32 あっつあつ甘酒饅頭を求めて 2

 

 しゃなり、しゃなり。小狼が体躯に似合わぬ優雅な足取りで一直線に越後屋屋台を目指す。

 さすれば割れていく黒山の人だかり。

 さながら異国の民族指導者が起こした奇跡、海割りのごとく。


 山神が屋台の前に座り込んだ。

 ほんの二メートル先で、蒸し上がった蒸籠の蓋を開けたのは、白衣の越後屋十二代目。静かに見守る山神には気づいていない。


 深く刻まれたシワはあれど、健康的に艶めく相貌。

 むせ返るほどの蒸気を浴びながら「おお、ええ感じじゃ」とふっくら蒸し上がった甘酒饅頭にさらにシワを深めた。


 湊が半どら焼きだけでは到底足りぬ、と息巻くひよこをなだめて肩に乗せ、山神の隣に並ぶ。


 区切られたテント内で、以前、越後屋本店に赴いた際、痩せ細っていた翁が、その身の立派な太鼓腹を揺すって笑っている。


「……お元気そうで、なにより……?」

「越後屋め、調子に乗りおって」


 逆の意味で心配な身体つきになっていた。

 まるで別人のようだ。

 小狼が地面に向かい、盛大に嘆息する。


「こやつは胃が傷んだばかりに、好物の揚げ物を一切食べられなくなってな。すっかり意気消沈し、身も心も弱っておったのよ」


 ついでに言えば、趣味はラーメン屋巡り。汁一滴すら残さない健啖家であったという。


 人は死を定められし生き物である。

 産声をあげた瞬間、すでに死ぬ日時は決められている。山神はその理をねじ曲げ、寿命を引き延ばすことはできない。


 ただ、最期の時まで健康で過ごせる身体にすることは可能だ。


 山神のわがままによって無理やりその恩恵を授かった翁は傷んでいた胃腸が見事、復活。大いに食を楽しんでいるのだろう。いささか楽しみすぎているようだが。


 蒸籠から饅頭を取り出しかけていた翁が不意に横を向き、湊を見やる。


「どうじゃ、お一つ、いらんかね」


 愛想よく笑うその赤ら顔が、そこはかとなく悪事を企てていそうに感じるのはなぜなのか。妙に親近感を覚え、内心首を傾げる。

 湊が視線を落とすと、見上げる小狼と目が合った。


「二パック」

「二パックください」


 注文を受け、十二代目が片頬を引き上げ、ニタリとほくそ笑んだ。

 それから淀みなき動作で、蒸したてほやほやの甘酒饅頭がパックに詰められていく。

 ぷっくり膨れた艶やかな生地。甘いあんこの香り。


 ちび尻尾が絶え間なくアスファルトの清掃に勤しんだ。


「最初のお客さんじゃからな、蒸したてを一個おまけしとくよ」

「ありがとうございます」

「そういえば、兄ちゃん、以前うちにきたことあるじゃろ。あのお山の近くに越してきたと言うておったか」


 遠くに霞んで見える山神の本体を指差して訊かれ、肯定しながらも、よく覚えていたものだと驚いた。

 翁がパックに輪ゴムをかけていく。


「もう、お山には入られたかの?」

「はい、何度か」


 素早くあたりに視線を投げた翁が、声をひそめた。


「では、お会いになられたか」

「……誰とですかね」

「お山におられる御犬様じゃよ。御犬様」

「我、狼ぞ」


 わずかに身を乗り出す十二代目には、山神の突っ込みの声は聞こえていない。湊はなんとなく察したがあえて尋ねた。


「……いいえ。御犬様とは?」


 嘘はいっていない。犬には会ったことはない、犬には。


 おや、と意外そうに越後屋は白髪の眉を上げた。

 そうして、なにがしかの悪事を打ち明けるかのごとく、声を落として過去を語り始めた。


「あそこのお山には、それはそれは親切な御犬様がおるんじゃよ。あれはそう、ワシがまだまだ血気盛んであった頃――」

「洟垂れ小僧であったわ」

「山中で迷うてしまいましてな。いやあ、若気の至りですな。それで日も傾き、腹が減るわ、喉は渇くわ、疲れたわで途方に暮れておったら、突然木立ちのあいだから現れた巨大な白い犬に吠えられて、びっくり仰天。飛び上がって闇雲に逃げたんじゃ」

「山頂に向かって逃げるうつけは主ぐらいであったぞ。我は狼である」

「それから、地鳴りに似たひっくい声で何度も何度も吠えられて」

「主が明後日な方向に逃げ惑うからであろうが」

「しまいには後ろから追いかけられて」

「ようやく軌道修正を図れて、我、一安心」

「必死に逃げて逃げて、気がつくと、山の麓に辿りついておったというわけじゃ」

「長い、長い道のりであったぞ」

「その時になって初めて麓まで送ってくれたのだと気づきましてな。まあ、そこは登った場所からえらく離れておったがの」

「贅沢をぬかすな」


 山神は、不遜に鼻を鳴らす。

 越後屋は、うんうんと頷きながら、悪辣そうな笑みを浮かべていた。


 湊は笑うに笑えず震えている。

 その肩に器用に乗る鳳凰は退屈なのか、片翼を上げて羽づくろいをしていた。


 ビニール袋を差し出されて受け取ると、翁がこそりと囁く。


「あれはきっと物の怪『送り犬』じゃよ」

「我は山神であり、狼だと再三申したであろうが。相変わらず主の頭には、おがくずが詰まっておるようだな」


 呆れた口調だが、その声色は優しくもあった。


 山神は越後屋に姿を見せることも、声を聞かせることもやろうと思えばすぐにできる。

 だがあえてやらない。

 聞こえていなくとも一向に構わず、声をかけて遊んでいるのだった。


 湊は半笑いで誤解は解くまいと思う。

 送り犬ならまだしも、送りウルフになると字面があらぬ意味になってしまう。


 越後屋は片側の口角を吊り上げた。


「たとえ物の怪であろうと助けてくれたことに変わりないからの。ありがたいことじゃ。だからワシは感謝を込めて御犬様と呼んでおる。送ってもらった場所にちょうどお地蔵さまがあってな、そこによく饅頭を供えておるんじゃよ」


 ククク、と悪代官もかくやの含み笑いとともに太鼓腹をぶっ叩き、波打たせた。


 そのあいだ、山神はといえば、湊の手に提げられたビニール袋に釘付けである。

 山神様にチロリと上目で促され「俺も御犬様と会ってみたいです」と白々しく返し、お代を払う。


 「また本店にも伺います」と声をかけてご機嫌の翁に見送られ、人の流れに沿って歩き出した。


 正面から小走りできた体格のいい少年が、弾む足取りで尾をゆらめかせる山神の横を通りすぎる。


「ごめん、じいちゃん。遅くなった」

「なに気にするな、部活のほうが大事じゃろうが」


 歩を進めれば、越後屋十二代目と後継者である十三代目の会話が遠退いていった。




 両側に並ぶ様々な屋台を冷やかし、会場の奥へと進む。

 人が避けて開けてくれる道を長毛をなびかせてまっすぐ歩む小狼と、すれ違った女子高生と思しき黒髪の娘が立ち止まった。


「なんだろう……。すごくいい香りがする」

「え、どんな?」


 ともに歩いていた茶髪の娘も立ち止まり、不思議そうに首を巡らせて周囲の匂いを嗅いだ。

 こちらは怪訝な表情になる。

 黒髪の娘が深く息を吸い込み、微笑んだ。


「山の香りがする」

「えー? ……しないけど」

「わかんない? すごくいい匂いじゃない」


 後方の彼女たちの会話を聞きながら湊が、かすかに口端を上げる。どうやら黒髪の娘は山神の香りに気づいたようだ。


 実は山神、森林の香りがするのである。


 常にその体から振り撒かれている香気は、安らぎと癒やしを与えてくれる。

 おかげで山神が居座る楠木邸は、芳香剤要らず。

 窓を開けておけば、室内隅々までその恩恵を受けられるというお得具合だ。


 ついでに言えば、神の獣ゆえに抜け毛もない。



 屋台が途切れると、いくつものテーブル席が並ぶエリアになっていた。


 整然と並ぶ席はおおむね埋まっている。

 その椅子の一つに曲がった背中を預けた老女が、テーブルの合間を縫って歩く山神を凝視した。

 慌てて草団子を放り出し、小狼に向かって手を合わせる。


 最初の頃、湊は山神に教えられた。

 神がいくら己の身を隠そうとも、信心深く心の綺麗な者には、五感のどこかで察知されてしまうのだと。


 一心不乱に念仏を唱える老女に黄金が向く。

 ばちりと大きくまたたき、まばゆい星屑を放つ。

 老女が雷に打たれたように背筋を伸ばし、声もなく落涙した。


「ば、ばーちゃん、どうして泣いてるの。そんなに団子美味しかった!? まさか詰まった!? っていうか、なんで姿勢よくなってるの!?」


 孫と思しき年端のいかない少女が驚愕し、向かいの席から立ち上がった。


 そんなちょっとした騒ぎを気にすることもなく、歩みを止めない小狼が向かうのは最奥、中央の席。


 鴉の群れが囲う丸テーブルである。


 もちろん椅子には誰も座っていない。

 二十羽はいるであろう鴉たちは騒ぎもせず、大人しく出迎えてくれる。気をきかせて場所取りをしてくれたようだ。


 鳳凰が己を見つめる鴉たちを一通り眺めやり、至極満足げに胸を反らした。


 席まであと三メートル。小狼の体が浅く沈んだかと思えば、ぴよ~んと華麗にジャンプ。

 微動だにしない鳥たちの頭上を軽々と跳び越え、テーブルへと着地。

 すたすたと歩いてど真ん中に腰をおろした。


 まさか山神を地べたで食べさせるわけにはいかない。今は小さいゆえテーブルに乗るしかないだろう。

 それにしても相変わらずのセンター好きである。


 テーブルを囲っていた二羽の鴉が軽く跳んで場所を開けてくれる。軽く会釈した湊が、テーブルに近づき、ガサガサと音を鳴らし、ビニール袋から甘酒饅頭を取り出す。


 早速とばかりに小狼が眼前の饅頭にかぶりついた。


 鳳凰も湊の肩からテーブルへと飛び下り、よちよち歩いて端に止まる。

 見上げる数羽の鴉がしきりに何かを訴えると、ふんぞり返った鳳凰が鷹揚に頷いた。


「美味。ぬう、越後屋め、また腕を上げおって。やりおる」


 そう悦に入っていた山神だったが、ひよこの背を一瞥し、忍び笑いをもらす。

 椅子に座った湊がボディバッグからお茶のペットボトルを取り出し、浅皿に注いで山神の横へと置いた。


「鴉たちなんて?」

「『おさ、近くに穴場のゴミ捨て場があるから、一緒にいかない?』『それはお前たちの大事な馳走だろう。余は遠慮しておこう』」


 微笑ましい内容だった。

 だがいかんせん鴉にとって、とっておきのご馳走であったとしても、なかなかの美食家である鳳凰にとっては、満足できる物ではあるまい。


 湊は苦笑しながら、どら焼きを手に取った。

 断られた鴉たちは残念そうであるものの、長の近くにいられるだけでもうれしそうだ。


 頭上をひっきりなしに飛び交う鳩や雀たちが気にはなるが、降りてはこない。順番制なのかもしれない。

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