25 続・春の悪霊祭
廃病院の一室。随所に医療器具、それ以外の物まで散乱し、壁や床がヒビ割れ欠けている。
そんな室内の中、獣の形を成した悪霊が縦横無尽に駆け回る。床、壁、天井を足場にして勢いをつけ、戸口近くの播磨に襲いかかる。
その俊敏な動きを肉眼で追うのは、極めて難しく、なかなか狙いを定められない。
調子に乗った悪霊の速度が増す。何度もすんでで身を翻し、鼓膜を引っかくような奇声をあげる。挑発行為を繰り返した。
壁面を蹴りつけ、迫りくる。その悪霊の顔面に播磨の革手袋をはめた拳がめり込んだ。あっさり的にされた悪霊は、一瞬、膨張。破裂。そして霧散した。
その拳が触れる間際から、すでに輪郭は崩れかけていたけれども。
「やはり、こちらのほうが手取り早い」
播磨が拳を握り直せば、キチリと新しい革が鳴った。
相手は形を成した中級悪霊だった。
こちらを襲う気概を持つモノは久々で、そこそこ殴り甲斐があった。
満足そうに播磨はうっすら笑う。
とはいえ、その目許には黒々とした隈が居座っている。
悪霊祭が始まって、早二週間。湊の護符を仕込み、直接殴って祓う戦法に切り替えたばかりだ。
九字護法は、スピード勝負には分が悪い。
簡易版であれ通常版であれ、印を結ぶ時間がかかり、広範囲に放つのも霊力の消費が激しく、そうそう連発できるものでもない。
ゆえに手袋の下、靴底にも、護符を仕込んで悪霊を殴って、蹴って祓っていた。
手袋は新たなアイテムである。
以前の物とは異なり、護符の効果を半分にしてくれる代物で、持続時間も長めになる。
護符は消えモノであり、湊が手の甲に書いてくれるのはサービスのため、毎回書いてもらえるわけでもないからだ。
播磨が部屋を突っ切り、隣室に向かう。
戸口から一歩踏み入った所で、真正面から人型の黒い塊が四つん這いで突っ込んできた。目にも止まらぬ疾さで迫ってくる。難なくその頭部を蹴り抜いた。
頭上から、左右から次々に襲いくる悪霊の頭部目がけ、両の拳で容赦なく殴り、ためらいなく両脚で蹴り祓っていく。
主に頭部狙いなのは、真っ先にそこが己に近づくからである。
何もわざわざ、殴ったり蹴ったりしなくても、護符一枚ケースから取り出せば、すぐに一掃できる。
だが、やらない。
ストレス発散もかねて……いや、護符節約のためである。
いくら湊の護符が破格の値段で手に入るとしても、タダではないのだ。
傍から見ても丸わかりなほど、播磨はいきいきと戦っていた。まさに水を得た魚のごとし。
されど、その除霊方法は、過剰な暴力にしか他者には映らない。
「いやぁ、楽しそうなことで……おっさん、ちょい引くわ。武闘派、怖いねぇ」
廊下に湧く悪霊を護符で祓っていた葛木が、ぽそっとつぶやいた。
◇
悪霊が巣食う廃病院は三階建てだった。
元総合病院は部屋数も多く、さらには別棟も併設されており、播磨と葛木だけでは到底手が足りない。
今回、大人数で除霊に当たっていた。
当然ながら、一条と堀川の二人もきていて、二階を担当していた。
三階を祓い終えた播磨と葛木が、階段を下りる。
二階は素通りし、一階への階段に足を向けた時、背後から一条の大声が聞こえた。
何をいっているかは判然としなかったが、危機的状況な感じでもなさそうだ。恫喝するような語調だった。
播磨と葛木が目を見交わす。
「気合でも入れてんのか、技名でも叫んでんのか……。あいつは静かに仕事をこなせんのかね」
「派手好きなせいでは?」
「だいぶ違うような気もするが……まぁ、一応いくか。堀川が気になるしな」
「……そうですね」
正直、己が恋心を自覚してしまった一条は、前以上にうっとうしいから近づきたくない。
何を勘違いしているのか、見当外れの
本当は今日、播磨は堀川と組む予定だった。
むろん一条によって無理やり変更された。播磨的には、葛木とのほうが慣れも親しみもあるため、構わぬのだが。
「堀川さんに近づく異性全員に牙をむくのは、さすがに正気を疑いますよ」
「十代の頃、ろくに恋愛してこなかった弊害でもあるんだろうな。まあ、自覚してなかっただけで長年想ってはいたんだろうが……」
やつの恋愛事情は……と一応、幼馴染みでもある播磨は脳内で検索をかけた。結果、何一つ引っかからなかった。かすりもしなかった。
それもそのはず。なぜなら――。
「一切興味ないので、記憶にないのは当然でした」
「切ないねぇ。三歳の時からの長い付き合いなのに……」
葛木は憐れむように告げ、一条たちのいる室内に踏み入った。
同時、そこそこ強い悪霊が堀川に飛びかかっていくところだった。
堀川は
咄嗟に横へと避けようとした彼女だが、脚をもつれさせて尻もちをつく。
背中合わせだった一条が振り返りざま、刀印を結んだ手で悪霊を指した。即座、黒い塊が散り散りに消し飛んだ。
けれども、その威力は、先日の半分もない。
加減を知らぬ男は、毎回全力で除霊している。いかに並外れた霊力の持ち主であろうと、無限にあるはずもない。こちらも疲弊してきていた。
そんな中、己が想い人の危機を救ったのである。
堀川へと手を差し伸べるその顔が、得意げなのも仕方ないことなのかもしれない。
そっと葛木が踵を返し、とっくに先を歩む播磨の無情な背中を追いかけた。
「いやぁ、春だねぇ」
「ですかね」
「しっかしまあ、一条の態度が変わったからとはいえ、彼女が受け入れるとは思えんがね」
「無理でしょうね。長年耐え続けた心のキズは目に見えないだけに深いと思いますよ」
差し伸べられた一条の手を、堀川はさも嫌そうに見ていた。以前と何も変わらぬ一貫した態度を思い出しながら、二人は二階をあとにした。
階段、そして踊り場にも悪霊ははびこっている。
床に広がる大きな茶色いシミは、元は一体なんだったのか。知りたくはないと思い、播磨はそこを避けた。
葛木の前を這って進む式神五号――クジラが、大口を開けて悪霊を丸呑みしていく。おかげで悪霊は消えていっているものの、空気も雰囲気の悪さも変わらない。
人の情念が残っているせいだ。
それは、ひどく重苦しく、息苦しさを覚える。特別な力を持たずとも感じ取れるものである。
元病院は、人の悪感情が残りやすい場所だ。
この世への未練を断ち切れず、ここから出ていくこともままならないモノも少なくない。
ただ除霊しただけではどうにもならない。その場全体を浄化しなければ、完全に払拭できないものだ。
播磨及び現代の除霊専門である陰陽師では、どうしようもないのだった。
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