第4話覚悟の入学式③
それは今から九ヵ月程前。
祐人が体調を崩して学校を長期に休み、復帰してすぐの時である。
「痛てて。孫師匠~、僕は復帰したばかりなのに容赦ないもんなぁ。酔っ払いの癖に……」
祐人は一人愚痴りながら、自室で体のあちらこちらに出来た痣に、湿布薬を無理な体勢で張ろうとしている。
「祐人、入るぞ。……ん? 何をやっている?」
襖が開き、そこに袴を身につけ顎鬚を蓄えた老人が入ってくる。身長は低く体躯も随分と細く見える。しかし、顔は生気に満ち、眼光も厳しさと強さを併せ持っていた。
祐人の祖父、堂杜纏蔵(どうもりてんぞう)であり、この剣術道場の主でもある。
「ちょっと孫師匠にね。って何? 爺ちゃん。あ痛たた……」
「ほう……孫韋(スンウェイ)は甘いな。……まあいい、祐人。重要な話があるから、ちょっと道場に来なさい」
祐人は、修行と称しては祖父の纏蔵や、その纏蔵の友人の孫韋に、茉莉すらもよくは知らない荒行をさせられていた。
それは堂杜家の持つ、もう一つの顔に関係する。そのため祐人はほぼ毎度、修行後は生傷が絶えたことはなかった。
祐人は湿布を貼り終えると、纏蔵に言われた通り、道場に向かう。
三十畳ほどある道場に、纏蔵は硬い表情で上座に座り、その前に敷かれた座布団を指す。
「そこに座れ」
「何? 改まって。母さんのことなら……僕はもう、大丈夫だよ」
祐人は少し寂しそうな表情を見せて笑い、言われた場所に正座をした。
纏蔵は一瞬、眉を顰めたが、元の硬い表情に戻る。
「……その事ではない。あーオッホン! 確認だが、お前……高校に行く気があるか?」
纏蔵の不躾な質問に、祐人は意味も分からず応答する。
「え? いや……一応行くつもりでいたけど。何で?」
「……そうか。それでは単刀直入に言うが……」
纏蔵は祐人を正視する。
「お前を高校に行かせる……というより養うお金が無い」
「は?」
祐人は何言っているの? この人は、という顔になる。その祐人の表情に纏蔵は苛立ったように声を上げる。
「何度も言わせるな。だからお金が……無いと言っている!」
「な、どういうこと!? 意味が分からないんだけど! 蓄えはあるよ! 僕がちゃんと管理しているもの! 父さんと母さんが僕の口座で、十分なお金を残してくれていたじゃない!」
あまりの突然の話に、祐人は体を乗り出して纏蔵の言うことに反論する。
そして、纏蔵を見返して説明を求めるようにしていると、その纏蔵は返事もせず、視線を泳がせて額から汗を流していることに気づいた。
(ん? んんんん? 何? その挙動不審な態度は……この人は……まさか!)
祐人は、勢い良く立ち上がると纏蔵を残し、道場を飛び出して自分の部屋に駆け込んだ。
ずっと堂杜家の生活費として、祐人が大事に管理してきたお金だ。無い訳がない。十日程前にも一回、生活費を下ろしている。
(あのお金は、父さんと母さんが残した大事な……)
堂杜家の持つ特殊性から、祐人は両親と一緒にいられることが、ほとんどなく過ごしている。
だが祐人が小さい頃、小学校低学年くらいだったか……。期間は短いが父と母と一緒にいた時期があった。祐人の脳裏に、その時の光景が浮かんでくる。
父親と母親が祐人の目線に合わせるように優しい表情で体を屈め……それでいて申し訳なさそうに祐人に話しかける。
「祐人。父さんと母さんは、皆のためにしなくてはならないことがあるの」
「みんなのために?」
「そう。まずは何より祐人のため。その次に皆のため、そして堂杜家の義務。だから、一緒にいられない時もあるかもしれないの。それでも祐人は我慢できる?」
幼い祐人は、少し考えるような仕草の後、ニコッと笑顔を見せる。
「我慢できるよ! 祐人は強いから大丈夫!」
その笑顔を見て、父親は小さな祐人を両手で空に掲げ、眩しそうに息子を見つめる。
「……偉いな! 祐人は!」
母親は目に潤むものを隠すようにして、小さな祐人の視線の高さに合わせた。
「祐人……。ちょっと早いかも知れないけど祐人にこれを預けるわ。大事に使ってね」
まだ祐人は幼かったが、これが銀行通帳だということぐらいは分かった。
「それと祐人……。これは絶対に――――ちゃだめよ」
(あれ? そういえば、あの時、何かを止められていた様な……何だっけかな?)
その後、通帳に記載されている金額を見て、小学生ながら額の大きさにひっくり返った。
子供心に“能力者”って……儲かるんだな、と思ったものだった。
祐人は自室に入ると、慌しく通帳を入れていた自分の学習机、鍵付きの一番上の引き出しに手を掛ける。
(……あ、開いてる)
祐人は非常に嫌な予感がし、乱暴に中を確かめた。
「無い! 無い無い。無ーい!」
犯人は考えるまでもなく分かりきっている。この家には二人しかいないのだから。
猛スピードで道場に戻るや、祐人はまだ静かに座していた祖父の纏蔵に詰め寄った。
「爺ちゃん! 通帳をどこにやった! 説明しろよ! あれは大事な……」
纏蔵は至って冷静な表情で、そして眼光も衰えずに、
「まあ、落ち着け……」
「あ……(そ、そうだよな。何か理由があるのかも知れない。落ち着け、僕)」
祐人は、その纏蔵の落ち着いた態度で、何とか平静を取り戻した。
いくら、この爺さんでも、それは困ったことは数知れずあった……。そう、数知れずあったが、いやー本っ当に数知れずあったが、今回の今回は、さすがにと思い直す。
祐人が再度、座布団に座ると、纏蔵は重々しく息を吐いた。
「では、説明しよう」
纏蔵は目を瞑り、長い沈黙。
そして、鋭く目を開けた。
「使っちゃった」
二人の間に流れる空気が凍る。
「は?」
「だ・か・らー、無いの。お金」
「…………!? はあーん!?」
目の前で、いい年齢した人間が「テヘ!」と、はにかんでいる。
祐人の頭の中は完全にホワイトアウト。そして、数秒してようやく意識が戻ってくる。
「い、意味が分からないよ!! 爺ちゃん! いや、じゃない。どうすんだよ! そ、それに使いきれるような額じゃないぞ! 何に、何に使ったんだよ! そうだ、通帳! 通帳を返せ!」
纏蔵は目を伏せながら、道着の懐から通帳を取り出し、恐る恐る祐人に両手で渡す。
祐人は、その通帳を乱暴に取り上げて中を確かめる。十日前に見たときには問題はなかった。
大金が入っていたが、根がまじめなこの少年は無駄遣いをせず、道場の少ない収入と合わせて上手に倹約をしてきた。そのため、祐人は有能な主婦としての能力も磨き上げられている。
祐人は通帳の最後のページに記載されている金額の確認を急ぐ。
祐人の通帳を捲る手が止まり、そこに二日前の日付で最新の金額が記載されていた。
「……3……円? 3……さん、参、散、惨……」
祐人の焦点が合っていない。
最後の方はブツブツと、呪文のように同じ言葉を繰り返している。
「祐人? おーい祐人。ひ・ろ・と! ……大丈夫か?」
近付いてきた纏蔵に、祐人はギギギと顔を向ける。
「だ、大丈夫なわけ……」
まだ小さな声だったので、纏蔵は祐人に耳を向けて近寄る。
「あるかーーーーーーーーーー!!」
「わわわ!」
「金を、いや、僕の青春を返せ! 僕の未来を返せ! 何に、何に使った! 吐け! 吐け!」
道着の襟を掴み、力いっぱい前後に振ると、纏蔵の頭が上下にガクガクと大きく動く。
「待て! 待て! 落ち着け、祐人! あ、首が! 首が!」
数分後。
まだ祐人の息は荒いが、何とか人の言葉を聞ける状況になっていた。
祐人と纏蔵は先程と座っている場所も逆になっている。
纏蔵は落ち着かない感じで、上座を陣取る祐人の前で正座をしている。膝の上で忙しなく指を絡めては解き、絡めては解いていた。
「爺ちゃん。あのお金は父さんと母さんが残してくれた、大事なお金なのは知っているよね」
「…………」
纏蔵は俯きながら返事をしない。祐人は拳を震わせて自分の膝を叩く。
「しかも! 分かっているでしょ! 父さんは今も魔來窟(まらいくつ)の向こうで……魔界で体を張って、堂杜家の役目を果たしているんだよ! もし、その父さんが帰って来た時に、この惨状を聞いたら……」
「…………」
纏蔵は未だに俯きながら、指を無用に絡ませて弄っている。
その様子に祐人は、ふうーと大きく息を吐いた。
「それで……取りあえず何に使ったか、ちゃんと教えてくれる?」
纏蔵は正座を崩さず、下を向きながら、一言。
「……競馬」
「競馬だぁー? それだけで使える額かぁー!!」
「ひー!」
まるで、虐待を受けるかわいそうな老人のような声が上がる。
それに対して祐人は、何とかもう一度、息を整えた。そして、極力冷静な声で尋問を続ける。
「他には?」
「飲み代」
祐人の額に血管が軽く浮き出る。
「……他には?」
「株」
「かぶ?」
「ちょっと知り合いがおってな。そやつが良いネタがあるというので、折角だからこのお金を増やそうと思ったのじゃ!」
「……それで、どうなったの?」
「それが……運悪く、その会社が投資してすぐ倒産してしまって……。くっ」
悔しい! といった感じで、纏蔵は床に拳を突きつける。
祐人の額の血管は、血液が見えるくらいに膨れ上がった。
「……ほほほ他には?」
さらに尋問すると、纏蔵はちょっと頬を赤らめてモジモジしている。
そして上目遣いに、
「……えーと、その、えーと……へへへ」
「な、何? その気持ち悪い反応は? はっきり言いなさい!」
「そ、その……向日葵ちゃん?」
「ひまわり? 誰? それ……うわ! って何!?」
突然、纏蔵は涙を溜めながら、祐人の膝に飛びつくように抱きついてきた。
「かわいそうな子なんじゃ! 小さな子供を二人も抱えて、自らは夜まで働いて……。家賃を払うのもやっとで……でも健気に、気高く、迷わず、まっすぐに生きている。そんな子なんじゃ!」
「ちょ、ちょっと! 爺ちゃん」
纏蔵は、その細い腕からは想像もできない力で、慌てて立ち上がろうとした祐人の膝を抱きかかえる。
「そんな子を見過ごすことができるか? そんなことがお前にできるのか? 儂達は男じゃ。何とでもなる。でも、彼女は? 小さい子供達はどうなる? えー?」
「な、何のことか分からないよ! ちょっと……まずは離れてくれぇー!!」
纏蔵の話は、だいぶ支離滅裂だったが、何とかまとめてみる。どうやら、その向日葵ちゃんというのは、纏蔵の行きつけのスナックで働いている女性のことらしい。
小さな子供が二人おり、子供の面倒を見て、寝かしつけた後に、夜から朝まで働いているとのことだ。纏蔵は、随分とこの女性に入れ込んでいるらしく、通い詰めて身の上相談を受ける仲にまでなったらしい。
とはいえ、いきなり親族でもない人のそんな話を聞かされても、中々、感情移入ができないものだ。
しかし、このお人好しの少年の性格を、この老獪な祖父はよく理解していた。立っている祐人の下から、顔を見せないように策士の目を光らせる。
そのようなことは露知らず、祐人は完全に動揺していた。
そして、祐人はその小さな子供達を想像してしまう。自分も両親が家にいることは少なかった。だが、自分にはこんなでも祖父の纏蔵がいた。両親が残したそれなりのお金もあった。
もし、それらが無かったなら……。
そんな不幸話は掃いて捨てるほど、あるだろうということは分かっている。
でも……。
祐人の表情が複雑に曇っていく。纏蔵はその様子を下から感じ取り、口元を歪ませる。
「だがな、向日葵ちゃんは儂からの援助の申し出を断った。たとえ、どんな苦労があろうとも人様から理由も無く、助けて頂く訳にはいかないと言ってな。明日をも知れない状態なのにじゃぞ! えらく遠くに住んでいて、体だって無理をして……くっ」
纏蔵は祐人から離れ、涙を拭うような仕草をした後、それはわざとらしく、遠くを見つめる。
「悩んだ儂は、近くに格安のアパートがあると言い、そこに住まわせたのじゃ。本当は家賃のほとんどは儂が負担している、ということは伝えずにな……」
「…………」
「そうしたらな……小さな子供達が儂に抱きついて言うのじゃ。“ありがとう! 堂杜のお爺ちゃん。私達、大きくなったら必ず、このお返しをするね!”とな。十一歳と七歳の女の子がじゃぞ!」
これ以上涙を見せまい、という感じで顔を祐人から背けて、纏蔵は震えた声で話し続ける。
その姿も何ともわざとらしい。傍から見ると、まるでコント? なのだが……。
で、祐人はというと……
目頭が完全に熱くなっていた。
手を目に当てつつ、言葉が出てこない状態。
その様子から、纏蔵はすべてが計画通りに進行したことを悟った。
「そうだったの……爺ちゃん……」
「分かってくれなくとも良い! だが儂は……せめて、あの子達の住む所だけでも、と思っての……」
纏蔵は、祐人の前で体を小刻みに震わしている。これも、いかにもわざとらしいのだが、スイッチの入った未熟な少年は、それに気付くことはできなかった。
涙目の祐人は、纏蔵の前で膝を折って手をそっと取り、纏蔵の目を見つめる。
「爺ちゃん……分かった。僕、高校は諦めるよ。その子達がそれで救われるなら……僕は、働きつつ、堂杜家の役割を全うするよ!」
この上ない真剣な顔。
少年の覚悟を決めた、美しい心意気が見えるようだった。
だが突然、纏蔵は祐人の手を厳しく振り払い立ち上がった。
「馬っ鹿も―――ん!!」
「へ!?」
祐人は驚いて、纏蔵を見上げる。
「儂は! そんな簡単に高校を諦めるような男に育てた覚えはないぞ!」
いつの間にか、立ち位置まで入れ替わっていて纏蔵が元の上座にいる。
「でも、お金が……」
「お金がなんだ! お金が無ければ、ハイそれまでと何でも諦めるのか! 情けないぞ、祐人!」
そのお金を誰が使ってしまったのかという議論は無い。
「男というのはな。どのような逆境でも諦めない。そして結果を出す……そういうものじゃ。常に最悪の状況を頭に入れ、それに応じて先を読む。それでも堂杜家の男か!」
その最悪の状況に叩き込んだのは誰か、という議論はそこには存在しない。
「そ、そうだとは思うけど。道場の収入じゃ、二人の生活費を賄えるかどうかというものだし……。今からお金を溜めるにしても、中学生の僕じゃ、どこも雇ってもらえないよ」
纏蔵は仕様のない奴といった調子で腕を組む。
「仕方あるまい……。実はな、儂の知人に、ある私立高校の校長がおるのじゃ。その知人がな、学費及び教材費、制服、修学旅行等々まで、すべて出世払いで構わないと言ってくれておる。知っておるか? 吉林高校を」
「え……吉林高校? す、すごいじゃないか! 名門校だよ。蓬莱院吉林高校っていえば、学年でも結構な成績じゃなきゃ入れない高校だよ。そんなところに入学できるの?」
祐人は信じられないと驚き、元来、不幸体質のこの少年は、これは意外にラッキーかもと思ってしまう。
「誰が入学できると言った?」
「え? 今、出世払いで構わないって……」
「それは受かったら、の話じゃ」
「……というと?」
「実力で受かったら、学費諸々は出世払いで良いということじゃ。そうか、そんな難しい高校とは知らんかったぞい。まあ、今から一生懸命勉強せい。カッカッカ!」
「ちょっ、僕は、ただでさえ長期に学校を休んでいたせいで勉強が遅れているのに、そんな難しい高校を実力で?」
「もう泣き言か? お前が高校生になるには、もうその高校しかないのじゃ。高校生になりたいのなら、頑張るしかなかろうが」
今、纏蔵は完全に主導権を掌握している。
「それと高校に入ったら、お前には一人暮らしをしてもらう」
「えー! 何で?」
「我が家には、お前を養うほどの余裕はない。儂の道場の収入では、さすがにきついしの」
さり気なく、道場の収入はすべて自分だけのもの、ということを強調する纏蔵。
「で、でも僕はどこに住むんだよ! バイトをしたとしても、すぐには収入はないよ!」
纏蔵は大きく溜息をつく。さすがに祐人もイラッとした。
「儂の知人に不動産屋もいるから、頼んで格安の物件を用意しよう。お前も今年十五歳になるのだから、堂杜家の男として独り立ちするには丁度良いじゃろう」
お前が独り立ちしていないだろうと突っ込みたくなったが、祐人は急展開に呆然とする。
事態の展開について行けていない孫に対し、力強い態度の纏蔵は、これ以上の話は不要と道場を出て行こうとする。
祐人からは見えないが、その纏蔵の顔は完全勝利といった感じだ。
そして、道場の襖に手をかけたところで、纏蔵はすっと足を止めた。
「あ、そういえば、一昨日に聞いたのじゃが、茉莉ちゃんの志望校でもあるらしいぞ、その吉林高校は。頼んで勉強をみてもらえばよかろう」
呆然としていた祐人は、それを聞いて、ピクッと反応する。
「ま、茉莉ちゃんが? い、いいよ。自分でするよ」
その態度に、纏蔵は何か思い当たる節があるのか、意地の悪い顔する。
「んー? 何じゃ、茉莉ちゃんに振られでもしたのか? まったく……。それなら教えてやろうかの。茉莉ちゃんの好みはな、ああ見えて、実はグイグイ自分を引っ張ってくれる男が好きなんじゃ。経験豊かな儂にはすぐに分かるのじゃがな。まあ、お前と正反対のタイプじゃな」
「関係ないでしょ!」
「まあ、頼みづらいのなら、儂から言っておいてやるぞ。ほっほっほー」
「だから、やめてって!」
纏蔵は満面の笑みで、襖を開けて出て行こうとする。
そこでふと、祐人は先ほどの話が気になった。
(その向日葵さん? 今はどうなったのかな? 少しでも生活が良くなっていればいいのだけれど……)
「で、爺ちゃん? その向日葵さんは、今どこに住んでるの?」
「ああ、今は駅前のマンションに……あ!」
「え? 駅前のマンション? さっきアパートって言わなかったっけ? うーん? いや、最近出来たあの新築の高層マンション……」
顎に親指をつけて、考え込むような顔になった祐人。先程の堂々とした態度が打って変わり、纏蔵は爪先立ちで、足音をたてずに道場を出て行こうとする。
だが、その纏蔵の肩を力強い手がガシッと掴んだ。
「爺ちゃん。さっき……アパートの家賃って言っていたよね?」
よく考えればおかしいのだ。纏蔵は結構な大金を、この一週間足らずで使い切っている。競馬や飲み代で消える額ではない。株だって一週間以内に倒産するような会社は、整理ポストに入ることも多いし、ギャンブル好きの纏蔵が騙されるにしてはお粗末過ぎる。
だんだん祐人の中で、考えが整理されてくる。
(まさかこの野郎は……あの高層マンション……高いものでは確か……)
「おいジジイ! あれは……あれはなぁぁ! 分譲マンションだああああああ!!!」
「ぎゃー! 祐人! 落ち着け! 落ち着けぇぇぇ!」
「これで落ち着いたら! いつ取り乱せるうううう! こんのぉ色ボケジジィ!!」
「ギャー! げふ!」
このようなやり取りの中、いつか母親が言った言葉を祐人は明確に思い出していた。
『祐人……。絶対に、この通帳をお爺ちゃんだけには、ぜぇぇぇったいに見せちゃダメよ!』
祐人は涙目になりながら、この大事なことを忘れていた自分を呪った。
(ははは! 死んでしまいなさい、ジジイも僕も! 死んでしまいなさい、ふははは!)
「と……いうことがあってね」
茉莉に振られた云々の話や、堂杜家特有の問題については省略したが、祐人は目を瞑り「フッ」と表現しようのない笑みをしている。
「「「………………………………」」」
三者三様の反応。一悟は半目で、茉莉は眉間を右手の親指と人差し指で摘んで俯いている。静香は固い笑顔で、おでこから汗を流していた。
(((いや、もう……なんと声を掛ければいいのか……)))
一悟は、祐人の祖父には会った事がある。確かに変わった、いや第一印象は変人? な気がしただけかと思っていた。いや、思いたかった。こう見えても常識的な一悟は、他人のご家族を悪く思うのは失礼だという思いがあった。
「あ! もう時間だよ! 茉莉も自分の教室に戻らないと。私達も席に着かなきゃ」
気付くと他の生徒達は順次、席についている。四人も別れ、各々のクラスの席に着いた。
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