第64話 一悟の受難⑤

 


 まさに、今、開けられた一年D組の扉からすらりとした女性の足が入ってきた。もちろん、それはこのD組の支配者、高野美麗のものである。


 よく見ているはずのこの光景が、一悟にはまるでスロー再生された映画のように見える。


 一悟は極度の緊張の中、必死に自然を装っているために、明らかに不自然な顔をしていた。だが、一悟にはそれに気づく余裕すらない。


 担任の高野美麗は、いつも通り背筋を伸ばした姿勢で澱みなく、前方の教壇に歩を進めるが……教室に入ってすぐの祐人の席の前で……足を止めた。


 一悟の心臓が、跳ねた。


 それはもう……史上最強打者に場外ホームランを打たれたほどの距離くらい跳ねた。


 そして……高野美麗はゆっくりと祐人……いや、傲光扮する偽祐人に顔を向ける。


 驚愕した。


 だが、驚愕したのは、クラスの生徒たちだ。


 何故なら、あの高野美麗が……一瞬だが……そう、ほんの一瞬であった。この2ヵ月間ずっと、この超クールビューティーを見てきたD組の生徒だからこそ分かった。


 それは、この女聖帝高野美麗が……、


 動揺した顔を……見せたのだ。


 そして、驚愕しているためにクラスの生徒のほぼ全員が、その後の高野美麗の微妙な動きに気付かなかった。


 一悟を除いて。


 これもほんの僅かな動きだった。


 一悟も見間違いかもしれないと思うほどの僅かな動き。


 それは……既にいつもの表情に戻っている高野美麗は、その偽祐人に……、


 会釈をしたのだった……。


(え!? 今……美麗先生、傲光さんに軽く頭を下げなかったか?)


 傲光は一悟に言われた通り、祐人の席に座り……何というか、無駄に堂々としている。その姿もそれだけで、恰好がよく見える。


 恰好の良さや可愛らしさというのは、思ったよりも内面が左右するものなのか? と、一悟は思わず考えるが、今はそんなことを深堀している暇はない。


 だが、高野美麗はいつもの顔でそのまま教壇の前に立つと何事もなかったように、出席をとる。


 生徒が一人ずつ名前を呼ばれ、クラスメイト達は少々上擦った声で返事をしていた。声には出さないが、美麗の一瞬だけ見せた動揺の顔が、生徒たちにより大きい動揺を与えているのだろう。


 この時、一悟は先ほどの高野美麗のことで頭を混乱させていたが、急激に冷静になる。


  というのも、堂杜君、と高野美麗が呼んだ時に傲光がしっかり返事をしてくれるか心配になったのだ。


 だが、それに一悟が気づいた時には、もうすぐ祐人の呼ばれる番になっていた。


「……相馬君、……玉田さん、……」


(あああ、まずい! でも、どうやって伝えるよ? 傲光さん、頼む! 空気を読んでください! 返事をして下さい!)


 祈るようにする一悟。


  そして……


「堂杜君」


 そう高野美麗が発した。


 すると、一瞬の間がクラスを覆う。


 ……返事が遅い。


 ブワッと一悟の全身から脂汗が滲み出た。


 一悟から見て右前に座っている偽祐人こと傲光は微動だにしない。さらに、僅かな間が流れたが、この僅かな時間でも一悟に耐えられる時間ではなかった。


 もう、注意されても構わないと覚悟し、一悟は何とか傲光に気付いてもらおうと席を立とうとした、その時……


「ふむ、堂杜君はいるわね。では……永井さん」


 と、高野美麗は言い、次の生徒の名前を呼び始めた。


(はあ!? 今、美麗先生が返事をしないことを許したぁ??)


 驚きの連続で一悟は頭がついていかない。


 今、女聖帝に対し、明らかに返事をしない、という無礼を働いた祐人を、許しただけでなく、むしろフォローをしたようにも見える態度。


 一悟は机の上に突っ伏すように、高まった感情を押し殺す。


「……あ、ありえねーよ! ありえる訳がない! あの女サ○ザーが、この無礼を許すわけがない……」


 思わず両拳を固め、下を向きながら一悟が非常に小さな声で呟き、プルプル震えていると、何故か、美麗の眉がピクッとした。


 美麗から一瞬、出された闘気が生徒たちの間を駆け抜け、D組の生徒たちの体が無意識に震えだした。


 この後から名前を呼ばれた生徒たちは、泣きそうに返事をしている。


 一悟は、自身が何通りも想定していたことから、すべて超えた事態になり、理解が追いつかず、この美麗の放つ闘気に気付かない。


 何故なら、今、一悟の持つ全器官と全感覚が美麗の不可解な行動を解析しようと集中していたのだった。


  何故こうなったか分からないが、今の一悟は、完全に偽祐人、つまり傲光の保護者のような立ち位置になってしまっている。


 元々、唯一、偽祐人の正体を知っている一悟は、これをフォローするつもりでいた。今日はすべて、傲光のフォローで費やす覚悟までしていたのだ。


 そのような悲壮な覚悟を持っていた一悟だが、起きた事象だけを見れば、順調に進んでいる……。


  だが、その内容は最大の障害であるはずの美麗が大きく貢献しているのだ。


(何だ? 何故だ? どういうんだ?)


 実は、一悟は疑問が生じるとそれが分かるまで問題に固執する傾向があった……。


  一旦、冷静になると事態を俯瞰(ふかん)するようになる一悟だが、今はまだその状態まで至っていない。


  何故なら……


  相手は、あの高野美麗、その人だからである。


 一悟は顔が机に着きそうなくらい近づけ、小声で自問自答する。


「……普段の女サウ○ーであれば、配下(生徒のこと)の無礼を見れば、汚物を消毒するように、注意するはずだ! 機嫌が……いや、運が良かったのか? いや、しかし、相手はあの女○ウザー美麗だぜ? こんな都合の良いことが……」


 美麗が片手で持つ出席簿……分厚いカバーに挟まれている出欠簿だが、突然、カバーごと拉げた。


「「「「ヒ!」」」」


 D組の生徒たちは美麗の行動に意味も分からず、涙目になって、断末魔のような声を上げる。


 気付いていないのは、一悟だけ。


「……中馬君、……能勢さん」


 徐々に一悟の呼ばれる番が近づいてきている……。


 そして……


「……袴田君」


(分からん……。さっぱり分からん……。今日の美麗先生はおかしい)


「……袴田君」


 迂闊にも一悟は美麗に呼ばれていることに、気が付かない。


 すると、美麗が静かに動き出す……。


 美麗はいつもの無表情で拉げた出席簿を持ちながら、ゆっくりと一悟に向かい歩き出した。


 クラスの全員が固まり、目だけで美麗を追う。静香は一悟の左後ろから声をかけようとしたが、出来ないでいる。


  というより、出来るわけがなかった。何故なら、相手が高野美麗なので。


 クラスの中には、既に一悟のために合掌をしている者や胸で十字を切る者もいた。


「……袴田君」


 美麗は一悟の前に立った。


 この時、ようやく一悟はその気配に気づく。


  ……一悟の額からタラ~と極冷の汗が流れる。


 身体が意思と無関係に震えだし、一悟は……ゆっくりと……顔を上げた。


 そこには……汚物を見るように自分を見下す女聖帝の姿が……しかも、目の前。


(あああ……俺、消毒されるんだなぁ)


 一悟が短い人生を振り返り始める……。


  それと同時にクラス全員が、少々、先取りで一悟の冥福を祈りだした。


 が、その時……


  その女聖帝様の後ろ、一悟から見て右斜め前から凛々しい声が上がった。


「一悟殿、呼ばれていますよ。返事をされた方が良いのではないかな?」


「「「「「……!」」」」」


 まさかの、この状況下での発言者の出現にクラス全員の視線が集中した。


 何と、その発言者は祐人の姿をした傲光であった。


  普段ではあり得ない堂々としたその祐人は、悪びれもなく、すまし顔で一悟に体を向けていた。


 美麗も顔半分を祐人の席のある後方に向け、無表情に目だけを偽祐人に移す。


  一悟はその傲光の言葉で出来た僅かな間合いを使い、反射的に返事をする。


「すみません! はい! 袴田、います!」


  あの高野美麗を前に全く、臆するところのない偽祐人が神々しく見えたのは、一人や二人ではなかった。


  なんと言う勇者だ、と、まるで、突然現れた世紀末救世主を見るような表情のクラスメイトたち。


 だが……そうは言えども、相手は高野美麗だ。


  その他、大半のD組のクラスメイトには女聖帝の消毒対象が増えただけのように見えた。


「「「「「ゴクリ……」」」」」


 全員が固唾をのむ。


 一年D組に静寂……。


 すると……美麗は体を翻し、


「よろしい……。返事は早くするように。堂杜君、ありがとうございます」



(((((えーーーーーーー!!)))))



 美麗は何事もなかったように教壇の前に戻り、出席をとり終わると、その後のホームルームを手際よく実施して教室を出て行った。


 担任の美麗が出て行き……残された生徒たちがその存在が遠ざかるのを確認すると……


  一年D組はまるで堰を切ったように大騒ぎになった。


「うおおおお! 堂杜、スゲェーーな! 美麗先生の前で!」

「堂杜君、すごーい! それに……今日の堂杜君、何か格好いい……」

「お、俺、動揺した美麗先生見ちゃったよ! 寿命が! 百年縮んじまう!」

「美麗先生の動揺した顔も素敵だった……あと……堂杜君も……」


 傲光の周りにクラスの人だかりができて、もう、まるでお祭り騒ぎだ。皆、興奮したように先ほどのやりとりを振り返って、傲光を称賛している。


 男子は誰も彼も騒ぎ、女子は祐人の姿をした傲光に頬を赤らめている。


 先程、救われた憐れな村人(一悟のこと)は、その様子を見てポカーンと傲光を見ている。


「いや、皆さん、あの女人はそんなに理不尽な方のようには見えない。あれくらいで怒るような御仁ではなかろう」


 傲光が一人落ち着いた感じで応答すると、


「「「「「え?」」」」」


 皆が一様に驚いた顔をする。


  一悟がハッとして立ち上がり、祐人の姿をした傲光に詰め寄り、口を押えた。


「うわー! ば、馬鹿! 口調! ははは、こ、こいつ……ほ、ほら中二病だから……たまにね? こう言う口調がね? あはは……」


「むむう、済まない。一悟ど……一悟。失念……忘れてた」


 反省する傲光の横で、一悟は皆に誤魔化すように笑いかける。


「「「「「…………」」」」」


 クラスメイトは偽祐人を見つめ……


「「「「「うおおおお! かっけーー!!」」」」」

「「「「「ど、堂杜君…………ポッ」」」」」


 もう、大騒ぎ。


「はあー!?」


 思いかけず、一悟の想像に反して、クラスメイトは歓喜をもって傲光を受け入れている。


「袴田、何言ってんの?」

「ちょっと、袴田君どいてよ。堂杜君と話せないじゃない」


 一悟は、皆から傲光の横を邪魔だとばかりに追い出されてしまう。


  偽祐人はもう英雄扱いだ。むしろ、一悟はその英雄に救われたモブでしかないような扱い……。


「あら~?」


 一悟は、何だこりゃ……と、もう訳が分からない。


  これじゃあ、全然フォローする必要はないんじゃないか? と脱力する。


  そして、なんだか段々と一悟はやるせない気持ちに包まれていった。


「もう! なんなの!? こんなんなら、さっきの俺の緊張を! 覚悟を! 返してくれよー!」


 一悟はもう涙目で、訴えるようにD組の生徒の中心で崇められている傲光を睨んだ。


「う~、俺の好感度超アップ計画が! 何でこうなった!?」




 その後、静香の話によると、今日は運よく茉莉は委員長の仕事が忙しく、D組に顔を出せないことが分かり、一悟は二度目の脱力を起こす。


 傲光扮する偽祐人はというと、休み時間の度に、女子生徒達からのお誘いを受け、休み時間のほとんどは、それら女子達と時間を過ごした。


 すっかり、へそを曲げた一悟は一人で「俺の好感度が……」とブツブツ言っている。


 静香は面白そうにこの事態を眺めて、何かメモっていた。



 朝のホームルームを終えた後の美麗はというと……。


 美麗は教室を出て暫く廊下を歩いていると、決して誰にも見せない困惑した表情をし、独り言を吐く。


「全く……あの子は……。何てお方と契約しているの……。まさか……東海竜王様だなんて……」


 これもまた珍しく、美麗は軽く頭を押さえた。






 放課後、傲光は疲労困憊(ひろうこんぱい)の一悟の元にやってきて、共に誰もいない校舎裏まで行くと一悟に頭を下げた。


「一悟殿、本日は大変お世話になりました」


「あ、ああ、別にいいって」


「誠に恐縮ですが、後、五日間よろしくお願い申し上げます」


 一悟は目を広げる。


 そうだった……。今日はまだ、祐人が休んで一日目だった。後、五日間もある。


 ガクッと項垂れる一悟。


「あ、明日もこの調子でよろしく頼みますよ、傲光さん……」


「は? 私は今日でおしまいです。明日は他のものが来るので、また改めてよろしくお願いします」


「え? はあーーん!? 明日は傲光さんじゃないの!?」


「はい、そのようにお伝えしたつもりでしたが……」


「いーー! そうでしたっけ?」


 あまりのことがありすぎて忘れてた。


 今日は傲光のおかげで、休み時間の度に祐人の姿をした傲光とお話ししたい女子の交通整理(静香にも手伝ってもらった)で休んだ覚えはない。しかも、上手く整理しないと女子からの恨みを買いそうになり、そのため、必死に一悟は取り組んだ。


 一悟は好感度アップどころか好感度を落とさないように必死だった。静香は何故か楽しそうに、女子から頼まれた写真撮影にも積極的に応じていた。


  一悟が思い出すに、静香は静香自身の携帯でも祐人と女子達の写真を撮影していたような……気もしたが、勘違いかもしれない。


  まあ、白澤さんが来なくて本当に良かったと、この件だけは一悟も胸を撫で下ろしていた。


 そして、特に大変だったのは体育の授業だった。


  今日の体育は野球の試合だったのだが、そこで傲光がバットを槍のように扱い、バットの尖端でボールを貫くと、吉林高校における次代の野球部エース候補である鎌田君の耳をかすめ、場外まで弾き飛ばし、先生があんぐりしていた。


  その後、鎌田君は野球を辞めると言い出し、一悟が必死に宥めた。


「はい、明日は白というものが来ます」


「ははは……そう……。で、どんな人かな?」


「はい、無邪気で好奇心旺盛な子です。少々、元気すぎるところがありますので、良く言い聞かせておきます」


「……」


 それは大変そうだ……。


  出来れば、元気なく無関心な子がいい。


「もちろん、祐人の姿はしてるんですよね?」


「はい、もちろんです。ただ、心配な点があります」


 まだあるのか。


「白は女の子ですので、もし、明日も体育という科目がありますと、他の男性と一緒に着替えるのは難しいかと……。純粋な子ですので」


「えーー!? 女の子―!?」


「はい」


 これは面倒くさそうだ。


「あ、そういえば……これから日毎に、来る人は……」


「はい、違います。明日から、白、スーザン、サリー、玄、最後に嬌子という者たちが順番に来ます」


 一悟の肩は小刻みに震えている。


「あ、玄以外はすべて女性ですので……。それと私が言うのも何ですが……」


「ままま、まだ何かあるんですか?」


「特に女性の方々は……皆、個性が、その……豊かですので……」


「こ、個性が……ね……ははは」


「私からも今日、学んだことは良く伝えておきますので。一悟殿、この恩義はいつか必ずお返しします」


「ははは……、べ、別に、構いませんよ……。元々、祐人のフォローをするつもりでしたから」


「おお……」


 一悟の言葉を聞くと傲光は感動したように、目を手のひらで覆う。


「流石……御館様……。何と素晴らしい友をお持ちなのでしょう……。これも、御館様の人徳の賜物でございますね……」


 イラッ。


 一悟は祐人の能天気な顔が頭に浮かんだ。


(人徳だぁぁ? 祐人の野郎……)


「あ! そういえば、傲光さん。何で、名前を呼ばれた時に返事をしなかったんですか?」


 一悟は、傲光が朝のホームルームで美麗に名前を呼ばれたにも関わらず、返事をしなかったことを尋ねた。


 というのも、その後に一悟には返事をしたらどうかと言ってきたのだ。つまり、傲光は名前を呼ばれたら返事をするということは分かっていたということだ。


「いえ、卑しくもこの私が御館様の名前で返事をするなど不敬に当たります。あれは、どうしてもしたくありませんでした」


「あ、ああ、なるほど、不敬ですか、ははは。あの祐人にね。そうでしたか……ははは」


 それを聞き、一悟は乾いた笑いをする。


「はい」


(そんな理由で俺が消毒されそうになったのか……。祐人への不敬ってやつで……。その何の価値も感じられないやつで……)


「では、私はここで、失礼いたします。早く帰って本日の経験を報告したいので……」


「あ、分かりました。よ~く、しっかり、確実に伝えておいて下さい! 特に俺が言ったことは何度となく伝えて下さい!」 


「承知いたしました。一悟殿、またいつか!」


 そう言うと、傲光はフワッと姿を消した。


 忽然と姿を消した傲光に一悟は驚くが、フッと大人びた笑みをこぼす。


 そして……一悟は拳を上げた。


「コラァァァーーーー! 普通に帰れーー!! 誰か見てたらどうすんだぁーー!!」


 そして、一悟は肩で息をして、もう一度大きく息を吸う。


「祐人ぉぉぉーーーー!! 帰ってきたらぁぁぁ! 必ず、ぶっ殺すーーーーーー!!」



 一悟は吉林高校の敷地内にある、裏山に向けて魂のこもった雄叫びを上げるのだった……。



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