第173話 すれ違い⑪
(何て奴だ! 堂杜祐人!)
祐人の蹴りで上空に吹き飛ばされた止水はそのように考えていた。
それでいて、それでいい、と内心考えている。
止水は自分の粉砕された左腕とそれにとどまらずに肋骨を数本持ってかれたことを確認した。
(堂杜祐人……何故、すぐにとどめを刺しに来ない? 何故、俺と志平たちにそこまで拘るのだ? お前ほどの男ならば、俺を殺し、伯爵の命もとりに行くことも可能だろう……)
止水は静かに目を閉じる。
「志平……お前はもう一人前の男だ。もう俺は忘れろ。俺はお前らにこれ以上関わってはならぬ男だった。一度、闇にこの身を染めた俺がいる限り、何度でも闇は俺を追い、そしてお前たちを巻き込む。これをここで断ち切らねばならんのだ」
そして、止水らしからぬ縋るような目で突き抜けるような空の向こう側を見つめた。
(堂杜祐人! 頼む、俺を殺してくれ! お前しかいないんだ。今の俺の全力を受けとめて俺を倒せるのは。俺に死鳥らしい最後を与えてくれるのは。俺は燕止水ではない。ただの止水……生を運ぶ水を止める者、死鳥の止水だ!)
止水は決して掴むことは出来ない距離にある朝日に目を向ける。
「……思思(シーシー)」
止水から漏れたその名は、止水に姓を与えた張本人、志平の実母でもある燕思思だった。
重傷を負い、流れ着いた寒村で思思に拾われ、傷を癒しながら志平や世間に見捨てられた子供たちと過ごした日々が止水の脳裏によみがえる。
(俺は……生きるために力を振るうことしか知らぬ男だった)
止水は自分がどこで生まれたのかも知らない。気づいた時には幼いながらも物乞いをし、時には盗みを働き、その日をただ生きのびる毎日だった。
名前も姓もなく同じような境遇の子供たち数人と雨風を何とかしのげるスラム街の小屋に身を寄せていた。
そして、ある日の夕方、スラム街を歩く怪しい老人を見つけ、仲間と協力し金目のものを奪おうと計画する。
それが後の仙道の師、悪仙|崑羊(こんよう)だとは止水に知る由もなかった
崑羊は年端も行かぬ悪童たちを容赦なく叩きのめすと、その中で一人なんとか立ち上がり、崑羊を睨みつけた少年を見て、目を隠すほど長い眉毛を片方だけ上げた。
「ほっほう、立ち上がるか、小僧。これは面白いのを見つけたわい。おい、小童、名は何という?」
「名前なんか……知るか!」
「ふむ……名もないとはなぁ。それでは困るのう……まあ、良いか、名は本来与えられるものではない。自分で名乗るか、誰かに呼ばれるものだわいの」
「クソジジイ! 金目のものを置いていけってんだ!」
「この状況を見て、まだそんなことが言えるとは……大した小僧じゃわい。仲間の怪我が心配ではないのか?」
「別にこいつらは仲間じゃない!」
「ほっほう、生きるために集まっただけか。だが、それをその歳で言い切るとはのう。気に入った。儂は崑羊、知るところでは悪仙とも呼ばれている。儂のところに来てよいぞ」
「何を……あ!」
そして、その少年はその街から姿を消した。そして、数十年後にその少年は主に社会の裏側に姿を現すことになる。
死鳥の止水……そう呼ばれて。
(そんな俺が安穏とした生活を得るとは思いもしなかった……)
思思は傷が少しずつ癒えて、毎日畑仕事をこなす自分たちをただ眺めている止水に声をかけた。
「傷はもういいのかい?」
止水は虚ろな目を僅かに思思に移す。
「……世話になったな。この礼は……」
「当り前だよ! すぐに返しな」
「ああ、金は必ず……」
「はん? 何を言ってんだい。ほら、すぐに手伝いな。大の大人がいつまでも休んでるんじゃないよ。やることなら腐るほどあるんだから! それとあんたに金なんか期待しちゃいないから、労働で返しな」
そう言う思思は止水にボロボロの農具を放り投げた。
それからの数年間、止水は思思が過労で亡くなった後もこの寒村で過ごすことになる。
その間に思思と子供たちの境遇を止水は知った。
そして、止水は闇夜之豹からの依頼が来て、心に刻んだことがある。
ここでの生活こそが、子供たちと必死に生きのびてきたこの場所こそが自分にとって初めて得た居場所であったことを。
それは崑羊との修行でも得ることのできなかった孤独からの解放でもあった。
だから今の止水なら分かる。
思思や子供たちとのやり取りによって得られたものが、どれだけの価値を持っていたのかを。
“あんた名前は? ふーん、で苗字は? は? ないのかい? 仕方ないねぇ、だったら今日からあんたは燕を名乗りな。嫌なら別に構わないけど”
“止水、あんた図体だけはでかいんだから、自分の食い物は自分で取ってきな。残ったものを子供たちに分けるから。はん? 仕方ないだろう、子供たちが増えたんだから”
“止水、私がいない間、子供たちを頼むよ。まだ玉玲なんかは小さいから夜はあんたが一緒に寝てあげな。こら、そんな顔をすんじゃないよ!”
“何を言ってんだい、こんなことぐらいで体を壊すほど私はやわじゃないよ。ちょっと休んだらすぐに良くなるから。志平と止水は子供たちを見てやっておくれ”
そして、思思が亡くなる前夜。
止水が思思と最後に交わした言葉。
「止水……こっちにおいで。そう、そこに座りなさい。止水、あなたには伝えておくよ」
止水は無言で思思の粗末な寝床の横に座り、思思を見下ろした。
「ありがとう……止水。あんたが来てくれて本当に助かっていたんだよ」
止水の目がやつれた思思の顔を捉える。その止水の目には僅かな不安と寂しさが混じっていた。思思はそれを知ってか知らずか、できる限り張りのある声を上げる。
「あんたにとってここはあまりに小さく息苦しかったでしょう。でも、最後にお願いをさせてもらうよ。あ、万が一だよ? 私はまだ、たくさんやることがあるからね。でも、万が一……私に何かあったら、志平たちをよろしく頼むよ。大丈夫、あなたをいつまでもここに縛るつもりはないよ。志平が一人前になるまででいい。その後は、あなたは自由に羽ばたきなさい。今度は死鳥などではなく……鴻鵠(こうこく)のように”
無表情だった止水の顔が驚きに変わった。だが、この時の止水は自分を死鳥と呼んだことよりも、思思の体から発せられる氣があまりに少ないことに驚いたのだ。
止水はまるで、未熟な少年が何かに怯えるように思思を見つめてしまう。
「止水……あんたはね。あんたも……私の息子だったんだよ? そう、突然できた燕家の長男さ。でも、男はいつか巣穴から羽ばたくもの……。ははは、馬鹿だね、大の男が泣くんじゃないよ。良い男が台無しだよ、止水坊」
そう……止水はこの時、生まれて初めて涙を流したのだった。
止水はこの日にようやく理解した。もう自分は止水ではなく、燕止水であったことを。いや、燕止水になれたことを。
止水は様々な想いの中、思思を見つめ、思思の最後の願いを受け取ると小さな声で答えた。
「分かった。後のことは俺に任せればいい……」
「……母さん」
思思は弱弱しくはあったが、大きく頷いて笑顔を見せ、涙を流す長男の手を強く握ったのだった。
止水は闇夜之豹たちが戦っているはずの広場の淵に落ちる直前に体勢を立て直し、着地した。
止水は口から流れる血を拭い、祐人がこちらに向かって来ているの察知しながら棍を握りしめる。
(思思……すまん。俺は志平たちの長男として相応しくはなかった。だが……俺は必ず志平たちを守る! この状況の元凶を作った俺の死によって! 俺にはそれしか思いつかん。説教はそちらで受ける)
止水は最後の仙氣を振り絞るように練り始めた。
「これは……!? 止水?」
四天寺の精霊使いたちに作られた地下にで、ハッとしたように志平が呟いく。
志平は唇を噛み、いてもたってもいられず自分の膝で眠る玉玲をそっと毛布の上に寝かしつけた。
「みんな、絶対ここから出ちゃ駄目だぞ!」
他の子供たちにそう言うと志平は勢いよく立ち上がった。
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