39.森で出会った裸族という表現

 ずずっ。音を立ててお茶を啜ったのは、アムドゥスキアスだった。いつの間に入り込んだのか、婚約者の足元でカップのお茶を飲む姿は飼い犬のようだ。苦笑いしたレライエの膝に乗せてもらい、嬉しそうに頬ずりした。途端にぱちんと頬を叩かれる。


「顔を拭くんじゃない」


「ごめ、ん、なさい」


 しょんぼりと項垂れる姿は哀れを誘うが、確かにお茶を飲んだ彼が顔を押し付けたスカートに染みが出来ていた。女性としては迷惑この上ないペット……いや、夫である。


「ねぇ、翡翠竜。そのうち捨てられるよ」


 夢中になって聞いていたベールの話の余韻を台無しにされ、ルキフェルがぼそっと爆弾を落とす。青ざめた翡翠竜が妻の顔を窺い、それから自分が顔を押し付けたスカートに目を向ける。小型もみじの手で何度もスカートを撫でた。仕方ないと溜め息をついて許すあたり、レライエの方がよほど大人だ。


「もういい。これからは


 いろいろな意味において気を付けろ。と忠告するレライエの優しさに、アムドゥスキアスはこくんと頷いた。再び小声で謝罪を繰り返す。手荒に見える所作で撫でられ、ほっとした顔で翡翠竜は妻に甘えた。


「どこまで話したかしら?」


「ベールが森で出会った裸族と戦ったところまで」


 ルキフェルが端的に話をまとめたが、その表現にアスタロトがお茶を吹いた。


「ちょっ! 汚いわね」


 お茶が撥ねたと怒るベルゼビュートをよそに、苦しそうに咳き込むアスタロト。慌てたルーサルカがハンカチを取りだすが、受け取ったアスタロトはそれを収納にしまって別のタオルで口元を押さえた。ここにルシファーかリリスがいたら「持ち帰るんだ?」と疑問を口にしただろう。ここに残る大公女達にそんな勇気はなく、見なかったことにされた。


 確かに発見当時、服を着ていなかったルシファーだが……あの容姿でそれは危険だ。全員がそう感じた結論は同じでも、途中の考えはズレていた。美形が裸だと襲われると考えた者、あの凶悪なまでの強さを持つ魔王が裸……と認識した者、戦うにしても目のやり場に困ると悩む者など。


「残りは?」


 もう一つ話が残っている。そう主張するルキフェルだが、大公女達は一区切りついたと立ち上がった。それぞれに家庭を持つ身である。仕事で拘束されるのでなければ、そろそろ帰らなくてはならない。話の中身に興味があったとしても……妻であり、母だった。


「楽しいお話の最中ですが、私はこれで失礼いたします」


「待って、私も一緒に帰るわ。本日は貴重なお話をありがとうございました」


 シトリーが立ち上がり、ルーシアが続く。レライエも夫アムドゥスキアスを抱き上げて一礼した。皆が帰るなら私も……ルーサルカも帰宅の挨拶を始める。ここで今日は一段落となった。ルキフェルはベルゼビュートに話を聞こうとするが、彼女も息子を預けているので帰ると言い出す。


「ルキフェルは独身だからいいけど、妻や母は忙しいのよ」


「自分だってつい先日まで独身だったくせに」


 ぼそっと呟くルキフェルの不満そうな顔に、ベルゼビュートは余裕を見せた。


「つい先日はもう13年も前よ」


 ふふんと笑ってエリゴスと部屋を出ていく。残されたアスタロトはまだ咳き込んでおり、ルキフェルもさすがに諦めざるを得なかった。


「わかった。明日でいいや」


「明日は忙しいので、明後日以降にしましょう」


 話すと言った以上、約束は果たします。そんな口調で、まだ荒れた声を絞って日程を調整するアスタロトは、紅茶で汚れた机の上を綺麗に片付ける。彼らが出た部屋の明かりが落ちて……魔王城の夜はゆっくりと更けていった。

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