へと飛んでいく。
軒先の風鈴が高く、激しく、鳴り響く。
煌々と光輝く白い長毛がなびき、黄金の瞳が一際強く光った。
そして腹底に響く重低音で厳かに、神託を下す。
「よいか、十二代目。これは我から下賜品である。心して受け取るがいい。最近ちと中身のほうが傷んできたであろう。なあに案ずるな、その憂い、我が即刻、晴らしてくれようぞ。『ワシも、そろそろ引退じゃな』ではないわ。職人たる者、生涯現役ぞ。次代はまだまだ育ち切ってはおらぬ。主の足元にも及ばぬ。今のままでは到底我の舌を満足させられはせぬ」
緩く首を振り、前足を振り上げる。
「精々頑丈な身体になって最期の最期まで、こし餡饅頭作り、次代の育成に励むがよい」
勝手極まる言霊を乗せた珠を、力強くぶっ叩いた。
ひゅごっ。風切り音を立て、豪速球が山の反対側の塀へと飛んでいく。
一瞬ですり抜けて消え去り、跡に残された金色の軌跡が風に浚われ消えていった。
珠が向かった先には、もちろん山神御用達の越後屋がある。
ぱたりと暴風がやんだ。
荒れ狂っていた木々も風鈴も大人しくなり、元の静寂を取り戻す。
名刺とペンが飛ばされないよう、必死に両手で押さえていた湊が安堵の息を吐いて卓に突っ伏した。
どっこらせ、と神の御業を成し終えた山神が、大仰に座す。
後ろ足で踏んで押さえていた地元情報誌を引き寄せ、またもくまなく目を走らせ、ぶつぶつと呟き出した。
湊が新しい名刺を手に取る。
神様ってほんと勝手だ、人間ごときには推し量れん、と思いながら、さらさらと書き記していくのは、当然、越後屋の紅白甘酒饅頭名である。
毎回、店名を書いたものを数枚紛れ込ませているが、どれが選ばれるのかは、播磨陰陽師のみぞ知る。
◇
簡素な包み紙で包装された越後屋の紅白甘酒饅頭。
それを差し出す播磨から受け取れば、全体がほんのりとあたたかく、蒸したてであろう旨を伝えてくる。
甘酒とこし餡のあまやかな香りが鼻先をくすぐった。
当然、座卓についていた山神の尻尾は高速で振られ続けている。
もはや残像が見えない。
越後屋名を記していた名刺を渡す前に頂けたのは僥倖だった。
播磨の身体から力が抜けたのが、湊からも見て取れた。
播磨はいつも異常に緊張しているようで、若干気の毒さを覚える。
傍らにいるのはどれだけ気安くとも偉大なる神だ。人間とは異なる存在であり仕方がないともいえよう。
たとえその姿は見えておらずとも、存在を認識していることは、山神から聞かされずとも湊は気づいていた。
しかしあえて確かめていない。
播磨の態度が硬いのもあるが、用事が済めば雑談などする間もなく、さっさと帰ってしまうせいでもあった。
手土産と引き替えに名刺の束を渡す。
礼を述べて珍しくうっすら笑ってくれたものの、名刺を丁寧にめくって確認し、怪訝な顔になった。
「いくつかペンの種類が違うようだが」
「あ、はい。俺の力ってペンと相性があって力が込め易いのと込めにくいのがあるんです。鉛筆、シャープペン、クレヨンは駄目みたいで。それで今、主に使っているペンよりもっといいのがないかと色々試してみました。問題はないはずですけど」
山神のお墨付きゆえ間違いない。
インクがやわらかいほうが比較的力を流しやすいと知れて、いい発見になった。
書いた物に惜しみなく金を払ってくれるのなら、できるだけ効果の高い護符にすべく日々試行錯誤している。
次は筆ペンを試す予定だ。
播磨は頷き「確かに」と納得し、色鮮やかなサインペンや油性ペンで書かれた名刺を同型の薄いケースにしまう。
祓いの力を一時的に封印する物なのだと以前教えてくれた。
素のままであれば、遭遇した悪霊を勝手に祓ってしまい、いざという時に使えない事態を避けるためだという。そんな心配がいるのかと目が覚める思いであった。
いつもであれば交換後、速やかに暇を告げる播磨であったが、座布団に座ったまま席を立とうとしない。
何か言いたげにためらっているようだ。
湊が水を向けると、ややしばらく逡巡後、しどろもどろに話し出す。
「その……なにか、変な、妙なことは起こっていないか? ……高圧的な男がきたり、妙なモノが家の回りに、きたり、だとか」
「いえ? 特になにも」
首を傾げる。実際何も変事は起きていない。
傍らで山神がそわそわと落ち着きなく巨躯を揺すっていたり、軒から逆さまになった眷属テン三匹がこちらを凝視していたり。
播磨がきたので一時的に屋根に上がってもらった霊亀、風神、雷神がにぎやかに呑んだくれたりしているが、至っていつも通り。
楠木邸の日常風景である。
湊の普段通りの様子を見ながらも、いやに真剣な面持ちになった播磨が、一度山神のほうを見やり、再び湊へと視線を戻した。
「俺を目の敵にしている少しタチの悪い同期がいるんだが、そいつに君の護符を見られて、目をつけられた。すまない。俺の行動を監視するために式神を遣うような奴なんだ。その都度始末しているが、人を雇われた場合は対処しきれない。……身辺に気をつけてくれ」
「……わかりました」
式神なる単語に大いに興味を惹かれたが神妙に答えた。
そんな二人のあいだで、動かざること山のごとしを体現していた山神の視線が緩慢に動き、播磨を捉える。
座卓に置かれていた播磨の手に力がこもった。
「案ずるな。人間が愚かしい生き物なのは昔から何一つ変わらぬ。よく知っておる。たかが一匹の小物ごときに後れを取る我ではないぞ」
実に頼もしいお言葉であったが、涎まみれでは威厳の欠片もなかった。
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